追想と翼望(ついそうとよくぼう)君がいるから僕の時間が動き出す
 藍は何事もなかったように旭の書斎をノックした。

「はい」
「先生、先程は失礼しました。原稿の確認に来ました。入ってもよろしいですか?」
「どうぞ」

扉を開けて入ると、先程と打って変わって、冷静で真剣な目をした旭がいた。正面の机の椅子に座って、パソコンを難しい顔をして睨んでいた。

「あの、お仕事中なら後にします」
「いいよ、今で。はい、これ」

藍にプリントアウトした原稿を渡した。

「お仕事の邪魔をしないように、私の部屋で読んでもいいですか?」
「何故?ここで読んでよ」
「あ、はい、邪魔じゃなければ、ここで読みますね」

藍は隅にある椅子に腰掛けて静かに読んだ。旭は藍をパソコン越しに見ていた。愛しさに溢れた瞳は、乱世に生きていた旭そのものだった。

藍の瞳が潤むのは、何故だろうと考えながら、その思いを巡らせていた。 

 物語の始まりは藍と旭が、崖から落ちていくところからだった。旭のいつも見る悪夢が、鮮明に描かれていた。

藍は一話分の原稿を読み終わって、ゆっくりと顔を上げた。旭と目が合った。旭は言う。

「どう?」
「なんだか姫の気持ちが、手に取るように分かる気がして」
「どんな気持ち?」
「旭と、あ、ごめんなさい。呼び捨てして」
「いいよ。原稿の中の主人公の名も旭だから」
「はい、手を引かれ、必死に逃げる姫は、きっと旭となら死ぬことすらたぐわない。旭といつまでも一緒であり続けたいと思うんです。私が姫ならですけど」
「本当にそう思う?」
「はい、私が姫ならですが」
「じゃあ、そこ姫の気持ちも書くよ。そんな感じで」
「え、私が言ったことですよ」
「それが正解だから」
「女心って意味ですか?」
「貴女が白藍だから」
「もう、先生。冗談はやめてください。あー、そうか、読者の女性は皆、この姫なんですね。さすが先生、女心が分かる恋愛小説家ですよね」
「その理解は編集者だから?」
「当たり前です。先生の担当であり、1ファンですから」
「その言葉、心強いよ。何も分かってないの能天気なところは、白藍の姫らしい」
「何か言いました?」
「いや、もう何も言わない」

藍は旭が、何を言おうとしているのか、分からなかった。でも、お互いの機嫌は直ったらしいと思えた。

さっきの喧嘩のようになったことが、心苦しかった。藍は一方的に言ったことが引っかかっていた。


それに旭が告白まがいなことを言うし、キスまでしてくる。あんなに美形にキスされたら、担当編集者を降りるしかない。仕事にならないこと、間違いないと考えていた。
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