ファーストスター
Episode.2
プラネタリウムの星空は素晴らしいものだった。
夏の銀河の淡い輝き。まばゆいばかりに煌く天空の星々。その星たちのあいだを駆け抜ける流星。
投影が終わっても、姫は席から立ち上がることさえ出来ずに目を閉じたままだった。今でも瞼の裏側には輝く星がたくさん見えている。この想いを、この感覚をどう表現すればいいのだろう? そんなことを考えていても閉じたままの目からは何故か涙が零れ落ちてくる。切なくなるほどの感動が体中を支配していた。
「どうぞお使い下さい」
その声に濡れたままの瞳を開くと、目の前に青いハンカチが差し出されていた。その向こうには解説をしてくれた男が涼しげな笑みを湛えている。姫はそっと差し出されていたハンカチを手に取って言った。
「……ありがとうございます。星空も解説も、とてもステキでした。私……感動しちゃって、何て言っていいか分からないんです」
男はくすりと笑い、「ありがとう。とても嬉しく思います」と呟き、姫の隣の席に腰掛けて上映の終わった白い半球の天井を見上げた。
「でも……ほんとうの星空を、降るような星空を見ると言葉にはならないほどです。満天に輝く星空を見上げたときの想いはきっと忘れることが出来ませんよ」
姫はハンカチで涙を拭きながらそっと男の顔を見つめた。さっきは暗闇でよく見えなかったが、今は薄明かりの下で彼の顔立ちがはっきりと見える。
年齢は二十代後半ぐらいに見えるが、落ち着いた物腰と雰囲気は三十代にも見えた。
真夏だというのにネクタイをきっちりと締め、長袖の白いYシャツに金色のアームバンドをしている姿はいかにも科学畑の人という感じだ。彼はその視線に気付いたのか、そっと顔を姫のほうに向けると、にこりと微笑んだ。
「自己紹介がまだでしたね。私は真壁 北斗。この宇宙科学館の職員です」
人懐こそうな笑顔にどきりとした姫は、それを誤魔化すように慌てて挨拶を返した。
「わ……私は織田 姫です」
姫がペコリと頭を下げると、真壁は「どうぞよろしく」と言いながら立ち上がった。
「さ、ロビーにある喫茶室にでも行きましょう。先ほどお話した、星の降る場所をお教えします」
すっかりそのことを忘れていた姫は急いで腰を上げ、プラネタリウムの出口に向かって歩き始めていた真壁の後を追った。
喫茶室の大きな窓から見える中庭の池の水面がキラキラと光っている。薄暗さに慣れていた目には外の陽光が眩しく感じられた。
二人の前に置かれたグラスの中の氷が崩れ、カランと涼やかな音をたてる。その音を合図にしたように真壁が口を開いた。
「えっと、星の降る場所なんですが……」
その言葉に姫は身を乗り出した。
「こちらの用紙に詳細を明記してあります。電車での行き方、車での行き方、そして宿泊施設なども記載しています。是非、御自分の目で満天の星を見上げて下さい」
何時の間に用意していたのか、真壁はクリアファイルに挟んであった用紙を取り出し、テーブルの上に置いた。
A4用紙が三、四枚ほどあるカラーの資料。姫は用紙を手に取り、ざっとそれを読んで見た。その場所は都心から電車とバスで約一時間半、車だと高速を利用して一時間弱という距離だった。
聞いたこともないような市町村名。そして無理をすれば通勤通学も可能と言えるような場所でほんとうに降るような星空が見れるのだろうか。そんな疑問点を質問しようと姫がふと顔を上げると、真壁がにこにこしながら自分を見つめていた。嬉しそうな笑顔には下心や邪気が全く感じられない。なんだが調子が狂っちゃうな、と姫は思っていた。
仕事柄、出会う男性の殆どが姫の正体が女優の『姫野 あかり』だと分かると、携帯のメールアドレスや電話番号、住所を教えて欲しいと、所構わずに口説いてくる。
そんな輩ばかり見てきた姫にとっては少しばかり真壁という男性が新鮮に見えた。だが、どんな男でも用心に越したことはない。ちょっと試してみようと姫は思った。
「あの……、質問してもいいですか?」
資料を手にし、姫は上目遣いに真壁を見た。
「あ、はい。どうぞなんなりと」
穏やかな笑顔そのままで、真壁は手元にある自分の資料に目を落とした。
「真壁さんはどうして初対面の私に……プラネタリウムを見に来ただけの私によくして下さるんですか?」
一瞬、訳が分からないといった表情をした真壁だったが、すぐに気を取り直すと照れたように笑って言った。
「あ、すみません。つい、嬉しくて。女性の方ですし、そうですよね・……・変に誤解とかしちゃいますよね」
真壁はポリポリと頭を掻いている。
「私はたくさんの人に空を見上げてもらいたいんです。星空は勿論ですが、青い空も。空にはたくさんの色があるんです。もっともっとそれを知ってもらいたい。だから……」
一度、そこで言葉を区切った真壁が姫の顔を見つめながら微笑んだ。
「あなたのようにプラネタリウムを見て感動して下さる方にはこの場所を案内しているんです。自分でもお節介だと分かっているのですが、一度でもいいから満天の星空や美しい空を見て欲しいって思っています」
満面の笑みに姫の目は奪われた。
― うわぁ。すごくいい笑顔だ。
今までこんなステキな笑顔に出会ったことはなかった。顔いっぱいに広がる笑みがとても瑞々しい。見る人全てに好感を与えるような笑顔は、ほんとうにステキとしか言いようがなかった。
その笑顔のせいなのか、姫は彼を信じてみようという気持ちになっていた。この真壁という人は純粋に、出会った人達に星空を見上げて欲しいだけなんだ。星空の素晴らしさを色々な人に知ってもらいたいだけなんだと。
そう思うと、聞いておきたかった疑問点はどうでもよくなっていた。彼が言うからにはきっと降るような星空は見えるはず。しかも真壁は自分を女優の姫野 あかりということに全く気が付いていない。
姫は彼を少し疑ったことのお詫びも込め、とびきりの笑顔を返した。
「分かりました。私……、ここに行ってみようと思います。そして、満天の星空を見たいと思っています」
真壁の表情がぱっと輝いた。
「是非、行って見て下さい。この美空市というところはとてもいいところです。自然も豊かで地元の方達も心優しい人ばかりです。もし何か困ったことや分からないことがあっても天体観測をしている人達に声を掛ければすぐに協力してくれますよ。星好きの仲間ですからね。緊急時には私の名を出してもらっても構いません」
「真壁さんのお名前を?」
姫の問い掛けに真壁は照れ臭そうに髪をかきあげて言った。
「そこに書いてある天文サークルの会長もしているんです。美空市に幾つかある天文サークルはネットワークで繋がっているので、私の紹介で来たと言えば皆、良くしてくれる筈です」
真壁の説明に安心した姫は、撮影が始まるクランクインまでの期間にこの美空市という土地を訪れようと決めていた。
「ほんとうにありがとうございました。何か分からないことがあれば……、ここに電話をしても構いませんか?」
資料の一番最後に真壁の携帯番号とメールアドレスが記載されていた。姫はそのページを指でなぞりながら真壁の顔を見た。
「勿論です。その連絡先はサークルで使っているものですから、どうぞご遠慮なく」
そして今日最後の投影準備があるからと席を立とうとした真壁が気付いたように言った。
「そうだ。実は私もペルセウス座流星群を観測しに近々、美空市に行く予定なんです。向こうで又、お会い出来るといいですね」
真壁は朗らかな笑みを浮かべながら小さくお辞儀をして喫茶室を出て行った。
夏の銀河の淡い輝き。まばゆいばかりに煌く天空の星々。その星たちのあいだを駆け抜ける流星。
投影が終わっても、姫は席から立ち上がることさえ出来ずに目を閉じたままだった。今でも瞼の裏側には輝く星がたくさん見えている。この想いを、この感覚をどう表現すればいいのだろう? そんなことを考えていても閉じたままの目からは何故か涙が零れ落ちてくる。切なくなるほどの感動が体中を支配していた。
「どうぞお使い下さい」
その声に濡れたままの瞳を開くと、目の前に青いハンカチが差し出されていた。その向こうには解説をしてくれた男が涼しげな笑みを湛えている。姫はそっと差し出されていたハンカチを手に取って言った。
「……ありがとうございます。星空も解説も、とてもステキでした。私……感動しちゃって、何て言っていいか分からないんです」
男はくすりと笑い、「ありがとう。とても嬉しく思います」と呟き、姫の隣の席に腰掛けて上映の終わった白い半球の天井を見上げた。
「でも……ほんとうの星空を、降るような星空を見ると言葉にはならないほどです。満天に輝く星空を見上げたときの想いはきっと忘れることが出来ませんよ」
姫はハンカチで涙を拭きながらそっと男の顔を見つめた。さっきは暗闇でよく見えなかったが、今は薄明かりの下で彼の顔立ちがはっきりと見える。
年齢は二十代後半ぐらいに見えるが、落ち着いた物腰と雰囲気は三十代にも見えた。
真夏だというのにネクタイをきっちりと締め、長袖の白いYシャツに金色のアームバンドをしている姿はいかにも科学畑の人という感じだ。彼はその視線に気付いたのか、そっと顔を姫のほうに向けると、にこりと微笑んだ。
「自己紹介がまだでしたね。私は真壁 北斗。この宇宙科学館の職員です」
人懐こそうな笑顔にどきりとした姫は、それを誤魔化すように慌てて挨拶を返した。
「わ……私は織田 姫です」
姫がペコリと頭を下げると、真壁は「どうぞよろしく」と言いながら立ち上がった。
「さ、ロビーにある喫茶室にでも行きましょう。先ほどお話した、星の降る場所をお教えします」
すっかりそのことを忘れていた姫は急いで腰を上げ、プラネタリウムの出口に向かって歩き始めていた真壁の後を追った。
喫茶室の大きな窓から見える中庭の池の水面がキラキラと光っている。薄暗さに慣れていた目には外の陽光が眩しく感じられた。
二人の前に置かれたグラスの中の氷が崩れ、カランと涼やかな音をたてる。その音を合図にしたように真壁が口を開いた。
「えっと、星の降る場所なんですが……」
その言葉に姫は身を乗り出した。
「こちらの用紙に詳細を明記してあります。電車での行き方、車での行き方、そして宿泊施設なども記載しています。是非、御自分の目で満天の星を見上げて下さい」
何時の間に用意していたのか、真壁はクリアファイルに挟んであった用紙を取り出し、テーブルの上に置いた。
A4用紙が三、四枚ほどあるカラーの資料。姫は用紙を手に取り、ざっとそれを読んで見た。その場所は都心から電車とバスで約一時間半、車だと高速を利用して一時間弱という距離だった。
聞いたこともないような市町村名。そして無理をすれば通勤通学も可能と言えるような場所でほんとうに降るような星空が見れるのだろうか。そんな疑問点を質問しようと姫がふと顔を上げると、真壁がにこにこしながら自分を見つめていた。嬉しそうな笑顔には下心や邪気が全く感じられない。なんだが調子が狂っちゃうな、と姫は思っていた。
仕事柄、出会う男性の殆どが姫の正体が女優の『姫野 あかり』だと分かると、携帯のメールアドレスや電話番号、住所を教えて欲しいと、所構わずに口説いてくる。
そんな輩ばかり見てきた姫にとっては少しばかり真壁という男性が新鮮に見えた。だが、どんな男でも用心に越したことはない。ちょっと試してみようと姫は思った。
「あの……、質問してもいいですか?」
資料を手にし、姫は上目遣いに真壁を見た。
「あ、はい。どうぞなんなりと」
穏やかな笑顔そのままで、真壁は手元にある自分の資料に目を落とした。
「真壁さんはどうして初対面の私に……プラネタリウムを見に来ただけの私によくして下さるんですか?」
一瞬、訳が分からないといった表情をした真壁だったが、すぐに気を取り直すと照れたように笑って言った。
「あ、すみません。つい、嬉しくて。女性の方ですし、そうですよね・……・変に誤解とかしちゃいますよね」
真壁はポリポリと頭を掻いている。
「私はたくさんの人に空を見上げてもらいたいんです。星空は勿論ですが、青い空も。空にはたくさんの色があるんです。もっともっとそれを知ってもらいたい。だから……」
一度、そこで言葉を区切った真壁が姫の顔を見つめながら微笑んだ。
「あなたのようにプラネタリウムを見て感動して下さる方にはこの場所を案内しているんです。自分でもお節介だと分かっているのですが、一度でもいいから満天の星空や美しい空を見て欲しいって思っています」
満面の笑みに姫の目は奪われた。
― うわぁ。すごくいい笑顔だ。
今までこんなステキな笑顔に出会ったことはなかった。顔いっぱいに広がる笑みがとても瑞々しい。見る人全てに好感を与えるような笑顔は、ほんとうにステキとしか言いようがなかった。
その笑顔のせいなのか、姫は彼を信じてみようという気持ちになっていた。この真壁という人は純粋に、出会った人達に星空を見上げて欲しいだけなんだ。星空の素晴らしさを色々な人に知ってもらいたいだけなんだと。
そう思うと、聞いておきたかった疑問点はどうでもよくなっていた。彼が言うからにはきっと降るような星空は見えるはず。しかも真壁は自分を女優の姫野 あかりということに全く気が付いていない。
姫は彼を少し疑ったことのお詫びも込め、とびきりの笑顔を返した。
「分かりました。私……、ここに行ってみようと思います。そして、満天の星空を見たいと思っています」
真壁の表情がぱっと輝いた。
「是非、行って見て下さい。この美空市というところはとてもいいところです。自然も豊かで地元の方達も心優しい人ばかりです。もし何か困ったことや分からないことがあっても天体観測をしている人達に声を掛ければすぐに協力してくれますよ。星好きの仲間ですからね。緊急時には私の名を出してもらっても構いません」
「真壁さんのお名前を?」
姫の問い掛けに真壁は照れ臭そうに髪をかきあげて言った。
「そこに書いてある天文サークルの会長もしているんです。美空市に幾つかある天文サークルはネットワークで繋がっているので、私の紹介で来たと言えば皆、良くしてくれる筈です」
真壁の説明に安心した姫は、撮影が始まるクランクインまでの期間にこの美空市という土地を訪れようと決めていた。
「ほんとうにありがとうございました。何か分からないことがあれば……、ここに電話をしても構いませんか?」
資料の一番最後に真壁の携帯番号とメールアドレスが記載されていた。姫はそのページを指でなぞりながら真壁の顔を見た。
「勿論です。その連絡先はサークルで使っているものですから、どうぞご遠慮なく」
そして今日最後の投影準備があるからと席を立とうとした真壁が気付いたように言った。
「そうだ。実は私もペルセウス座流星群を観測しに近々、美空市に行く予定なんです。向こうで又、お会い出来るといいですね」
真壁は朗らかな笑みを浮かべながら小さくお辞儀をして喫茶室を出て行った。