Over the moon
Vol.3
― この人、いったい何なの? 訳が分からない。
良識のある人間かと思えば、軽いノリだけで話す今どきの若者のようだったり、人の心を見透かしバカにするようなことを言ったと思えば、急に優しい笑顔を見せたりと掴みどころがない。
でも、只ひとつ言えること。それは決して自分のことをバカにしている訳ではない。先程、朋也が見せた屈託のない笑顔。それが何故か本心からのものだと紗月は感じたからだった。
朋也は照れ臭そうに髪を掻き上げると、人懐こそうに朗らかな笑みを見せた。
「じゃあ、紗月さんって呼ばせて下さい。ここで立ち話するよりお月様でも見ませんか。暖かいコーヒーも用意してありますから」
朋也は手招きをすると、来るのが当然といった感じで望遠鏡の置いてある自分が元居た場所へと歩き出した。
まだ気を許したという訳ではないのだが、成り行き上仕方なく紗月は朋也のあとをゆっくりとした足取りでついて行く。そこは畳三畳分ほどの大きなレジャーシートが敷かれ、彼だけの空間という雰囲気があった。ここは自分だけの場所、誰にもこの領域を侵させはしない。
人にはそういった自分だけの居場所が必ずひとつ、心の何処かにあるものだ。
しかしその領域に、その居場所に入ることを許される人も必ず一人はいる。
そんな人に出会えるか出会えないかは別として。
レジャーシートの脇には赤道儀の付いた屈折式望遠鏡。そしてその本体には一眼レフカメラが二台備え付けられている。周りには撮影用機材やびっしりと文字の書かれた観測ノートが何冊かあった。
― ふぅん。結構、本格的な観測をしているんだ。
紗月はそう思いながら辺りを見渡した。
アイピースや専門書の他には大きめのラジオ付き懐中電灯やポット。ナップザックや毛布などはきちんと整理されて置いてある。それらを眺めていた紗月の前に折り畳みの椅子が差し出された。
「これを使って下さい。シートがあるとはいえ、直に座ると冷えますから」
気さくに話し掛けて来た穏やかな笑顔は紗月を少しばかり安心させていた。
「あ、ありがと……」
照れたように呟いた紗月は椅子を広げて腰掛けた。
丁寧な言葉遣いと几帳面に片付けられた荷物。そして優しく清々しささえ感じる笑顔を見ると、朋也が先程見せた軽いノリの姿はあえてそう見えるようにしているのかも知れない。
どちらがほんとうの朋也なのだろうと紗月は思っていた。人はどんなに自分を飾ろうとしても無意識に本来の姿があちらこちらに出てくるものだ。
― 私もそうだもの。
心の中から聞こえてきた声を振り払うように紗月はブルンと頭を振った。椅子に腰掛けたまま両腕を広げ、大きく深呼吸をしてみた。歩きづめだった足も伸ばし、そのままの姿勢で夜空を仰ぐ。届きそうに思えた月はすでに遥か彼方、天高く金色に輝いていた。
「コーヒー、如何ですか?」
ナップザックから取り出したスチール製のマグカップを手に朋也がニコリと笑う。紗月はその笑顔につられ、気を許したように微笑みながら応えた。
「ありがとう。いただくわ」
「あ、やっぱり紗月さんは笑顔のほうがいいですね」
さらりと言ってのけた朋也はカップにコーヒーを注ぎ始める。
紗月の頬が少しだけ赤くなっていた。
面と向かって笑顔がいいだなんて、初対面の女性に対してなかなか言えるものではない。紗月は益々、訳が分からなくなってきた。とりあえず気持ちを落ち着かせ、先程から気になっていたことを単刀直入に聞いてみた。
「ね、朋也くん。あなた、ちゃんとした敬語や丁寧語を使って話せるのね。今時、珍しいわ。御両親の躾が良かったのかしら」
この春に新卒で入社してきた新入社員は揃いも揃って挨拶はろくに出来ない、敬語は使えない、電話対応さえも上手く出来ないといった若者ばかりだった。教えようとしても、人の話なんて聞く耳を持たない。挙句の果てには上司に向かって「ご苦労様」とまで言い放ち、お説教を喰らう始末だ。
いくら大学生活が社会に出る準備期間といえども、何を学び、何を経験し、何を吸収してきたのかと思えるほどだった。自分たちにとって居心地の良い場所から出ることを拒み、自分の知らない世界を広げようとしてこなかった人間の視野はほんとうに狭い。
それに較べ、朋也の丁寧な言葉遣いと初対面の人に対しての気遣いと心遣いには少し感心していた。
返答次第では彼の素性が少しでも分かるかも、と考えていた紗月だったが、朋也からの答えは意外なものだった。
「亡くなった父に躾られました。日本語というのは世界でいちばん美しい言語なのだから、美しく使わなければならないと。僕もそう思っています。だからといって、友人や家族にまで敬語は使いませんよ」
朋也は照れたように笑った。笑顔で言われたことで逆に胸が締めつけられるようだった。言葉は時として人を傷つけてしまう。
「あの……、ごめんなさい。失礼なこと言って」
紗月は目を伏せ、朋也にぺこりと頭を下げて謝った。しかし朋也はさして気にする様子もなくマグカップを紗月の目の前に差し出した。
「気にすることなんてないですよ。父が亡くなったのはもう十年以上前のことですから、ひとつの想い出になっています」
紗月は差し出されたマグカップをそっと両手で受け取った。
カップから暖かな湯気が立ちのぼり、漂うコーヒーの香りが落ち込みそうになった気持ちを変えてくれる。
何気ない言葉でも気遣ってくれているのが分かった。
優しいのねと、紗月は朋也のことを少し見直しはじめていた。
良識のある人間かと思えば、軽いノリだけで話す今どきの若者のようだったり、人の心を見透かしバカにするようなことを言ったと思えば、急に優しい笑顔を見せたりと掴みどころがない。
でも、只ひとつ言えること。それは決して自分のことをバカにしている訳ではない。先程、朋也が見せた屈託のない笑顔。それが何故か本心からのものだと紗月は感じたからだった。
朋也は照れ臭そうに髪を掻き上げると、人懐こそうに朗らかな笑みを見せた。
「じゃあ、紗月さんって呼ばせて下さい。ここで立ち話するよりお月様でも見ませんか。暖かいコーヒーも用意してありますから」
朋也は手招きをすると、来るのが当然といった感じで望遠鏡の置いてある自分が元居た場所へと歩き出した。
まだ気を許したという訳ではないのだが、成り行き上仕方なく紗月は朋也のあとをゆっくりとした足取りでついて行く。そこは畳三畳分ほどの大きなレジャーシートが敷かれ、彼だけの空間という雰囲気があった。ここは自分だけの場所、誰にもこの領域を侵させはしない。
人にはそういった自分だけの居場所が必ずひとつ、心の何処かにあるものだ。
しかしその領域に、その居場所に入ることを許される人も必ず一人はいる。
そんな人に出会えるか出会えないかは別として。
レジャーシートの脇には赤道儀の付いた屈折式望遠鏡。そしてその本体には一眼レフカメラが二台備え付けられている。周りには撮影用機材やびっしりと文字の書かれた観測ノートが何冊かあった。
― ふぅん。結構、本格的な観測をしているんだ。
紗月はそう思いながら辺りを見渡した。
アイピースや専門書の他には大きめのラジオ付き懐中電灯やポット。ナップザックや毛布などはきちんと整理されて置いてある。それらを眺めていた紗月の前に折り畳みの椅子が差し出された。
「これを使って下さい。シートがあるとはいえ、直に座ると冷えますから」
気さくに話し掛けて来た穏やかな笑顔は紗月を少しばかり安心させていた。
「あ、ありがと……」
照れたように呟いた紗月は椅子を広げて腰掛けた。
丁寧な言葉遣いと几帳面に片付けられた荷物。そして優しく清々しささえ感じる笑顔を見ると、朋也が先程見せた軽いノリの姿はあえてそう見えるようにしているのかも知れない。
どちらがほんとうの朋也なのだろうと紗月は思っていた。人はどんなに自分を飾ろうとしても無意識に本来の姿があちらこちらに出てくるものだ。
― 私もそうだもの。
心の中から聞こえてきた声を振り払うように紗月はブルンと頭を振った。椅子に腰掛けたまま両腕を広げ、大きく深呼吸をしてみた。歩きづめだった足も伸ばし、そのままの姿勢で夜空を仰ぐ。届きそうに思えた月はすでに遥か彼方、天高く金色に輝いていた。
「コーヒー、如何ですか?」
ナップザックから取り出したスチール製のマグカップを手に朋也がニコリと笑う。紗月はその笑顔につられ、気を許したように微笑みながら応えた。
「ありがとう。いただくわ」
「あ、やっぱり紗月さんは笑顔のほうがいいですね」
さらりと言ってのけた朋也はカップにコーヒーを注ぎ始める。
紗月の頬が少しだけ赤くなっていた。
面と向かって笑顔がいいだなんて、初対面の女性に対してなかなか言えるものではない。紗月は益々、訳が分からなくなってきた。とりあえず気持ちを落ち着かせ、先程から気になっていたことを単刀直入に聞いてみた。
「ね、朋也くん。あなた、ちゃんとした敬語や丁寧語を使って話せるのね。今時、珍しいわ。御両親の躾が良かったのかしら」
この春に新卒で入社してきた新入社員は揃いも揃って挨拶はろくに出来ない、敬語は使えない、電話対応さえも上手く出来ないといった若者ばかりだった。教えようとしても、人の話なんて聞く耳を持たない。挙句の果てには上司に向かって「ご苦労様」とまで言い放ち、お説教を喰らう始末だ。
いくら大学生活が社会に出る準備期間といえども、何を学び、何を経験し、何を吸収してきたのかと思えるほどだった。自分たちにとって居心地の良い場所から出ることを拒み、自分の知らない世界を広げようとしてこなかった人間の視野はほんとうに狭い。
それに較べ、朋也の丁寧な言葉遣いと初対面の人に対しての気遣いと心遣いには少し感心していた。
返答次第では彼の素性が少しでも分かるかも、と考えていた紗月だったが、朋也からの答えは意外なものだった。
「亡くなった父に躾られました。日本語というのは世界でいちばん美しい言語なのだから、美しく使わなければならないと。僕もそう思っています。だからといって、友人や家族にまで敬語は使いませんよ」
朋也は照れたように笑った。笑顔で言われたことで逆に胸が締めつけられるようだった。言葉は時として人を傷つけてしまう。
「あの……、ごめんなさい。失礼なこと言って」
紗月は目を伏せ、朋也にぺこりと頭を下げて謝った。しかし朋也はさして気にする様子もなくマグカップを紗月の目の前に差し出した。
「気にすることなんてないですよ。父が亡くなったのはもう十年以上前のことですから、ひとつの想い出になっています」
紗月は差し出されたマグカップをそっと両手で受け取った。
カップから暖かな湯気が立ちのぼり、漂うコーヒーの香りが落ち込みそうになった気持ちを変えてくれる。
何気ない言葉でも気遣ってくれているのが分かった。
優しいのねと、紗月は朋也のことを少し見直しはじめていた。