少年吸血鬼はハンターの未亡人に愛を捧げる

別荘に帰りたい

「待って!」ナタリアは立ち上がって叫んだ。

「ヴェネ⋯⋯!」

 ナタリアはそこでハッと我に返った。

彼はヴェネディクトではない。彼はアルフォンス・フォグリアだ。

濡れた手の平が夜風に当たって、ひやりと冷たい。

今しがたの恐怖が再び体に蘇ってきて、ドクッドクッと激しく胸を叩いていた。

灰になった襲撃者⋯⋯そうだ、ナタリアはバンパイアの襲撃を受けたのだ。

殺人の恐怖、磯臭い男の体臭。

だが、アルフォンス・フォグリア⋯⋯彼の、手の平を這う舌のねとっと張り付く熱さ。

あの時感じた異様な体の高揚。あの少年に全てを⋯⋯身も心も捧げても良いとさえ⋯⋯。

(それに、バンパイア! アルフォンス・フォグリアが⁉︎ でもあの時と同じだったわ。黒い霧、ヴェネディクトの遺骸⋯⋯)

「そうだわ、ベス。ベスは⋯⋯」

ナタリアはなんとか自分を宥めようと恐る恐る部屋に戻った。

あの男が遺した灰は吹き飛ばされたように無くなっていて、男がこぼした血も残っていない。

ただグシャグシャになったベッドシーツや捲れ上がったカーペット倒れた家具や雑貨類が散乱していた。

「ベス! ベス!」ベスの部屋のドアを激しく叩くと彼女はすぐに出てきた。

「まあナタリア様なんですかこれは? こんなに散らかして」

 絶句したベスはランタンで隅々を照らしながら割れたガラスをスリッパで端に寄せた。

「あの⋯ごめんなさい⋯それが⋯⋯その⋯⋯」

息の上がったナタリアの興奮した様子にベスは何か勘違いしたようで、憐れむようなため息をつくと静かに言った。

「ナタリア様、今晩は私のベッドでお休みください。私はソファで寝ますので」

「そんな! 悪いわ、体が休まらないわ」

「いえナタリア様。この部屋もベッドも元はと言えばイェーガー家の物です。それをメイドが先に使うわけにはいきません!」

ナタリアは自分の母親のような年頃のベスをソファで眠らせるなどそれこそとんでもない事だと思い強く反発したが、ベスは聞き入れなかった。

かと言ってあの男がのたうち回っていたベッドに戻って眠るくらいなら、ベスの足元の床で眠るほうがよほどマシだ。

結局双方が折り合いをつけて二人ともベスのベッドで眠ることになった。

夫以外で誰かと一緒に眠るなど子供の頃以来で緊張して眠れないかもしれないと思ったが、こんな異常な夜に一人で眠ることにならなくて良かったと内心胸を撫で下ろした。

その夜はベスの体温に安らぎながらも、襲撃者の顔や肉の焼ける匂い、アルフォンスの赤い瞳が順番に浮かんできて、まどろんでは目が覚め、明け方近くまで眠ることが出来なかった。

 だがそれでもいつの間にか眠ってしまい、初夏の日差しがカーテン越しに部屋を明るくする頃ベスに揺り起こされた。

部屋の中までバラの香りがただよっていて、ヴェネディクトがこの季節を楽しみにしていたことを思い出して胸が詰まった。

それに昨夜アルフォンス・フォグリアにすがりついてヴェネディクトの名を呼んだことも思い出し、じわりと涙が浮かんだ。

ベスが目を冷やすためにひんやりとしたタオルで、まるで幼い子どもにそうするように顔を拭いてくれた。

そして手早くナタリアの身支度を整えてれて、ナタリアは何事もなかったかのように朝食の席につくことが出来た。

朝の光は眩しく、昨夜の出来事は夢の中の出来事のようだった。

寝室でバンパイアに襲われて、たった一日前に初めて出会った少年がナタリアの窮地を救ってくれた⋯⋯そんな物語のような事が本当に起きたのだろうか?

テーブルに並んだ珍しくもない朝食のメニューを見たナタリアは、一体どちらが夢なのだろうかと呆然としてしまった。

だがギルバートとエリーゼとの憂鬱なテーブルに着くなり、ギルバートが厳しい口調でナタリアを問い正した。

「ナタリア昨夜の大騒ぎはなんだ!」

「え?」

ナタリアはギクリと顔を強張らせてギルバートを見た。

夫の言葉にエリーゼが言った。

「ギルバート、私は全く気がつきませんでしたわ」

ベスも頷く。

(そういえばアルフォンス様が助けてくれたけれど⋯⋯あの時彼が窓を叩く音も聞こえなかったわ)

ベスは昨日、あれだけ大声を出してナタリアが助けを求めたにもかかわらずなんの物音もしなかったと言っていた。

どんな仕組みかはわからないがきっと吸血鬼達の不可解な能力の一部に違いない。

「夜眠れなくて窓を開けたら鳥か何かが飛び込んできて、寝ぼけていたので何なのか分からず大騒ぎをしてしまったのです。申し訳ありません」

「フン!」と、鼻先で馬鹿にしたように顔をしかめるギルバートを見て、ナタリアはギュッと胃が絞られるような不快な気分になった。

 同じ家に滞在している女の物音に耳を澄ましている義兄の行為のおぞましさは、昨夜襲ってきたあの水夫に感じたものと同様のものだった。

義姉のエリーゼも強張った表情で手元のナイフを見つめていたが、突然立ち上がるとギッとナタリアを睨んで何も言わずに食堂を出ていった。

「エリーゼ! ギルバート、なぜ追いかけないんですか?」

ナタリアが声を荒げるとギルバートはエリーゼ以上に鋭い目つきでナタリアを睨んだ。

「何故?」

「何故って⋯⋯エリーゼは妊娠中です。そうでなくてもあなたは何故エリーゼを慰めないのですか? エリーゼの夫ですよ、あなたは」

「お前には関係ない! 一族の子の一人も産まぬ女に口出しする権利はない! それにエリーゼを不快にさせたのはお前だ。追いかけろというならばお前が追いかけるといい」

妻をも蔑んだギルバートの言葉にナタリアは思わず叫ぶように言った。

「私の部屋の物音まで聞き耳を立てているのに私には関係ないだなんて、そんなことがあるのですか、ギルバート!」

「何だと⁉︎」

ギルバートが恐ろしい形相で立ち上がりナタリアを睨んだ。だがナタリアはなぜか恐ろしいとは感じなかった。

馬鹿らしい考えだが、誰かが助けに来てくれると思ったのだ。

ナタリアの心によぎったのはまぎれもなくアルフォンス・フォグリアの顔だった。

「そうでしょう?隣のベスですら気が付かなかったというのに、あなたは一体どこで聞き耳をてていらしたの?」

いつになく攻撃的な気分になったナタリアは目いっぱいの嫌味をギルバートにぶつけた。

「何! 何だと!? 私が弟の妻を盗み見しているというつもりか⁉︎」

「まあ、まさか! ヴェネディクトが兄は決して不貞など働かないと言っておりましたから、私は彼を信じます!」

 ナタリアが勢い良く立ち上がるとベスが縋りつくようにして言った。

「ナタリア様! ナタリア様、何てことを、早く謝罪なさって下さい!」

「申し訳ありませんギルバート」

 ナタリアは勢いのまま流れるように言った。

 ベスがまるで恐ろしいものを見たような顔で唇をわななかせてナタリアを見たが、ナタリアは笑い出したいような勝利の高揚感を感じていた。

「では失礼いたしますわ、御当主様!」

 食事はほとんど食べていなかったがナタリアは身をひるがえして食堂を出た。

 閉めたドアの向こうから食器が割れる音がしたが後片付けはナタリアの仕事ではないし、ギルバートにはまだナタリアに皿を投げつけないだけの分別はあるようだ。

 ナタリアが屋敷でエリーゼの世話をすることは彼らにとってすでに決定された事項らしかった。

 だがナタリアはもうこの家には居たくなかった。

 義兄のギルバートに耳を澄まされ監視されながらその妻の世話をするなど、とても耐えられないと思った。
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