Over the moon
Vol.4
「わぁ、いい香り」
「キリマンジャロです。お口に合えばいいですけど」
朋也は自分のカップを持ったまま、さりげなく紗月の側に腰を下ろす。紗月はコーヒーを一口飲むと夜空を見上げた。
少しだけ西の空に傾きはじめている上弦の月。
そして月の輝きに隠されないようにスピカやアルクトゥルスがキラキラと瞬いている。何時の間にか、東の空には白鳥座やわし座といった夏の星座たちが昇りはじめていた。
少し冷たくなってきた春の風が紗月の髪を柔らかくなびかせ、穏やかに感じられる時間が過ぎていく。こんなに落ち着いた気持ちになれるのは久しぶりのような気がした。
「ふぅ……。何だか気分がいいな」
紗月は思わず口に出して呟いていた。すると、バツの悪そうな顔で朋也も呟いた。
「えっと、さっきはすみませんでした。天邪鬼なんて言ってしまって」
「ううん、気にしていないわ。だって、ホントのことだもの」
二人の間に流れる穏やかでほっこりした空気が紗月の気持ちを和らげていた。
戸惑っているような朋也に気を遣わせないよう、紗月はそっと笑みを浮かべてみせた。途端に朋也がくすくすと笑う。
「紗月さんは思ったとおり素直な人ですね。羨ましいな、自分の気持ちに正直なんて」
羨ましいと言った彼の顔に一瞬だけ淋しそうな表情が浮かんだ。しかし紗月はそれに気付かず、慌てたように自分を否定した。
「どうして私が素直だなんて言うの? 私、自分に正直なんかじゃない。あなたは私のこと何も知らないじゃない」
紗月の言葉に朋也はゆっくりと首を振り、又、微笑んでいた。
「素直じゃない人が月に手が届くなんて夢のあるコト言いませんよ。無意識に出る言葉って、純粋な気持ちそのものですから。それに紗月さんは自分のことを強がっているだけとか、心の中にある気持ちを正直に認めている。だから、素直な女性だなって僕は思いました」
朋也はぐいとコーヒーを飲み干す。
― 無意識に出る言葉は純粋な気持ちそのもの。
紗月はそれを心の中で呟いてみた。
何だかステキだなと思えた。もう一度そんな純粋な気持ちで夢を追いかけてみたい。そう思うだけで置き去りにしてきた心の中のカケラがひとつ戻って来たような気持ちになる。
紗月が納得したかのようにふぅと大きく息をすると、朋也が月を指差した。
「紗月さん、月をお見せしますね。今夜のお月様はとてもキレイですよ」
朋也は立ち上がり、慣れた手つきで望遠鏡の照準を月に合わせはじめた。
「そうだ、紗月さんは月のことを何て呼ぶのが好きですか。ムーン、ダイアナ。アルテミスにセレーネ。あ、それともルナかな」
少年のような無邪気な笑顔で朋也が尋ねてきた。思わず紗月は小さく吹き出し、クスクスと笑う。
何時の間にか、彼に対しての警戒心や不信感が薄らいでいる。それどころか共感めいた不思議な想いが紗月の胸に生まれていた。
「やだなぁ。神話の女神様の名前まで入り込んでいるわ」
「でも、月はいちばん地球に近い天体だから世界中で色々な呼び方をされているんですよ」
笑われたことで朋也はポリポリと頭を掻いている。きっと朋也は月が好きなのだろう。宇宙に憧れているのだと紗月には思えた。
「そうね、月は地球に住む人たちにとっていちばん身近な天体よね。確か、月までの距離は三十八万キロ。それが近いのか遠いのか、私にはよく分からないけど」
月を見上げながら紗月は声を出さずに呟いていた。
― 昔、月に憧れる少年のお話を描いたことがあったな。
紗月は数年前、夢を追いかけていた自分を思い出していた。
あの頃は自分が何をしたいかなんて迷うことはなかった。自分の進みたい道を、目指すべき道を真っ直ぐに見ていた筈だ。
ぼんやりと月を見ていた紗月の耳に感嘆するかのような口笛が小さく響いた。
「すごいな。月までの距離を知っている人なんて、なかなかいないですよ」
ふいに朋也の方を振り向くと、彼は感心したような表情で紗月を見つめていた。
「前にちょっとだけ調べたことがあったの。それを覚えていただけよ」
紗月は話をはぐらかすようにもう一度月を見上げた。
半分だけの上弦の月。今の自分みたいだ。何もかも中途半端で意地っ張りで素直じゃない自分。
でも、今夜は何かが違う。どうしてなのかは分からないが、素直になりなさいと言われているような気がする。もしかしたら月の光がそうさせているのかも、と紗月は思っていた。
「朋也くん、さっきの質問の答えよ。私はラテン語のルナって呼び方が好き。でも、普通に言うなら英語でのムーンかな。今夜の月は上弦の月、ファーストクォーターね」
笑った紗月の表情は心からのものだった。
「気が合いますね。僕もルナかムーンです。しかし、ルナがラテン語だってことや、上弦の月をファーストクォーターって呼ぶことを知っているなんて、紗月さんは一体、何者ですか」
朋也が茶化すように笑って、おどけて見せる。そして手招きをしながら紗月を呼んだ。
「覗いて見ませんか。静かの海もバッチリ見えていますよ」
「うん。見てみたい」
紗月は静かにカップを置き、朋也の側に行った。少し腰をかがめて天体望遠鏡のファインダーを覗くと、視界いっぱいに無数のクレーターが映し出されていた。
「うわぁ、すごい。すごいよ、これ。双眼鏡でしか見たことなかったから感動しちゃう」
感嘆の声を上げながら紗月はファインダーにかじりついていた。
「人類が初めて地球以外に足跡をつけた天体が月なんだって思うと、何だかわくわくしますよね。地球は水も空気もある緑豊かな青い惑星。でも、月はその地球から三十八万キロしか離れていないのにクレーターだらけの、いわば無の星。どうしてなのかを知りたいですよね」
紗月は月を見ているふりをしながら横目でチラリと朋也を見た。
隣で宇宙への憧れを語るその横顔はとても生き生きとしている。 きっとこれがほんとうの姿なのだと思えた。
朋也の瞳には夢を追いかけ、掴もうとしている人が持つ澄んだ輝きがある。自分もあの頃はこうだったのかと思うと少し淋しく、羨ましい気がした。
「キリマンジャロです。お口に合えばいいですけど」
朋也は自分のカップを持ったまま、さりげなく紗月の側に腰を下ろす。紗月はコーヒーを一口飲むと夜空を見上げた。
少しだけ西の空に傾きはじめている上弦の月。
そして月の輝きに隠されないようにスピカやアルクトゥルスがキラキラと瞬いている。何時の間にか、東の空には白鳥座やわし座といった夏の星座たちが昇りはじめていた。
少し冷たくなってきた春の風が紗月の髪を柔らかくなびかせ、穏やかに感じられる時間が過ぎていく。こんなに落ち着いた気持ちになれるのは久しぶりのような気がした。
「ふぅ……。何だか気分がいいな」
紗月は思わず口に出して呟いていた。すると、バツの悪そうな顔で朋也も呟いた。
「えっと、さっきはすみませんでした。天邪鬼なんて言ってしまって」
「ううん、気にしていないわ。だって、ホントのことだもの」
二人の間に流れる穏やかでほっこりした空気が紗月の気持ちを和らげていた。
戸惑っているような朋也に気を遣わせないよう、紗月はそっと笑みを浮かべてみせた。途端に朋也がくすくすと笑う。
「紗月さんは思ったとおり素直な人ですね。羨ましいな、自分の気持ちに正直なんて」
羨ましいと言った彼の顔に一瞬だけ淋しそうな表情が浮かんだ。しかし紗月はそれに気付かず、慌てたように自分を否定した。
「どうして私が素直だなんて言うの? 私、自分に正直なんかじゃない。あなたは私のこと何も知らないじゃない」
紗月の言葉に朋也はゆっくりと首を振り、又、微笑んでいた。
「素直じゃない人が月に手が届くなんて夢のあるコト言いませんよ。無意識に出る言葉って、純粋な気持ちそのものですから。それに紗月さんは自分のことを強がっているだけとか、心の中にある気持ちを正直に認めている。だから、素直な女性だなって僕は思いました」
朋也はぐいとコーヒーを飲み干す。
― 無意識に出る言葉は純粋な気持ちそのもの。
紗月はそれを心の中で呟いてみた。
何だかステキだなと思えた。もう一度そんな純粋な気持ちで夢を追いかけてみたい。そう思うだけで置き去りにしてきた心の中のカケラがひとつ戻って来たような気持ちになる。
紗月が納得したかのようにふぅと大きく息をすると、朋也が月を指差した。
「紗月さん、月をお見せしますね。今夜のお月様はとてもキレイですよ」
朋也は立ち上がり、慣れた手つきで望遠鏡の照準を月に合わせはじめた。
「そうだ、紗月さんは月のことを何て呼ぶのが好きですか。ムーン、ダイアナ。アルテミスにセレーネ。あ、それともルナかな」
少年のような無邪気な笑顔で朋也が尋ねてきた。思わず紗月は小さく吹き出し、クスクスと笑う。
何時の間にか、彼に対しての警戒心や不信感が薄らいでいる。それどころか共感めいた不思議な想いが紗月の胸に生まれていた。
「やだなぁ。神話の女神様の名前まで入り込んでいるわ」
「でも、月はいちばん地球に近い天体だから世界中で色々な呼び方をされているんですよ」
笑われたことで朋也はポリポリと頭を掻いている。きっと朋也は月が好きなのだろう。宇宙に憧れているのだと紗月には思えた。
「そうね、月は地球に住む人たちにとっていちばん身近な天体よね。確か、月までの距離は三十八万キロ。それが近いのか遠いのか、私にはよく分からないけど」
月を見上げながら紗月は声を出さずに呟いていた。
― 昔、月に憧れる少年のお話を描いたことがあったな。
紗月は数年前、夢を追いかけていた自分を思い出していた。
あの頃は自分が何をしたいかなんて迷うことはなかった。自分の進みたい道を、目指すべき道を真っ直ぐに見ていた筈だ。
ぼんやりと月を見ていた紗月の耳に感嘆するかのような口笛が小さく響いた。
「すごいな。月までの距離を知っている人なんて、なかなかいないですよ」
ふいに朋也の方を振り向くと、彼は感心したような表情で紗月を見つめていた。
「前にちょっとだけ調べたことがあったの。それを覚えていただけよ」
紗月は話をはぐらかすようにもう一度月を見上げた。
半分だけの上弦の月。今の自分みたいだ。何もかも中途半端で意地っ張りで素直じゃない自分。
でも、今夜は何かが違う。どうしてなのかは分からないが、素直になりなさいと言われているような気がする。もしかしたら月の光がそうさせているのかも、と紗月は思っていた。
「朋也くん、さっきの質問の答えよ。私はラテン語のルナって呼び方が好き。でも、普通に言うなら英語でのムーンかな。今夜の月は上弦の月、ファーストクォーターね」
笑った紗月の表情は心からのものだった。
「気が合いますね。僕もルナかムーンです。しかし、ルナがラテン語だってことや、上弦の月をファーストクォーターって呼ぶことを知っているなんて、紗月さんは一体、何者ですか」
朋也が茶化すように笑って、おどけて見せる。そして手招きをしながら紗月を呼んだ。
「覗いて見ませんか。静かの海もバッチリ見えていますよ」
「うん。見てみたい」
紗月は静かにカップを置き、朋也の側に行った。少し腰をかがめて天体望遠鏡のファインダーを覗くと、視界いっぱいに無数のクレーターが映し出されていた。
「うわぁ、すごい。すごいよ、これ。双眼鏡でしか見たことなかったから感動しちゃう」
感嘆の声を上げながら紗月はファインダーにかじりついていた。
「人類が初めて地球以外に足跡をつけた天体が月なんだって思うと、何だかわくわくしますよね。地球は水も空気もある緑豊かな青い惑星。でも、月はその地球から三十八万キロしか離れていないのにクレーターだらけの、いわば無の星。どうしてなのかを知りたいですよね」
紗月は月を見ているふりをしながら横目でチラリと朋也を見た。
隣で宇宙への憧れを語るその横顔はとても生き生きとしている。 きっとこれがほんとうの姿なのだと思えた。
朋也の瞳には夢を追いかけ、掴もうとしている人が持つ澄んだ輝きがある。自分もあの頃はこうだったのかと思うと少し淋しく、羨ましい気がした。