今夜は君の夜屑
「あの日、朝川くんが来るなんて俺も知らなくて、ごめんね。橘にも申し訳ないよ」
「あれはハシケンも河瀬も悪くないよ、謝らないで」
翌週、二人に戻った橋立との会議では、「少し早めに集まれる?」という橋立とのチャットを受けて、十五分ほど前に会議室に入っていた。
「橘、大丈夫だった?怒ってた?」
「ううん、詩乃に悪気はないの分かってるしー、だって」
「そっかー良かったね。あれは俺もビビったけど」
「元々、付き合ってすぐに言いたいって言われてたんだよねー」
中途採用の会議は、各部署の役割が終了し、制作フェーズに入った。
実働は人事と広報だけになったので朝川も他のメンバーもいなくなり、二人だけの会議となっていた。
「え、そうなの?橘から?」
「うん、でも私が、もうちょっと後がいいって言ってたんだよね」
「そうなんだー、じゃあ遅かれ早かれって感じだったのか」
「うん。フォロー入れてくれようとしたのに、ありがとね」
会議室は、夕方の光が斜めに差し込んでいて、午前中の慌ただしさが嘘のように静かだった。
ガラス張りの小会議室の外では、人が行き交っているのに、ここだけ切り離されたような空気がある。
人数が二人になったので、融通のきく、定時の一時間前に会議を設定した。
「そしたらそのまま、部署に戻らなくても帰れるでしょ」と言っていた橋立に、抜け目ないなと思った記憶がある。
「全然。俺は詩乃ちゃんの味方だからって言ったでしょ」
「ふ、ありがと。あの後大変だったらしいねー」
「春田さんから聞いた?まぁ、あの場に十人いたからねー、そのうち広まると思うよ?」
「うーん…もうしょうがない」
外から見える手前、一応二人ともパソコンは開いているが、まぁ十五分くらいの雑談は許されるだろう。
「あれから同棲の話は進んだの?」
「いや、橘も言ってこないし、私も何も」
「迷ってるの?もうちょい引き伸ばすことにしたの?」
「うーん、なんか…なんか分かんないんだよね、自分の気持ちが」
「気持ち?」
橋立と二人の空間は、何も気にすることがなくて落ち着く。
これで朝川も残っての会議だったら、きっとまた気が滅入っていただろう。
人当たりの良さが雰囲気から滲み出ている橋立には、真菜とは違った話しやすさがある。
「なんで踏み切れないのか、私もよく分かんないの」
「…へぇ?」
「このまま流されて同棲までしちゃうのは…なんか怖い」
「怖い?橘が?」
「ううん、橘のことは好きなんだけど…なんだろ、よく分かんない」
橋立は少し笑って、「そっか」と言った。
詩乃の後ろから差し込んでいる光が、橋立を照らしていて、肌が綺麗だななんて思いながらぼんやりとその顔を見ていた。
「焦って決めることでもないし、それは橘も分かってるから待ってくれてるんじゃない?」
「そうだよね…すぐ決めなきゃってわけでもないもんね」
橘は、同棲の話をしてからも、今までと何も変わらない。
前と同じように週末は一緒に過ごし、平日も早く終われそうな日は詩乃の家に来ている。朝川のことを言われることもなく、穏やかに、甘い日々だ。
「じゃあ、仕事しよっか?構成は、今どうなってる?」
「あー…ふふ、そうだね。えっとね…トップで合う人の特徴出して、その後に社員インタビュー三本。最後に働き方のリアル」
「いいね、読みやすそう」
橋立の言葉に、パソコンの時刻を見ると、会議の開始時間になっていた。
しっかりしている橋立に詩乃は思わず笑みが溢れ、少しだけ晴れた気持ちで、画面を切り替えた。
「まだ日が明るいなー」
「夏だもんね」
「詩乃ちゃんはそのまま帰宅?」
「ううん、橘と待ち合わせしてる」
定時を少し過ぎた頃に、会議を終わらせてそのまま橋立と会社を出た。
橘も今日は早そうだと言っていたので、会社の近くのコンビニにて、待ち合わせの約束をしていた。
もう同期にも知られたことだし、広まるのは時間の問題だろう。
もういいか、という諦めの心が、橘のコンビニという提案を受け入れていた。
「仲良いねー、いいなー」と橋立が言いながら隣を歩く。
十八時を過ぎているが、まだ外は明るい。
「ご飯食べに行くけど、ハシケンも来る?」
「え、いいよー橘が嫌がるよ」
「ハシケンならいいんじゃない?」
「いーや、きっとあいつは嫌がる」
待ち合わせ場所がコンビニだと言うと、一緒に待ってるよと橋立が言った。
会社のすぐそばにあるコンビニまで歩いていると、そこから出てきた人物に、思わず足が止まった。
「あ…お疲れさま」
「お疲れー朝川くん」
コンビニからペットボトルの水を手に持った朝川が出てきて、少しだけ気まずそうに挨拶をした。橋立が軽く返し、ひらひらと手を振った。
「二人はこの後ご飯にでも行くの?」
「ううん、中途採用の会議終わりなだけー」
「そっか、もう二人でやることになったんだもんね」
朝川はそう言って、立ち止まって、買った水を一口飲んだ。
どうしよう、この後ここに、橘が来るかもしれないのに、またここで鉢合わせたくはない。
「じゃあ、またね朝川くん」
「うん…詩乃、この間」
「ストップ」
橋立が朝川の言葉を遮って、少しだけ大きな声を出した。
詩乃は思わず隣の橋立を見上げた。
「ここ、会社から近いし、名前呼びはやめとこ?」
「あ…そうだよね、ごめん」
「こないだ、彼氏いるって分かったし。ね、それぞれ立場もあるし」
朝川の奥にある、コンビニのドアが自動で開いて、電子音が聞こえてくる。
出てきたのが見知らぬ人物であることに、ホッとする。
隣の橋立は、いつものように穏やかな笑みを浮かべていた。
「そうだよね、ごめん。彼氏にも悪いし、できるだけ関わらないようにするよ。ごめんね、また」
「…うん…ごめんね…」
朝川は悲しそうに笑って、少しだけ頭を下げて駅の方に歩いて行った。
悪いことをした気持ちにはなるが、どうこうなる気がない以上、はっきり線引きはしておいた方がいいのだろう。
「…ありがと、ハシケン」
「ごめんね、つい口挟んじゃって」
橋立は、「暑いし中入る?」と店内を指差した。
むわりと漂う熱気から逃げるように、詩乃は頷いて橋立の後に続いた。
「きっと、自分じゃ言えなかった」
「はは、そうだろうねー。でも俺も、朝川くんの気持ち分かるからさー」
「え?」
なんとなく店内を見渡した橋立は、同じ会社の知り合いがいないか確認しているんだろう。そのままなんとなく奥の冷蔵棚まで足を進め、お茶が並んだエリアで足を止めた。
「知ってる?俺も昔、詩乃ちゃんのこと好きだったよ」
橋立が何気なく、棚のお茶を取りながら言った。
目の前に急に現れた、白く曇ったガラス扉で、橋立がどんな顔をしているのかは見えなかった。
「え?」
「だから俺も、惜しいことしたなーって思ってるけど」
橋立が扉を閉めて、緑茶を手に取って詩乃を見た。
そうして詩乃の後ろに視線をずらして、何かに気づいたような表情の後に、にこりと笑った。
呆然と立ち尽くしていた詩乃が振り返ると、橘が立っていた。
その顔は真っ直ぐに橋立を見つめている。
「橘、お疲れー」
橋立のいつも通りの声が、橘に向かって発される。
橘はそれに返事をしない。
橋立の手の中の、緑色の液体だけが、手の動きに合わせてちゃぷりと音を立てた。
これは、どういう、状況。