今夜は君の夜屑
ちょっと一旦、考えさせて。
そう言うと、橘はふわりと笑って「分かった」と言った。
すぐに返事ができなかったことを怒るわけでもなく、不機嫌になるでもなく、柔らかく受け止めて、それからその話は出なかった。
そのまま詩乃の家で、麻婆豆腐を丼にして美味しいと食べ、お風呂に一緒に入るかと悪戯っぽく聞き、詩乃が断ると残念そうに諦めた。
詩乃のスキンケアを使った橘が、これを使うと肌の調子がいい気がするとボトルの写真を撮って、その日はゆったりと過ごして、ベッドで詩乃を抱きしめながら寝た。
次の日早いからと詩乃よりも先に家を出ていった橘の様子はいつも通りで、自分もいつも通りに振る舞えていただろうかと見送った後、一人残された家で思った。
頭の一部が働いていないような気がする中で準備をして出勤し、真菜にランチの約束を強引に取り付けた。
あまり悩みを人に相談して解決するタイプではないが、誰かに聞いてもらわないと上手く処理ができない気がした。
「詩乃ちゃん、春田さん」
「あっ、ハシケン、お疲れ!」
ランチの時間になり真菜と外に出ようとしていると、エレベーターホールにやってきた橋立に声をかけられた。
手には閉じられたパソコンがあり、このフロアでの打ち合わせ帰りだろう。
「今からランチ?」
「そう!ハシケンもどう?」
「えっ」
「いいじゃん、ハシケンにも聞いてもらおうよ」
「なになに、聞きたい。パソコンだけ置いてきていい?」
「いいよ、下で待ってるね」
「えっ」
「ありがとう、急いで行く!」
詩乃を置いてけぼりにして会話が進んでいき、詩乃は二人の顔を見合わせることしかできない。橋立に話すのは何となく気が引けるが、橘をよく知る者として聞いてもらってもいいのかもしれない。
一つ下の階で橋立はパソコンを置きに一度抜け、ビルの一階で待っていると、ニコニコとした橋立が走ってきた。
「お待たせ、何の話だったの?」
「んー?会社じゃできない話ー」
語尾に音符マークがつきそうなくらい楽しそうな真菜がそう言うと、何か感じ取ったのか「なるほどねー」と橋立も笑った。
最近話題になっていた台湾料理屋に入ると、注文を終えた真菜が席に戻るなり、橋立に言った。
「詩乃、同棲提案されたんだって」
「えーっ」
「ちょっと、早いよ」
「何よ、この話をしに来たんだから、早速話さないと」
四人席で二人の視線を受け、詩乃はテーブルの上のレシートに目を落とした。
「で?朝はちょっとしか聞けなかったけど、同棲、するの?」
「考えさせてって言ったよ…だってまだ、付き合って二ヶ月だよ?」
「うーん、確かに早い。しかも同じ会社で、私なら別れたらどうしよって思う」
「早いよね?そうだよね?」
真菜との会話を聞いていた橋立が、目をぱちりとさせながら詩乃を見ていた。視線を感じて「何?」と聞くと、「びっくりしてる」と言った。
「橘くんってそんなタイプだとは思わなかったよね?」
「うん、そんなタイプじゃない。ガチで、初めてだと思う」
「そうなの?」
「モテる分、冷めてるからね。愛想は良かったけど内心顔だけで寄ってくる女の子なんて嫌いだったと思う。彼女は作ってたけど肩入れしてる印象はなかったし、一緒に住む提案するなんて考えられない」
店員がやってきて、それぞれの前に定食を置いていく。
台湾朝食が安く食べられるとあって、店内はそれなりに混み合っていた。
真菜の前に置かれたシェントゥジャンという豆腐のスープが湯気を立てている。
「えー、詩乃は特別ってこと?」
「そうなんじゃない?ベタ惚れなんだね」
「あの顔に愛されるって羨ましい。子どもの顔はきっと可愛いね」
「こっ」
「ねー、詩乃ちゃんも可愛いし、きっと可愛いよねー」
「待ってよ何でそんな話っ」
橋立と真菜が、ニヤニヤしながら想像を膨らませている話を、急いで止める。同棲の話だったのに、何でいつの間にかそんな話に。
「だって、前か後かの違いって言われたんでしょ?ほぼプロポーズじゃん」
「えっ」
「俺もそう思った、どうせいつかは結婚するでしょ?的なニュアンスかなって」
「えっ」
「逆にその言葉どう受け取ったの?」
「いや…一年とか?したらどうせ同棲するんだから、それが早まってもいい的な感じかなって…」
詩乃の言葉に、真菜は鼻で笑い、橋立は「いただきまーす」とルーロー飯をかき込んだ。
「詩乃、鈍いなぁ。分かる?橘くんは本気だってこと」
「意外と察しが悪いところも、橘を焦らせちゃうのかもねー」
「ねー」
本気。とは、どういう意味だろう。
結婚が?付き合いが?
そりゃ、付き合ったら最終的なゴールは結婚になるだろうし、今の付き合いが本気だという点では疑ってないし、詩乃だって本気で付き合っているつもりだ。
ただ、ちょっと時期が早いのではないかなという、そこが懸念点なだけなのだ。
「元彼のこと心配とはいえ、家の中まで送ってっちゃうような子、早々と囲っておきたいってことー」
「ねー、その後、あの場にいた営業の子にそれとなく探り入れられてる俺も、そう思うー」
固まる詩乃に、真菜は「冷めるよ」と詩乃の前に置かれたスープを指差す。
ハッとしてそれにレンゲを突っ込むと、膜がふわりと破けて、閉じ込められていた湯気が再び立ち上った。
「でも別に、送って行っただけで…だって病人だよ?普通じゃん」
元彼だとかそうでないとか、関係ない。
そこに気持ちがあるかどうか、そういう問題ではない。
そんな気持ちが顔に出ていたのか、橋立が口をもぐもぐと動かしながら、考えるように言った。
「でも詩乃ちゃん、あれが朝川くんじゃなくて俺だったら、家の中に入った?」
「…え」
「百歩譲って、家まで送って行ってくれたかもしれないけど、流石に家の奥まで上がり込んで、ましてやベッドの傍には行かなかったんじゃない?」
「…」
そう、かもしれない。
「財布を預けられたり、介助であっても身体を密着できたり、ベッドのところまで入れちゃうのは、昔付き合ってたからでしょ」
「……そんな、こと」
「お互いを信頼してて、肌を重ねたこともあって、相手に近づくことに遠慮がない」
「…」
「一回パーソナルスペース割ってる間柄って、そういうことよ」
真菜の言葉に、橋立が「そういうことー」と言った。
指先にあったレンゲが滑り落ちて、スープに音もなく沈み込んだ。
「それが…どう関係するの?」
私の話を聞いて、真尋も同じように感じたのだろうか。
隠し事はしないほうがいいだろうと、誠実でいようとした結果、それを間接的に伝えてしまったのだろうか。
「それが詩乃っていう人で、そこに善意しかないっていうのは橘くんも分かってると思うけど、だからこそ早いところ囲いたいってこと」
「そうそう、同棲して色々把握して、俺のものだーって公言したいんだよね」
二人がそう話している声を聞きながら、指先を浸して引き上げたレンゲを、おしぼりで拭いた。
「まぁ、嫌じゃないなら同棲しちゃえば?別に元彼に気持ちないんだし」
「朝川くんにとってもいいんじゃない?」
「え?ハシケン詳しく」
「いや知らないけど、なんとなく」
詩乃はぼうっとしながら、スープを掬った。
白くて少しとろみがある液体はクリーミーで、お酢が舌に広がって、口内を少しだけ窮屈にした。
嫌ではない。
橘にそういう思惑があったとしても、別にそれでいいとすら思った。
けれどこれは、いつものように流されて押し切られて決めることではない気がして、戸惑ったまま返事ができなくて、相談しただけなのに。
「考える…」
詩乃の言葉に、隣にいた橋立が「ゆっくり考えたらいいよ」と笑った。
少しだけ冷めたスープを啜りながら、ぼんやりと橘の顔を思い浮かべていた。