キミと歌姫はじめました!
* * *
翌日。
衣装に着替え、最低限の荷物だけを持ってホテルを出る。
まだ人通りの少ない朝の空気は、少しだけひんやりしていた。
「眠……」
有栖がぼそっと呟く。
「隈、できなくてよかったね」
零がくすっと笑って返した。
「流石に根詰めすぎた.....」
そんな軽いやり取りをしながらも、足取りはどこか固い。
なにせ目的地が――花園ドームだからだ。
ライブ開始は14時。
現在は午前9時。
リハーサルのためにかなり早めの入りになる。
なのに。
(……なんか、もう始まるみたいな感じする)
胸の奥が落ち着かなかった。
* * *
大通りを出て、少し歩いた先。
視界が開けた瞬間――それはあった。
「……っ」
有栖の足が止まる。
目の前にそびえる、巨大な建物。
花園ドーム。
画面越しで何度も見たことはある。
名前だって、何度も聞いてきた。
でも――
実物は、まるで違った。
(でっか……)
言葉にならない。
ただそこに『ある』だけで、圧倒される。
ステージがある場所。
自分たちが立つ場所。
そのはずなのに、どこか他人事みたいで――
同時に、逃げ場がない現実でもあった。
「……行こ」
零が小さく言う。
その声で、有栖ははっと我に返った。
「う、うん」
頷く。
でも、すぐには足が出なかった。
一歩踏み出す前に、無意識に呼吸を整える。
吸って、吐いて。
もう一度。
(落ち着け、落ち着け……)
それでも、手のひらはじっとりと汗ばんでいた。
ぎゅっと握る。
制服じゃない。配信用の衣装でもない。
用意された、ライブの衣装。
その感触がやけに現実を強くしてくる。
隣を見ると、零も立ち止まっていた。
いつもよりほんの少しだけ、表情が硬い。
視線はドームに向いたまま。
何かを測るように、じっと見ている。
(……あ)
同じだ。
きっと今、考えてることも、
感じてることも。
「……大きいね」
有栖がぽつりと言う。
「うん」
短い返事。
でも、その声も少しだけ固い。
「ここでやるんだね、私たち」
「そうだよ」
当たり前の会話。
なのに、やけに重い。
数秒の沈黙。
遠くでスタッフが動く音。
搬入のトラックのエンジン音。
全部が、現実に押し寄せてくる。
「……今さ」
有栖が小さく声をかける。
「うん」
「今さ」
少しだけ笑おうとする。
でも、うまくいかない。
「……すっごい逃げたい」
半分冗談みたいな言い方。
でも、その奥は本音だった。
零は一瞬だけ黙る。
それから、
「……わかるよ、その気持ち。」
正直に答えた。
その一言で、肩の力が抜けた。
「だよね」
さっきまで張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。
「なんか安心した」
「安心するところかな」
「うん。零も人間だったんだなって」
「っ、ふふ。僕のことなんだと思ってたの」
少しだけ、いつもの空気に戻る。
有栖は一度だけ、大きく息を吸った。
それから、ゆっくり吐く。
胸の奥にあるものを、少しずつ整えた。
(怖い)
はっきり分かる。
でも――
(歌いたい)
それも、同じくらい強かった。
零と目が合う。
一瞬だけの無言。
でも、それで十分だった。
「……行こっか」
「うん。」
今度は、ちゃんと足が動いた。
一歩。
また一歩。
やりたいから、行く。
その気持ちだけを胸に、2人は入口へと進んでいった。
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