激情に目覚めた冷徹外科医は契約妻を蕩けるほどの愛で搦めとる
「なに? なんか言いたげだったけど」
「いえ! なにも!」
 咄嗟に月舘先生から視線を逸らして即答する。
 彼はキッチンへ足を向け、手を洗いながら言葉少なに尋ねてきた。
「ところで、夕飯はどうする」
「あっ。そうですよね。私の都合のせいで遅くなってしまって、すみません」
 時計を確認すると、午後八時半を回っている。仕事のあと警察に連れていってくれて、それからうちにも寄ったから、もうこんな時間だ。
「ちなみに、月舘先生はいつも夕食はどうしてらっしゃるんですか?」
「俺? ほとんど外で買ってくるな。まあときどき、そいつのおやつで用意した野菜を炒(いた)めるくらいか」
 さっきキッチンを見て、生活感があまりないような印象だったから、ほぼ料理をしないと聞いて納得がいった。おそらく、料理よりも仕事を優先したいのだろう。
「そうなんですね。ちなみに私は自炊が多いんです。あ、私がここでお世話になっている間、ご迷惑でなければキッチンを使わせていただいてもいいでしょうか」
「別に構わない。最低限の道具はあると思う。適当に使って」
「ありがとうございます。それで……もし抵抗がなければ、月舘先生の分もご用意しましょうか……? お口に合うかはわかりませんが」
 誰かに手料理を振る舞うだけでも緊張する。その相手が月舘先生ともなれば、言わずもがなそのプレッシャーはさらに高まる。それでも、これだけ迷惑をかけてる手前、キッチンを借りて自分の分だけ用意するのはさすがにない。
 もしも、月舘先生が不要だと言うのなら、話は別だけれど。
「それは助かるな」
 月舘先生の反応を待っていると、彼はぽつっと答えた。
「でしたら、さっき私の家から食材を持ってきていて、冷製パスタの予定だったんですがどうですか? 苦手なものとかあればおっしゃってください」
「食べられるなら、なんでもいい」
 月舘先生らしい返し方だ。
 まるで料理に期待していないその失礼な受け答えに、私はむっとすることもなく冷静に返す。
「わかりました」
 職場で直接関わる場面はごくわずかではあるものの、月舘先生の性格はなんとなくわかっているつもりだ。
 彼はよくも悪くも正直で、思ったことを端的に口にする。おそらく、多忙を極めるあまり、用件だけを伝える癖がついているのだろう。そこに悪意はないのだと思っている。
 これまで、わざと他人を傷つけたり貶(おとし)めたりする人とも関わったことがあるけれど、月舘先生はそういう人たちとは違う。なんとなくわかるのだ。
 すると、月舘先生がなにかに気づいた様子で「あ」と漏らす。
「悪い。なんでもいいっていうのはどうでもいいって意味じゃなく。なんでもありがたいって意味で言った」
 月舘先生の弁解に、きょとんとする。
 やっぱり、想像通りの思考だったのだと判明し、私は笑顔で「はい」と返した。
「じゃ、あとは任せる。キッチンや冷蔵庫の中にあるものは好きに使っていい。俺はシャワー浴びてくる」
「はい。少しお借りしますね」
 軽く頭を下げてキッチンに一歩踏みだした、その直後。
「あー、待て。つい自分のルーティンを優先してた。飲み物も適当に飲んでいいから。ウォーターサーバーもそこにある」
 仕事中よりも口数が多いことに驚く。月舘先生にもこんな一面があるんだと新発見して、こんな状況下だけれどちょっと元気になった。
「お気遣いありがとうございます。改めて、短期間シェルターとしてご自宅を提供してくださったことも、ありがとうございます。この借りは必ずお返ししますので」
 なにかお礼をしたい気持ちはもちろんある。料理を作るとかそういうのだけではなくて、月舘先生に喜んでもらえるような、なにか。
 まだ詳細は思いついてはいないけれど。
「別にいい。期待してない」
 月舘先生は私を一瞥して淡々と返す。
 でも、そういう返しが来ることくらい想定済みだ。
「わかっています。でも、なにかしらでお返しできるよう努めますから!」
 具体的な提案は今できなくとも、その気持ちと熱量は伝えておきたかった。
 次の瞬間。
「――ふ。気力十分だな。まあ、借りはスムーズな退院調整で返してくれ」
 月舘先生はふいに笑いを漏らし、口の端を上げてそう言った。
 彼の笑った顔はレアで、なんなら初めて見た気さえする。
 呆然と立ち尽くしている間に、月舘先生はリビングを出ていく。
 月舘先生が去っていったドアを少しの間、見つめた。
 ……びっくりした。皮肉めいてはいたものの、笑った顔を見たのは初めてだから。
 私はめずらしいものを見た衝撃で、しばらく動けずにいた。
 ケージ内からネーベンという名のリスが動いた音がして、我に返る。
 そうして、ようやくキッチンに移動して、遅い夕食作りに取りかかった。
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