Last quarter
Vol.5
「これでよし、と」
紗月へのメールを送信した朋也は携帯電話を握り締めたまま、ふと窓に目を遣った。
今夜は新月。月が沈んだあとは夏の星座が夜空いっぱいに輝くだろう。
降るような星空を見上げながら、今まで言葉に出来なかった想いをちゃんと伝えたい。
朋也の心は深い穴をなんとかよじ登り、同じように宙を見上げていた。そんなことを思いながら天井に貼られている満月を見ていた朋也の瞼は次第に重くなり、何時しか深い眠りに落ちていた。
どのくらい眠っていたのだろうか。ふと目を覚まし、慌てて壁掛け時計に目を遣った。時計の針は丁度、十七時を指している。
安堵の溜息を吐いた朋也は手に握り締めたままだった携帯電話をそっと開き、画面をまじまじと見つめた。
無機質な液晶ディスプレイには着信もメールの形跡もない。
画面を切り替えてみたが、やはり紗月からのメールは届いていなかった。いつもなら遅くても必ず一、二時間のうちに返信は来ていた。
「追いかけなかったことを根に持ってるのかな」
溜息を吐きたいのを我慢して、大きく深呼吸をしてみた。気持ちを落ち着け、冷静に冷静にと心の中で呟いた。
意地を張らないで素直にならなければ。
朋也は再度、紗月へのメールを打ちはじめた。美月に相談していて良かったと思う。あのまま一人で悶々とし、メールの返事も来ないようだと、もう知るもんかと電源を切って携帯を放り出していたかも知れない。
そうしたら? お互いに意地の張り合いを続け、連絡さえも取り合わない日々が続くのかも知れない。
それはひとつの心の不安となっていく。
そして日を追うごとにそれはどんどん大きくなって、やがて風船が破裂するように弾けてしまう。
そうなれば何かが変わる。好きという気持ちがやがて嫌悪、憎しみ、無関心といったものに姿を変えていくのかも知れない。
振り向いてもらえない。自分の気持ちを理解してくれない。ただそれだけで人の心は物事を、そして相手の気持ちさえも捻じ曲げてしまうことが出来る。
そうなった時点で恋は終焉を迎える。もう元には戻れない。
一歩距離を置くようになり、その距離は知らず知らずのうちにどんどんと広がっていき、何時しか手の届かないところで相手が冷ややかな目で自分を見ている。
微妙な空気のズレや気後れを感じてしまい、声を掛けることさえ出来なくなり、やがて心が離れていく。
好きで好きでたまらなかった人が石のように口を閉ざし、会話が無くなり他人となっていく。まるで見知らぬ人のように。そして目を合わさぬように、互いを避けるようにして生きていく。それが恋の終わりなのだ。
そんなことは絶対に嫌だ。
いつまでも彼女を信じていたいし、尊敬していたい。そして好きでいたい。朋也はそんな願いを込め、紗月の笑顔を思い浮かべながら送信ボタンを押した。
遅くなるという義父を除いた三人で夕食を済ませ、シャワーを浴び終えた朋也が部屋で着替えていると美月が顔を覗かせた。
「紗月さんから返事あった?」
躊躇いがちにそう尋ねてきた美月に、朋也は苦笑いを返して呟いた。
「ないんだな、これが」
おどけるようにして笑ってはいるが朋也の表情は冴えない。
それでもジーンズに財布や携帯電話、キーケースを突っ込んで出掛ける支度をしている朋也を見て、美月はあることを思いついていた。
「紗月さんのマンションまで行くの? 確か大きなブックセンターの近くだったよね」
「ああ、そうだよ。メールとか電話じゃ埒があかないし。直接会ったほうがいいと思ってさ」
「車で行くんでしょう? 私、ブックセンターに行きたいから途中まで乗せていってよ」
美月はそう言うとバタバタと自分の部屋へと戻っていく。
紗月が住むマンションまでは車で十分ほど。彼女が自分の提案にうんと、言ってくれたなら出掛ける準備もあるだろうし、一度美月を迎えに行ってトンボ返りをすればいいか。
朋也はとりあえずそんな段取りを考えながら先に車庫へと行き、エンジンを掛けて美月が来るのを待った。
すぐに支度を整えた美月が助手席のドアを開いた。
「お待たせ。私は紗月さんのマンションの前で降ろしていいよ。ブックセンター、ホントにすぐ近くみたいだし歩いていくから」
「分かった。用事が終わったら電話しろよ。迎えに行くから」
「あ、それは大丈夫。今、友だちにメールしたらブックセンターで落ち合おうってことになったの。話したいこともあるし、もしかしたらそのあとお茶に行くかも。バスで帰るから心配しないで」
にこにこと楽しそうに話す美月を見ているだけで元気が出てくる。
二度目のメールの返信もなかったことで、少しばかり凹み掛けていた気持ちが前を向く。
家まで行っても会ってくれなかったら。話さえ聞いてくれなかったら……。
そんなことが頭に浮かんでいたのだが、あれこれ考えても仕方ない。素直な気持ちでぶつかればきっと彼女は分かってくれるはずだ。相手を信じるにはまず自分の気持ちを信じなければ。
朋也はヘッドライトをオンにし、力強くハンドルを握った。
車の中で美月はご機嫌だった。カーコンポから流れてくる義父のCDの曲を「あ、この歌知ってる!」と、いきなり唄い始めたり、車窓から流れる景色を見て、「あそこには何が出来るのかなぁ」と運転している朋也にいきなり指を指して尋ねたりと、妙に絶好調ハイテンションで、朋也は危なっかしくて運転に集中出来なかった。
しかし、明るい美月の振る舞いは、少し重かった朋也の心を軽くしてくれていた。たった十分そこそこの距離の運転だったが、ハイテンションの美月と一緒にいたせいか朋也も何故か明るく楽しい気分になっていたのだ。
紗月のマンションのエントランス前で朋也は静かに車を停めた。
「へぇー、ここが紗月さんの住んでいるマンションなんだ。女性向けの小洒落た感じだな。いいなぁ、私も一人暮らしするならこんなマンションに住んでみたい」
美月が助手席の窓から、その七階建てのマンションを見上げて呟いた。朋也は頷きながらも、美月の憧れるようなその呟きを軽く否定した。
「一人暮らしって大変だぞ。家賃に光熱費、食費やもろもろの生活費、おまけに二年に一度の更新料だってある。金銭感覚をしっかり持てないと、貯金だって出来ないからな。美月の一人暮らしなんて、何年も先の話だよ」
「もう、お兄ちゃんってば本気にしないでよ。私、一人暮らしなんてするつもりはないわ。私はまだまだお兄ちゃんと一緒にいたいから」
そう言って振り向いた美月の笑顔は慈愛に満ちている。もちろん、朋也はそんなことに気付くわけもない。
「そうか、ならいいんだけど」
「あら、私はダメなのに紗月さんの一人暮らしはいいわけ?」
「紗月さんは社会人だろ。俺も美月もまだ学生、脛かじりの身だからな」
うんうんと頷き、納得したような表情をした美月が何食わぬ顔で朋也に尋ねた。
「ところで紗月さんの部屋は何階の何号室なの」
「ん? 5階の505号室。あそこの角部屋だよ」
運転席から朋也がその部屋を指さすと、美月はフロントグラスからその指先の灯りの点いている部屋を見上げ、「オッケー」と、声に出さず呟いた。
紗月へのメールを送信した朋也は携帯電話を握り締めたまま、ふと窓に目を遣った。
今夜は新月。月が沈んだあとは夏の星座が夜空いっぱいに輝くだろう。
降るような星空を見上げながら、今まで言葉に出来なかった想いをちゃんと伝えたい。
朋也の心は深い穴をなんとかよじ登り、同じように宙を見上げていた。そんなことを思いながら天井に貼られている満月を見ていた朋也の瞼は次第に重くなり、何時しか深い眠りに落ちていた。
どのくらい眠っていたのだろうか。ふと目を覚まし、慌てて壁掛け時計に目を遣った。時計の針は丁度、十七時を指している。
安堵の溜息を吐いた朋也は手に握り締めたままだった携帯電話をそっと開き、画面をまじまじと見つめた。
無機質な液晶ディスプレイには着信もメールの形跡もない。
画面を切り替えてみたが、やはり紗月からのメールは届いていなかった。いつもなら遅くても必ず一、二時間のうちに返信は来ていた。
「追いかけなかったことを根に持ってるのかな」
溜息を吐きたいのを我慢して、大きく深呼吸をしてみた。気持ちを落ち着け、冷静に冷静にと心の中で呟いた。
意地を張らないで素直にならなければ。
朋也は再度、紗月へのメールを打ちはじめた。美月に相談していて良かったと思う。あのまま一人で悶々とし、メールの返事も来ないようだと、もう知るもんかと電源を切って携帯を放り出していたかも知れない。
そうしたら? お互いに意地の張り合いを続け、連絡さえも取り合わない日々が続くのかも知れない。
それはひとつの心の不安となっていく。
そして日を追うごとにそれはどんどん大きくなって、やがて風船が破裂するように弾けてしまう。
そうなれば何かが変わる。好きという気持ちがやがて嫌悪、憎しみ、無関心といったものに姿を変えていくのかも知れない。
振り向いてもらえない。自分の気持ちを理解してくれない。ただそれだけで人の心は物事を、そして相手の気持ちさえも捻じ曲げてしまうことが出来る。
そうなった時点で恋は終焉を迎える。もう元には戻れない。
一歩距離を置くようになり、その距離は知らず知らずのうちにどんどんと広がっていき、何時しか手の届かないところで相手が冷ややかな目で自分を見ている。
微妙な空気のズレや気後れを感じてしまい、声を掛けることさえ出来なくなり、やがて心が離れていく。
好きで好きでたまらなかった人が石のように口を閉ざし、会話が無くなり他人となっていく。まるで見知らぬ人のように。そして目を合わさぬように、互いを避けるようにして生きていく。それが恋の終わりなのだ。
そんなことは絶対に嫌だ。
いつまでも彼女を信じていたいし、尊敬していたい。そして好きでいたい。朋也はそんな願いを込め、紗月の笑顔を思い浮かべながら送信ボタンを押した。
遅くなるという義父を除いた三人で夕食を済ませ、シャワーを浴び終えた朋也が部屋で着替えていると美月が顔を覗かせた。
「紗月さんから返事あった?」
躊躇いがちにそう尋ねてきた美月に、朋也は苦笑いを返して呟いた。
「ないんだな、これが」
おどけるようにして笑ってはいるが朋也の表情は冴えない。
それでもジーンズに財布や携帯電話、キーケースを突っ込んで出掛ける支度をしている朋也を見て、美月はあることを思いついていた。
「紗月さんのマンションまで行くの? 確か大きなブックセンターの近くだったよね」
「ああ、そうだよ。メールとか電話じゃ埒があかないし。直接会ったほうがいいと思ってさ」
「車で行くんでしょう? 私、ブックセンターに行きたいから途中まで乗せていってよ」
美月はそう言うとバタバタと自分の部屋へと戻っていく。
紗月が住むマンションまでは車で十分ほど。彼女が自分の提案にうんと、言ってくれたなら出掛ける準備もあるだろうし、一度美月を迎えに行ってトンボ返りをすればいいか。
朋也はとりあえずそんな段取りを考えながら先に車庫へと行き、エンジンを掛けて美月が来るのを待った。
すぐに支度を整えた美月が助手席のドアを開いた。
「お待たせ。私は紗月さんのマンションの前で降ろしていいよ。ブックセンター、ホントにすぐ近くみたいだし歩いていくから」
「分かった。用事が終わったら電話しろよ。迎えに行くから」
「あ、それは大丈夫。今、友だちにメールしたらブックセンターで落ち合おうってことになったの。話したいこともあるし、もしかしたらそのあとお茶に行くかも。バスで帰るから心配しないで」
にこにこと楽しそうに話す美月を見ているだけで元気が出てくる。
二度目のメールの返信もなかったことで、少しばかり凹み掛けていた気持ちが前を向く。
家まで行っても会ってくれなかったら。話さえ聞いてくれなかったら……。
そんなことが頭に浮かんでいたのだが、あれこれ考えても仕方ない。素直な気持ちでぶつかればきっと彼女は分かってくれるはずだ。相手を信じるにはまず自分の気持ちを信じなければ。
朋也はヘッドライトをオンにし、力強くハンドルを握った。
車の中で美月はご機嫌だった。カーコンポから流れてくる義父のCDの曲を「あ、この歌知ってる!」と、いきなり唄い始めたり、車窓から流れる景色を見て、「あそこには何が出来るのかなぁ」と運転している朋也にいきなり指を指して尋ねたりと、妙に絶好調ハイテンションで、朋也は危なっかしくて運転に集中出来なかった。
しかし、明るい美月の振る舞いは、少し重かった朋也の心を軽くしてくれていた。たった十分そこそこの距離の運転だったが、ハイテンションの美月と一緒にいたせいか朋也も何故か明るく楽しい気分になっていたのだ。
紗月のマンションのエントランス前で朋也は静かに車を停めた。
「へぇー、ここが紗月さんの住んでいるマンションなんだ。女性向けの小洒落た感じだな。いいなぁ、私も一人暮らしするならこんなマンションに住んでみたい」
美月が助手席の窓から、その七階建てのマンションを見上げて呟いた。朋也は頷きながらも、美月の憧れるようなその呟きを軽く否定した。
「一人暮らしって大変だぞ。家賃に光熱費、食費やもろもろの生活費、おまけに二年に一度の更新料だってある。金銭感覚をしっかり持てないと、貯金だって出来ないからな。美月の一人暮らしなんて、何年も先の話だよ」
「もう、お兄ちゃんってば本気にしないでよ。私、一人暮らしなんてするつもりはないわ。私はまだまだお兄ちゃんと一緒にいたいから」
そう言って振り向いた美月の笑顔は慈愛に満ちている。もちろん、朋也はそんなことに気付くわけもない。
「そうか、ならいいんだけど」
「あら、私はダメなのに紗月さんの一人暮らしはいいわけ?」
「紗月さんは社会人だろ。俺も美月もまだ学生、脛かじりの身だからな」
うんうんと頷き、納得したような表情をした美月が何食わぬ顔で朋也に尋ねた。
「ところで紗月さんの部屋は何階の何号室なの」
「ん? 5階の505号室。あそこの角部屋だよ」
運転席から朋也がその部屋を指さすと、美月はフロントグラスからその指先の灯りの点いている部屋を見上げ、「オッケー」と、声に出さず呟いた。