キャラメリゼ ワンルーム
昨日の自分はどうかしていた。
営業ができて、予約が取れて、それで浮かれていた。
褒められたのが嬉しくて、仕事のできる怜に認められたのが嬉しくて、怜のおかげだと思ったら、つい甘えたくなってしまった。きっとそう。
次の日、顔を合わせた怜は全くもっていつも通りで、何も変わらない態度にホッと息が漏れた。それでも少しだけ気恥ずかしくて、朝は早めに出勤した。
幸いにも、今日はスタジオが休みの日で、レッスンはなかった。
楓は次のレッスンの予習や残っていたデスクワーク、他の講師の試作を食べたりしながら、まったりと定時まで過ごした。
「た、ただいまー」
「あれ?早くない?」
そろりと玄関を開けたので、怜は楓の帰宅に気づいていないようだった。
窓から差し込む午後の柔らかな光が、リビングの床を明るく照らしている。
部屋着に着替えてからリビングのドアを開けると、怜がソファから顔だけ後ろを向けて声をかけた。
「今日はスタジオ休みの日だから、仕事片付けてきて、定時で帰ってきたの」
「あー、週一?であるんだっけ」
「そう…あの、怜ちゃん。私明日から三日間お休みなんだけど」
「え?なんで?連休?」
怜が膝に置いているらしいパソコンのキーボードを叩きながら楓に言った。
冷蔵庫を開けながら、楓は返事をする。
「今ちょうど、お盆でしょ?うちのスタジオはお盆に開けてても予約がかなり減るから、今週はレッスンないの。明日から三日間は全員お休み」
「なるほどね、確かにあの立地なら合理的かもな」
楓はグラスに麦茶を注ぎ、一気に飲んだ。
冷たい液体が喉に一気に流れていって、ぴりぴりと刺激になって心地いい。
「それで、私、明日ちょっと千葉の実家に帰ろうかなって思ってて」
「あー、いいね。おじいちゃんおばあちゃんに久しぶりに顔見せてあげな」
「うん、それで…あの、」
楓はもう一つのグラスを取り出し、そこに麦茶を注いだ。
氷を一つ入れて、ソファで仕事を続けている怜のところに持っていくと、それに気づいた怜が「ありがと」と受け取った。
「俺のことなら気にしなくていいよ。俺はお盆とかないし、まぁゆるく仕事してるし」
怜はそう言いながら、軽く喉を鳴らして、麦茶を一口飲んだ。
いらなかったかな、余計なお世話だったかな。そう思いながらも隣には座れず、楓はキッチンに戻った。
「そうだよね、仕事だよね」
「うん。俺んとこカレンダー通りだし。まぁクライアントも休むから会議もないし、かなり暇だけど。…なんで?休み、どっか行きたい?」
キッチンから、ソファにもたれている怜の後ろ姿を見ていると、いきなりこちらに顔が向けられ、少しだけ身体が固まる。目元に少しだけかかった前髪から、気だるげな瞳がこちらを見ている。
そう、先ほど母から返ってきたメッセージの内容を、怜に伝えたくなくて、私は今ここまで挙動不審になっている。
「いや、あの…お母さんとおばあちゃんが……怜ちゃんに会いたいって。連れておいでって…言ってて…」
「え?」
怜が少しだけ驚いた顔をしていて、楓の手のひらにじとりと汗が滲む。
ああもう、だから言いたくなかったんだ。
前までだったら気にならなかったのに、あの家に怜ちゃんが来るって、なんか、変で、いやだ。
「…水入らずにお邪魔じゃないなら、行こうかな」
「えっ!」
すぐにそんな返事が返ってくると思っていなかった楓は、驚いて視線を合わせた。
「なんだよ。嫌なの?」
「いや、だって仕事って言ったし、そんなめんどくさそうなの嫌がるかなって」
「別に嫌でも面倒でもないよ。楓と一緒に住んでるのに挨拶もしてなかったし、千夏さんたちに俺も久しぶりに会いたい」
なぜか心臓がきゅう、となって、思わずTシャツの裾を握りしめる。
怜は、ふっと笑って、視線をパソコンに戻した。
「…仕事は?」
「どうせ暇だし、夏季休暇も使わなきゃだったから休むよ」
「おばあちゃんたち、怜ちゃんに絡むよ」
「いいよ、楽しそうじゃん」
「…すっごい食べ物出てくるよ」
「最高じゃん。お腹空かせて行こっと」
母から提案のメッセージを見た時に、一番に気になっていたことを、楓はぼんやりと頭に思い浮かべる。面倒だと思われていないなら、これも聞いていいだろうか。
「…気まずくない?」
キーボードを叩く音が止んだ。
楓は視線を落としたまま、怜の顔が見られなかった。
キッチンカウンターには自分のグラスだけが残っていた。
「なんにも気まずくないよ」
怜がそう言った。
その声がいつもより優しいことに、気づく。
「…そう」
「今でも気にかけてもらえんのはありがたいし、…嬉しいよ。俺もまだ家族って思ってもらってるんだな」
そんなの、
「当たり前じゃん…」
怜がソファから立ち上がる気配がした。
ゆっくりとフローリングをかすめるスリッパの音がして、視界の隅に怜のスリッパが映る。
「…俺が気まずいかって、そんなこと気にしてたの?」
「だって…」
だって、の後に続く言葉は思いつかなかった。
怜の吐息がふっと漏れる音がして、いつものように笑ったのだと分かった。
その大きいグレーのTシャツの裾が、ぐにゃりと歪んでいた。
「楓は、なんにも気にしなくていいんだよ」
「…なにそれ」
ゆっくりと視線を上げると、怜は眉を下げて笑っていた。
そのまま一回だけ、ぽん、と頭に手を乗せられて、すぐにその手は戻っていった。
怜がシンクの水を出して、コップを洗った。
キュ、キュとスポンジがガラスと擦れる音が小さく響いた。
「朝から行く?」
「…うん。怜ちゃんが来るなら、お昼はちらし寿司にするって」
「ふっ、俺が来るならなの?楓だけなら何になるの」
「想定してないんじゃない。今日は市場に海鮮買いに行くって言ってた」
「わー、そんなん行くに決まってんじゃん」と言いながら、怜はシンクの水を止めて、コップを伏せてカゴに置いた。
昨日の自分はどうかしていた。
今日の私も、どうかしている?
楓はグラスに残ったままの麦茶を流し込んだ。
それを見た怜が、「洗うから貸して」と言って手を広げた。
自分よりも大きくて指が長いその上に、ガラスのコップを置いた。
再び流れる水の音とスポンジの音を聞きながら、楓はその手元を眺めていた。