優しさは、俺だけに

気づくには、遅すぎた

「えっ?」

思わず声が出た。

軽く言ったように聞こえたのに、
その一言が、胸の奥に静かに落ちていく。

いつも通りの職場のはずなのに、
その瞬間だけ、空気が少し変わった気がした。

「またまた、そんなこと言って。」

そう返しながら、
照れた自分を隠すように、視線を落とした。

「これからご飯食べに行く?
指導員として、門出を祝いたいし」

「まだ、転勤って確定はしてませんけどね」

苦笑いで返すと、前川さんは軽く笑った。

「いいの、いいの。
禅君と話したいし。行こ」

その言い方が、どこか自然で、
断る理由なんて思い浮かばなかった。

「はい」

「じゃあ、あそこの店にしよう」

「あそこ?」

少し考えていると、前川さんがすぐに続けた。

「魚が美味しい、『魚々』だよ」

ああ、とすぐに思い出す。
何度か行ったことがある店だ。

「お店で集合ね」

そう言って、前川さんは先に職場を出ていった。

その背中を見送りながら、
胸の奥が、少しだけざわつく。

ただの食事のはずなのに、
いつもとは違う時間になる気がしていた。


「お疲れ〜」と、軽くグラスを合わせる。

「あぁ~、ビール美味しい」

一口飲んで、思わず息が漏れた。
仕事終わりの一杯は、やっぱり格別だ。

「えっとね、おつまみは禅君これでいいんだよね?」

メニューを見ながら、
前川さんがこちらを覗き込む。
気付けば、俺の好物を自然に選んでいる。

「はい、ありがとうございます」

少し照れくさくなりながら答えると、
今度は俺の番だと思った。

「前川さんは、タコですよね。
渋すぎですけどね」

そう言うと、前川さんはすぐに笑った。

「いいでしょ〜。好きなんだから」

そのやり取りが、やけに懐かしい。

気付けば、二人で笑い合っていた。

――こうやって、よく来ていたな。

指導員になったばかりの頃、
仕事終わりに、
反省会みたいにして食事に来ていた日々。

あの頃と、何も変わっていないようで、
でも、
少しだけ距離が近くなっている気もする。

グラスを見つめたまま、ぽつりと呟いた。

「前川さんとも、転勤したら、こうやって会えなくなるのかな」

前川さんの手が、ほんの少し止まる。

「禅君、寂しく思ってくれるの?」

「はい。もちろんですよ」

迷いはなかった。

前川さんは、少しだけ意外そうな顔をして、
それから柔らかく笑った。

「禅君って、あんまり感情出さないしさ」

「そうですか?」

自分では、よく分からない。

でも――

今は、ちゃんと伝わって欲しいと
思っている自分がいた。


前川さんのお酒のピッチが、
少し早い気がした。

「前川さん、
ちょっとおかわり早くないですか?」

「そう?
禅君と飲むのが久しぶりだから、
そう思うんじゃない?」

そう言って笑うけど、どこかいつもと違う。

何となく、俺が知っている飲み方じゃない気がした。

そのまま少し間が空いて、
前川さんがぽつりと呟く。

「禅君みたく、
心配してくれればいいのに」

顔を上げて、前川さんを見る。

――誰のことだろう。

「彼…ですか?」

少し迷いながら聞くと、
前川さんは苦笑いを浮かべた。

「彼氏っていうのかな。
会えてないし、連絡もくれない。
ひどいよね」

そう言って、視線を落とす。

その横顔を見て、
胸の奥が少しだけざわついた。

そうだよな。

前川さんに彼がいたって、おかしくない。

分かっているのに、
ほんの少しだけ、がっかりしている自分がいる。

「連絡、してみたらどうですか」

無難な言葉しか出てこない。

前川さんは、ゆっくり首を振った。

「いつも、いっつも連絡は私から。
私だけが好きみたいでさ」

グラスの中の氷が、カランと音を立てる。

こういう時、
何て言えばいいのか分からない。

励ますのも違う気がするし、
軽く流すのも違う気がする。

言葉が出てこないまま、
俺はただ、前川さんの隣に座っていた。


店を出て、改札に入る。

「お疲れ様でした。
大丈夫ですか?」

少しだけ気になって、前川さんに声をかけた。

「大丈夫、心配しすぎだから、禅君は」

そう言って、軽く手で払われる。

いつもの調子なのに、
どこか無理をしているようにも見えた。

そのまま、
前川さんの後ろ姿が見えなくなるまで見送った。

――彼氏、ちゃんと捕まえておけよ。

心の中で、思わずそんな言葉が浮かぶ。

同時に、
少しだけイラッとした自分に気づく。

あんな人、そうそういないのに。

ふと、前に支店で聞いた話を思い出す。
前川さんの彼氏の話。
会社の人で、年上だと言っていた。

あの頃の俺は、
そんな噂話を気にする余裕なんてなかった。

――あの時の人と、
まだ付き合っているのか。

さっきの様子を思い返す。

連絡を待っていると言っていた。
それでも待つということは、
きっと、まだ好きなんだろう。

胸の奥が、少しだけ重くなる。

そこでようやく、気づく。

自分の気持ちに。

-----遅いんだよ、お前は。

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