今夜は君の夜屑
月に一回の、いつもの橋立が企画する同期飲みの日だった。
今回も橘と詩乃、真菜、河瀬などが参加していて、前回よりも多い、十人程度での集まりだった。
橘も参加するとあって、真菜に頼み込んで、意図的に遅れて入った。
あれから一週間ほど経つが、同棲の話をされることもなく、普通に仲良く過ごしている。ただ同期飲み会で「詩乃」などと呼ばれるのは避けたい。
なので遅れて行けば、席は離れると思ったからだ。
その読み通り、橘は奥に橋立と向かい合わせで座っていた。
時間をちょっと過ぎてから入ったのにも関わらず、二つだけ席が空いていて、周りの同期と「お疲れー」と言葉を交わしながら、詩乃と真菜は向かい合わせに座った。
「ねぇ、そういえば今日千葉くん欠席ってメッセージ来てなかった?」
「あーそうそう、体調不良だって」
真菜の言葉に、詩乃は思い出しながら答える。
昼休みにグループトークに、【千葉くん欠席だって!コースで頼んでて当日だからキャンセル料かかっちゃうんだけど、誰か同期で他誘えないかな?】と橋立から連絡が入っていた。
「でも河瀬が一人見つけたって言ってなかった?誰?」
「さぁ、そういえば名前は言ってなかったね」
【一人確保した!】とピースサインの絵文字と共に、河瀬がすぐに返信していたが、その人物は明かされていなかった。
あたりを見回すと河瀬はまだ来ていないようで、きっともう一人と遅れて来るんだろう、そう思いながら隣の席の同期からドリンクメニューを受け取った瞬間、個室の扉がガラリと開いた。
「お待たせー!お、みんなもう揃ってるじゃーん」
「河瀬!お前、結局だれ誘ったの?」
橘の隣に座っていた男性同期が河瀬に声をかけると、河瀬は「まぁまぁ」と言いながら部屋に入ってきた。
「じゃーん、同い年で途中入社の、朝川くんでーす」
「あ、お願いします、すいません入れてもらっちゃって」
「いーのいーの!経営企画、みんなお近づきになっておいた方が得っしょ?」
真菜が勢いよく自分の顔を見たのが分かった。
奥で立ち上がっていた橋立もきっとこっちを見ているのだろう。
やめてくれ、なんでこんなに、関わる羽目になるんだ。
「今日たまたまさ、新規ツール導入の費用対効果検証の会議にいてくれて。年齢聞いたら同い年だったからさ、中途だしコネ多い方がいいじゃん?と思って誘ったー」
「そうなんです。ありがとう、河瀬くん」
目の前の真菜の顔しか、見られない。
そのまま空いている席が詩乃と真菜の隣だったため、河瀬が真菜の隣に座り、朝川と詩乃は隣同士になった。
詩乃の顔を見て、仕方なさそうに笑った真菜は、ニコリとしながら朝川に話しかける。
「朝川くん、急だったのに大丈夫なの?」
「あ、はい、全然、予定空いてたんで」
あの朝川が体調を崩した日、帰宅すると【ありがとう、迷惑かけてごめんね】とだけメッセージが届いていた。詩乃はスタンプを一つだけ返して、終わらせた。
体調がどうなのか、元気なのか気にはなっていたが、それ以上立ち入ってはいけないと思っていたのだ。
「ハシケンと新田とは関わりあるんだっけ?一緒にやってるんでしょ?」
「あ、うん…」
「でも方向性決まって、もう定期的に集まってないんだよねー」
「あ、うん、そう」
真菜の問いに答えながら、ハイボールが朝川の前に置かれるのを、つい目で追ってしまう。
頭には先日の倒れた様子が浮かんでいて、そりゃ、確かにここでソフトドリンクは浮くかもしれないけれど、大丈夫なのか。
そんな詩乃の表情を見てか、目の前に座る真菜が言った。
「朝川くんって前職広告代理店だよね?」
「あ、俺もその話聞きたーい。運用?激務だよな?」
「運用と…あとレポーティングとか、改善提案とかかな?激務だったね」
完全な善意で助けたと思っていたものが、一度恋人だった間柄だからこその介入だと真菜と橋立に言われて。肌を重ねたことがあるからこその距離感は、橘の時に分かっていたはずだったのに、気づけなかった。
同棲して囲い込みたいと、公言してしまいたいと、そう本当に橘が思っているかどうかより、そこまで思わせるだけのものを、自分は持っているんだろうか。
正しい、始まりではなかったのに、どうして私に、そこまで思ってくれるのか。
なんで、私は、真尋が好きだと思っているのに、すぐに答えられないんだろう。
なにか、心のどこかに、恐怖を感じている気がするのに、それがどういう類の気持ちなのか、上手く頭に落とせないでいる。
「…詩乃、飲み過ぎじゃない?」
飲み放題なのを良いことに、この思考を放棄してしまいたいような気持ちになって誰かがオーダーするたびに追加でアルコールを頼んだ。
頭の中がモヤがかかったようになって、ふわふわとした高揚感に包まれているようで、その久しぶりの感覚に気持ちよくなっていたところ、目の前の真菜がこちらを見ているのが分かった。
「そうだね…もうやめとく」
一度トイレに行こうと立つと、椅子にパンプスの先が引っかかり、くらりと身体が傾く。
咄嗟に隣にいた朝川の肩に手を置いてしまい、「ごめん」と謝ると、「大丈夫?」と心配そうな声が返ってきた。
顔をしっかりと見たのは、あの日以来。
そんなことをぼんやりと思いながら肩に置いていた手を離す。
「ごめん、お手洗い行ってくる」
「平気?」
「うん」
やばい、この空間には橘もいるんだった。
頭はまだまだしっかりしてるのに、酔ってよろけたと思われたらどうしよう。
すぐに元に戻った場の空気と、自分の中の気まずさから逃げるように、真菜の言葉に短く返して部屋を出ようとすると、
「詩乃、帰ろ」
「えっ」
その声に振り返ると、橘がリュックを背負っているところだった。
個室の扉は半開きで、半分廊下に出ていた詩乃の身体が固まる。
「ねぇ、詩乃のカバン取って」
「あ…どうぞ、」
朝川に声をかけて、椅子の下に置いていたトートバッグを渡させていた橘が、詩乃の後ろに立って、肩に手を置いた。
「えっちょっ」
「…橘と詩乃ちゃん、家近いもんねー、酔っちゃった?」
橘の身体で塞がれて、廊下に押し出されるように身体を押されて、個室の中の様子は見えない。
しんとした個室の中で、全員が会話をやめているだろう中、橋立の声が聞こえてきた。
「うん。俺、詩乃と付き合ってるから、送ってく」
そう言うと、橘は「ハシケン、お金は後で送金するから」と言って個室の扉を閉めた。
キュルキュル、カシャン、と軽い音がして完全個室を謳う扉が閉まると、河瀬の「えーっ!?」と驚く声が聞こえてきた。
「行こ」
「ちょっ、橘」
「真尋、でしょ」
背中を手でぐいぐいと押され、半ば強引に居酒屋の外へと連れ出された詩乃は、後ろにいた橘を振り返る。
「ごめん…」
「なんで詩乃が謝るの?」
「…あの、今日は、色々不快だったかなって…」
理由を羅列する気にはなれなくて、しどろもどろでそう言った。
橘の顔を見ると、怒っているのかと思っていた顔はそうでもなくて、いつも通りの飄々とした顔だった。
「別に、詩乃に悪気がないことくらい分かってるから」
「…怒ってない?」
「俺は怒ってないけど、詩乃こそ、いいの?」
いいの、とは、全員の前で連れ出されたことだろうか。
詩乃、と呼ばれたことだろうか。
付き合っていると言ったことだろうか。
「…まぁ…同期だし…いつかは言わなきゃって思ってたメンバーだったし…」
「そう?それなら良いけど。トイレは?行くんじゃなかったの?」
「あ、うん…行ってくる。荷物持っててくれる?」
「うん、行っておいで」
その言葉に、詩乃は軽く頷き、表示に従って、ビルの奥へと早歩きで向かった。
コンクリートの灰色に覆われた通路は、狭くて少し暗かった。
あれが、橋立と真菜が言っていた、「囲う」の一つなんだろうか。
橘が、そうしたいのであれば、別にそれで良いのかもしれない。
そう思う私は、異常なのだろうか。
それなのに、どうして私は、名前のつけられない感情と怖さに追われているんだろう。
その答えが見つけられないまま、アルコールの残った頭で、橘と並んで帰った。