キャラメリゼ ワンルーム
 
 
 
 
 

「怜ちゃんーー!!聞いてーー!!」

日曜日、レッスン終わりの楓は残業をせずに急いで帰宅をした。
息を荒げて帰ってくると、リビングで寝ていたらしい怜が髪の毛をくしゃりとかきながらソファから起き上がった。

「どした。早いね、帰るの」
「土日はパートさんの数が多いから早めに上がれるのっ、そんなことより、聞いて!」
「聞いてるよ、どしたの」

怜に早く言いたい、と帰ってきたものの自分と怜のテンションの落差に少しだけ我に返り、「ちょっと手洗いうがいしてからまた来るから待ってて!」と言って再びリビングを出た。

呆れるような「元気だな」という声が背中側から聞こえて、少しだけ恥ずかしい。
洗面所と自分の部屋に駆け込んでから再びリビングに行くと、怜が「お疲れ」とお茶をグラスに注いでいる最中だった。

「いいことあった?はい、外は暑かったでしょ」
「ありがと…」

怜も自分の分を注いで、それを持ってソファに戻っていった。
その後をついていくと、ブランケットがくしゃりと歪んで残されたままだった。

「あのね、リピート予約してもらえたの」
「おー」

グラスを両手に持ちながらそう言うと、少し間を空けて隣に座った怜が、少しだけ目を見開いて言った。

「今日参加してくれた方が、三回目だったんだけどいつもレモンとかオレンジの、柑橘系のスイーツとパンが多いなって気づいてね…——






「本日もありがとうございました!今日のお菓子、オレンジとキャラメルのガトー・ブルトンは、お早めにお召し上がりくださいね!」

楓の言葉ににこやかに頷きながら、帰る準備を始める受講者たち。
テーブルを見渡していると、保冷剤を入れるのに手こずっている女性に気づいて駆け寄った。

「里崎《さとざき》さん、ここにテープをつけてから入れると安定しますよ」
「あ、ありがとうございます!」

にこりと笑みを浮かべてくれたのは、楓のレッスンに参加してくれるのは三回目の、四十代くらいの女性だ。里崎さん、という名前で、長い髪をいつも綺麗にまとめていて、真っ直ぐに目を見つめて話を聞いてくれている。

「今日のガトーブルトン、美味しかったですね」
「発酵バターだとやっぱり風味が美味しくなりますね」
「そうですね、あとはゲランドの塩も入れてたと思うんですけど、これも普通のお塩と違って、すごく美味しくなるんですよ!」

そうなんですね、とレシピカードをちらりと見た里崎に、楓は言った。

「柑橘系のものとか、フルーツがお好きなんですか?」
「え?」
「前回のオレンジとカモミールのババロアも来てくださってましたし、カシスとバニラのムースケーキもいらっしゃってましたよね」
「ええ…」
「桃香さんのオレンジはちみつタルトも参加されてたの、お見かけしましたし」

楓が思い出しながらそう言うと、女性は少し驚いたように楓を見ていた。
ちょっと気持ち悪かったかな、と思いながら楓がなんと言おうか焦っていると、女性がぽつりと口を開いた。

「毎日たくさんの方のレッスンしてるのに、覚えててくださってるんですね」
「え、はい…来てくださった方のことは、大体…」
「…ふふ、夫がね、フルーツ系が好きで。持ち帰ると喜んでくれるんですよ」
「わぁ、素敵ですね!今は夏だし、柑橘のレッスンが豊富で旦那様も喜んでくださいますねー!」

旦那さんのためにお菓子を作っていたんだ、きっと仲がいいんだろうなぁ、そういう関係ってすごくいいな。そう思うと自然と笑みが溢れた。

里崎はケーキの入った箱を紙袋に入れながら、言った。

「楓先生は、来週はなんのレッスンなんですか?」
「えーっと私は…来週は…米粉のクッキー缶で…残念ながらフルーツは使わないんです…」

ここでもしフルーツのレッスンだったら、里崎さんも来てくれたかもしれないのに。
こう言う場合に無理に営業したって無理だよなぁ、人じゃなくてレッスン内容で選んでるみたいだし、と思いながら楓が苦笑いすると、里崎は面白そうにクスクスと笑った。

「もし空きがあれば、それを予約してくれる?」
「えっ…フルーツ使わないですけど、いいんですか?」

楓の言葉に、里崎は柔らかく笑いながら、「ふふ、米粉のクッキー缶、子どもと一緒に食べたいなぁって」と言った。

「あっありがとうございます!今予約取っちゃいますね!」

今すぐ事務所からタブレットを取ってこなければ。そう思って楓は慌てて「少々お待ちくださいっ」と声をかけ、事務所に駆け足で戻る。

テーブルに戻ると里崎は椅子に座って待っていた。

「すみません、お待たせしましたっ、まだ空きがあるので、里崎さんの枠、今抑えておきますね!」
「ありがとう、予約取れて良かった」

里崎は紙袋とバッグを持って立ち上がった。
目の前で予約をしてくれるのなんて今まで藤子以外にいなくて、楓の足取りは軽く玄関まで見送った。

「教えてくださった発酵バターとゲランドのお塩も、買って帰りますね」
「わーありがとうございます!」

バッグからレシピカードを取り出して里崎は微笑み、エレベーターに乗り込んでいった。頭を下げながら、楓は緩む口元を抑えられなかった——



怜は優しく聞いてくれた。
その目元が柔らかく下がっていて、少しだけ見ないふりをした。

「へえ、すごいじゃん」

怜はそう言って、楓の頭の上に手のひらを乗せた。

「これって、怜ちゃんがこないだ教えてくれたこと?提案っていうか!」
「そうそう、柑橘っていうフックを、自分への信頼に変換したからだよ。商品じゃなくて、楓っていう講師が選ばれた。だから目的外の柑橘じゃないレッスンも予約してくれた」

髪の毛の間を指先がゆっくりと滑り、頭に伝わる少しの圧力が、楓の首筋をふっと緩ませた。
ぽん、と柔らかく髪の毛が沈み込んで、少しの重みが心地よかった。

「怜ちゃんが、教えてくれたから…」
「でも自分で考えたんでしょ?柑橘の予約してるなって、自分で気づいて、営業とか考えずに声かけたんでしょ?」
「うん…」

怜が優しく言いながら、髪の毛を撫でていく。
つるりと流れに沿って繰り返し落ちていく重みが心地よくて、頭を下げた。

「えらいえらい。ちゃんと実行に移して、結果出したんだから」
「…うん…」
「楓の場合、素直で愛想あるんだから営業とか考えずに、良かれと思ってそうやって声かければ、いいなって思ってもらえるよ」
「…うん」

視界の隅で、怜の左手がその膝の上に無造作に置かれているのが見えた。
白く浮き出た血管が手の甲を複雑に通って、細長い指先は少しだけ内側に丸まっている。骨張っていて、ごつごつしている。

「頑張ったじゃん」
「…甘やかしすぎだよ……」
「そうかな」

嬉しい。
営業って言葉だけで苦手意識があったけれど、提案なら難しくない。
気負わずに、お客さん一人一人を見て、良かれと思って声をかける。
怜に言われなければ、気づけなかった。

撫でられ続けていた手が少しだけ軽くなって、ああもう終わってしまうのかと思ったらなんとなく寂しくて、もう少しだけその温かさを感じていたくて、頭を少し傾けた。

こつん、と怜の肩に自分の頭が乗り、Tシャツの薄い生地越しに、怜の肩の、骨の硬い感触がこめかみに伝わる。
同時に、頭を撫でていた怜の手がぴたりと動きを止めた。
リビングの時計が時を刻む音だけが聞こえて、怜の肩越しに、自分の心臓の音がした。

そうして、気づいた。

「ごっ、ごめん!よろけた!」
「…うん」

楓は勢いよく立ち上がって、ソファがぎしりと音を立てた。
固まったままだった怜の手のひらが宙に浮いていて、それを直視できなかった。

「着替えてくる!!」

そういってリビングを飛び出した。
部屋のドアを閉めてから、無意識に止めていた息を吐いた。

足元に視線をやると、この家に引っ越してきた時に怜が買ってくれたスリッパが目に入った。
スリッパのベージュのパイル地は、何度も洗われて少し毛羽立ち、楓の足の形にそってクタリと沈んでいる。

まだ一ヶ月半くらいなのに、少しだけ張りがなくなって馴染んでいるタオル素材のふわりとしたベージュのスリッパを、しばらく見つめていた。


 
 
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