幼なじみの救命士は、再会した初恋の私を今度こそ逃がさない 〜拒否権なしの溺愛同居〜

​「……好き、なんだ」

口に出すと、好きという響きが舞い踊る。 
​湯船に肩まで浸かり、ゆらゆらと揺れる水面を見つめる。

ずっと昔から、大好きだった。
でも、幼なじみのお兄ちゃんだからって言い訳して、気づかないふりをしていただけ。
勝手に傷ついて、逃げ出したはずなのに。 

幼かったはずの恋心が、今、猛烈な勢いで芽依子を追い越して走り出す。
 
​――あのときよりも、もっと鮮明で確かなカタチで。
 
​「……どうしよ」
 
​両手で顔を覆うけれど、指の間からこぼれる吐息は熱い。
湿度の高い浴室に、自分の鼓動の音だけがやけに大きく響いている。
 
​この気持ち、ちゃんと伝えたい。
けれど、芽依子の脳裏をよぎるのは、さっきまで自分を抱きしめていた、あの大きな手の感触。
そして、『俺が上書きしたる』と言った耳元に残る、あの凶暴なまでに低い声。
 
​(あんな顔のはる兄、知らない……。ううん、本当は知るのが怖かっただけなんだ)
 
​優しくて、甘やかしてくれる兄のような存在。
でも、その優しさの奥には、芽依子を逃がす気なんてない男の顔が、確かにあった。
 
​(……はる兄、なんて言うかな。「妹」じゃないって言ってたけど、今はどう映ってるの?)
 
​もし伝えてしまったら、もう元の「幼なじみ」には戻れない。
お風呂上がりに彼の顔をまともに見る自信がなくて、芽依子はわざとぬるくなったお湯を顔にかけた。
けれど、一度火がついた胸の奥の熱は、いっこうに冷める気配がなかった。

「めいっー、そろそろ上がってきぃや。のぼせるで」

軽いノック音に続く声に、芽依子は慌てて返事をする。
お風呂上がりにアイスを食べる――それも、昔から変わらない習慣。

「めいのバニラあるから、早よおいで」

一旦、考えることはやめて、目の前の湯上がりアイスにつられて、芽依子は急いで浴室を後にした。
    
***

梅雨明けは来週辺りだというニュースが流れていたように、段々と蒸し暑さがやってきた。
白のシフォンブラウスに、水色のランダムプリーツのスカートというコーディネートも、色味は涼しいが少し汗ばむ。
館内に流れている程よいクーラーの風が、気持ちいい季節だ。 
 
昼休憩にやってきたのは、いつもの食堂。
芽依子は小田に、江崎とのことの顛末を報告した。
  
「あらぁ、無事に別れられたのねっ。これで安心ね!」
「はい。多分……」
「まだ何か引っかかるの?」
「そんな簡単に引き下がるのかなぁって」

芽依子は、おにぎりをかじりながら、江崎を思い出す。  
粘着質ではないが、プライドが高そうに見える。
芽依子は、彼がこのまま何もなく引き下がるように思えなかった。

「不安に思ってること、初恋ヒーローにもちゃんと話しておきなさい。情報共有は大事よ」
「わかりました」
「これで迷いなく、彼の胸にとびこめるわね!好きなんでしょ?」
「えっ?!……」
「恋する乙女の顔してる。いいわねぇ~」

小田の冷やかしはしばらく続き、芽依子は顔を赤らめたまま、ご飯を食べるハメになった。 
食後のコーヒーを飲んでいると、小田が「そうそう……」と思い出す。
   
「水谷ちゃん、今年の主任登用、受けないの?」
「まだ……考えてるとこで……」
「“まだ”って言ってるうちは一生そのままよ」

小田はホットコーヒーを一口啜り、話を続ける。
 
「筆記と面接があるんでしたよね?」
「そう。あと、簡単な業務改善案みたいなのも出すはずよ。総務なら、現場を支える視点がある子のほうが強いの」

小田は、芽依子のアイスカフェラテを少し避けながら、声を潜めた。

「水谷ちゃん、売り場の人たちからも評判いいのよ。急な備品依頼も嫌な顔しないし、催事前の確認も早いし」
「そんな……普通のことです」
「その“普通”を、ちゃんと続けられる人が少ないの。あなたの人望よ」

思いがけない言葉に、ストローを持つ手が止まる。
誰かに必要とされるほどの仕事を、自分は本当にできていたのだろうか。

特に遥希と再会してから、彼の仕事ぶりや立場に、ますますそう比べてしまっていた。 
ただ目の前のことをこなすだけで精一杯だった毎日が、少しだけ違う色に見えた。
 
小田は、大丈夫!といった表情で、芽依子の背中を軽く押す。
  
「上司推薦いるけど、あんたなら通るわ」

有難い声援とは裏腹に、芽依子は苦笑した。
   
(……今のままじゃ、ダメなのかな)

芽依子は短大の新卒入社で、今年は四年目にあたる。
勤務態度も、謹厳実直で温厚、何より心配りが出来ると、上司たちからの信頼も篤い。

ただ、芽依子本人は、日々業務に追われていて、仕事への自信が持てていない。
"主任"という役職に気後れして、受験する踏ん切りがつかずにいた。

(――逃げない、といったのは、はる兄のことで)

誰に対しての言い訳かわからない。
重たく淀んだ溜め息を、小さく吐いた。   

その日、お風呂上がりのまったりしたタイミングで、遥希に相談してみる。
 
「……というわけで、試験どうするか悩んでる」
「主任ってことは、今より責任増えるんやろ」
「うん。たぶん、売り場との調整とか、後輩のフォローとかも増えると思う」
「めい、そういうの向いてると思うけどな」
「本当に?」
「人のこと、よう見てるやん。自分より周り優先してまうくらい」

そう言われると、胸が少しだけ温かくなった。
ちゃんと見てくれている。
そう思った次の瞬間、遥希はストロベリーアイスのスプーンを口に運びながら、何でもないことみたいに続けた。
 
「でも、しんどいなら無理せんでええ。俺がおるやろ。芽依子が悩むなら、受けんでいいよ」
 
(何だろう……なんかモヤっとする)
 
真綿で首を絞められたような閉塞感に、芽依子は思わず息を飲む。 
​"守られている"という安心感の裏側に、ほんのりと漂う支配の気配。
けれど、彼を見上げれば、そこにあるのは一点の曇りもない愛情に満ちた瞳だ。 

(……やっぱり、はる兄がいればいい) 
 
​無理に自分を納得させるように、溶けかけたバニラアイスを一口運ぶ。
けれど、喉を通ったはずの冷たい甘さは、なぜか胸の奥に小さな錘となって居座り続けた。  

***

結局、芽依子は、試験を受けるかギリギリまで悩んでいた。

(そろそろ、どうするか決めないとなぁ……)
 
芽依子は販促物を届けた売り場から戻ると、小田に呼ばれた。
隣には知らない女性が立っている。

「お帰り、水谷ちゃん。ほら、前に話してた新人さん」
「あ。そういえば、今日でしたね」    

夏の繁忙期は、殊更に忙しい。
なので、毎年、期間限定の短期募集で増員が行われる。
その増員でやって来た女性を、小田が紹介する。
  
「こちら、今日から短期で入ってくれる花島さんよ」
  
芽依子は挨拶をしようと近づくと、先に彼女が一歩前に出た。
じっと、顔を見つめられる。
その視線は、初対面のそれじゃなかった。

「――水谷さん?」
  
「何も変わってないのね」 
 
(……なんで、この人——) 

胸の奥が、ざわりと嫌な音を立てて警告する。
——関わってはいけない、そう思った。

なのに、その女は芽依子を見たまま静かに笑っていた。  
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