白紙のノートに、君だけが残した筆圧のメッセージ
転:ケシゴムとエンピツ
この春頃からYoutube、TikTokなどのSNSの配信や投稿がなんかヤバいなあと思っていたけど、だんだんとそれが確信に変わってきた。どんな風にヤバいかっていうと、投稿者や配信者に対して、明らかに攻撃的な書き込みが増え、削除しても、別のSNSでだれかが拡散している。
書き込まれている内容が事実なのか嘘なのかはわからない。でもそれは炎上を生み、鍵アカに変更したり、チャンネルの閉鎖に追い込まれている。それがネットのあちこちで起きているので、世の中の雰囲気が悪くなっているような気がするし、『中高生にSNSの使用を厳しくすべきだ』という声も強まっている。
そして、遂に。
私が推している、女子中学生VTuberのノアールちゃんのチャンネルも炎上してしまった。
彼女のチャンネルは『シャ・ノアール、屋根の上の世間話』という名前で、シャ・ノアールとはフランス語で黒猫のことで、文字通り、黒猫の猫ミミや尻尾のついた可愛いアバターで、ノアールちゃんが同世代の女の子と『屋根の上』で交流する、というもの。
アーカイブの配信としては『黒猫の嗅覚』という、女子中学生のファッションや流行りなどをレポートして、甘口辛口、直球でレビューしている。
ライブとしては、『ノアールのゴロゴロナイト』という土曜夜八時からのライブがあり、悩みや不平不満の投稿に黒猫らしい癒やし系のキャラでしっかり受け止め、コメントしてくれる。ときどき、『ノアールのダンス・ウィズ・シャドウ』というイベントがあって、彼女オリジナルのダンス音楽に合わせ、3Dアバターで可愛くしなやかなダンスを披露してくれる。これがほんとむっちゃ可愛いのだ。
フォロワーは、投稿の内容から想像すると、ほとんど私みたいな中高生の女の子が多いようで、愛されキャラのノアールちゃんを中心とした、この温かいネット空間が私はたまらなく好きだ。
それなのに、最近の投稿ときたら!
「ノアールちゃんって、ホントに女子中生ですか? 中の人は、事務所のプロの人だって聞いたことがあるんですけど」
「このあいだの『黒猫の嗅覚』のコスメレビュー、あれ、隠し案件じゃないの?」
とか、ほかのSNSでは「『ノアールのゴロゴロナイト』で悩みを相談したら、ひどいこと言われた」とか
「ついにノアールちゃんの化けの皮がはがれた!」明らかにAIで作成した画像や嘘の個人情報が拡散されたりしていた。彼女が大きいVTuber事務所に所属しているので、誹謗中傷の書き込みの削除依頼などの対応は必死にやっているみたいだけど、なにせ、書き込みの数が多く、情報が広く拡散されているため、全然追いついていない。ノアールちゃんは最初ていねいに返事をしていたけど、それに攻撃的な返信がついてきりがない。ライブ配信は当たりさわりのない雑談テーマが選ばれ、発言する彼女の声のトーンは暗い。このままじゃ彼女、潰されてしまう!
私は、クラスで起きた、ライングループのいじめ事件で書き込まれていた内容と、ノアールちゃんのチャンネルへフォロワーが書き込んだ内容の傾向が似ているなあとなんとなく思った。
こういう分析は、『シャドウ・エクリプス』としての真実を見極める能力を持つリンに相談するのが一番だ。彼女に『シャ・ノアール、屋根の上の世間話』のリンクをLINEのDMで送り、意見を聞いてみた。
彼女からすぐに返信はなかったけれど、翌日の土曜の朝に『今日これから会えない?』と返事が帰ってきたので、私は京王線のターミナル駅の近くにあるマックに夕方六時ごろに来て欲しいと頼んだ。その場所を指定したのには理由がある。
「フォロアーやSNSの投稿者のアカウントはバラバラですけど、書き込まれた記事の内容や追い込んでいく手口はそっくりです。ノアちゃんの想像の通り、これは『ドブラックがネットの人々を操作している』と考えて間違い無いでしょう」
テリヤキバーガーのセットが載ったトレーを席に着くやいなや、リンはこう切り出した。ちなみにこの店は私のオゴリだ。
「ありがとう……やっぱそうか」
私はイチゴのマックシェイクをズズッと吸い込み、リンを見つめる。彼女はすぐに察した。
「ノアールちゃんをなんとか助けてあげたいと?」
「当たり」
「でも、VTuberの事務所の人がなんとかしてくれるのではないかしら」
「リンも、ドブラックの手強さを知ってるでしょ? とても手に負えないんじゃないかな」
「確かに、それも言うのなら、ワタクシたちにだって……」
「ええ、だって私たちは、『エトワとエクリ』だよ?」
「リンちゃん、そんなに自分たちの力を過信してはいけませんわ」
「いや別に過信も油断もしてるつもりはないけど」
「ワタクシ、歌舞伎町で感じましたもの。ドブラック……中野結衣のオーラ。アニメの中で戦って来たときよりもずっと強く、邪悪になっているのを」
「でも、なんとか助けてあげたいの。ノアールちゃんを」
「あら、ずいぶんその子に肩入れしますのね。VTberってほかにもいっぱいいますでしょうに」
「ひょっとして嫉妬してる?」
彼女は食べていたポテトをのどに詰まられて咳き込んだ。
「嫉妬だなんて! そんなこと思っていませんわ。ただ、ワタクシたちの身の危険もありますし」
「大丈夫、もしものときは、私がリンを守る」
彼女の頬がうっすらと赤くなった。メガネに光りが反射して表情は今いち読み取れない。
「わかりましたわ。やってみましょう……その変わり、お礼は高くつきますわよ?」
「え! 今食べてる、テリヤキバーガーセットがお礼のつもりだったんだけど?」
「まあ、先払いのつもりで奢ってくれたの? ずいぶんと姑息ねえ……で、いつ決行するの?」
「……今から」
「まあ! またずいぶんと急ねえ」
「いや私は前々から今日やろうと決めてたんだけど」
「そんなの前もって言ってくださらないとわかんないでしょ!……ひょっとしてここから、ノアールちゃんのチャンネルに入り込むの?」
「いや、リアルで入ろうと思ってる」
「え! でも彼女の居場所なんて知らないでしょう? それに私たちリアルの場所だと、半径五百メートル以内じゃないと入れないでしょうに」
「実はノアールちゃん、これからライブ配信の時間で配信は、自宅の自分の部屋でやってるんだ。彼女がそう言ってたし」
「でもご自宅の場所なんて知らないでしょ」
「……調べてある。この店から歩いて二分くらいの住宅街の中」
「え! そんな個人情報、どうやって調べたの?」
「……それは秘密」
「立派なストーカーね。ドブラックは恐いですけど、あなたにも恐怖を感じますわ」
「ハハハ……」
私たちはハンバーガーのセットとマックシェイクを平らげ、店を出た。
○
リンと私はノアールちゃんの家がある住宅街を歩き、ブランコと小さなジャングルジムがあるくらいのこじんまりとした公園を見つけた。夕闇が迫っていて、子供たちもとっくに帰ったあとなのか、公園の中には人の姿は見えない。
二人並んでベンチに座る。ここなら急に姿を消しても現しても大丈夫だろう。私はスマホにメモった中学生VTbverの自宅住所を頭に叩き込み、ライブ配信から想像できる彼女の部屋をイメージした。
「ねえノア、いきなり部屋に出現したら彼女びっくりするんじゃありませんの?」
「そうだけど、なるべくソッと現れてすぐに自己紹介して事情を話せばなんとかなるんじゃないかと……」
「まあ、ぶっつけ本番ということね」
私たちは、片手でイヤーカフに触れ、もう一方の手をつなぎ、見つめ合う。景色はトンボが舞い銀色の雫がちらちらと輝く亜空間のビオトープに変わった。
声をそろえる。
「まだ書きかけの物語を奏でよう! 二人ぼっちの戦士 エトワとエクリ!」
私たちは亜空間で裸になり――このあいだリンに胸がどうとか言われたから、気になって隠してしまい――それぞれ白と黒基調のコスチュームに着替えた。
空間の真ん中にぽっかりと黒い穴があいた。ここからノワールちゃんの部屋に降りる。私が先に穴に入ろうとしたら。
「武器は用意しておきましょう」
とヒソヒソ声で言うので、私は背中の帯から『オモイ・エガク・ペンシル』(ネーミング、今いち……)を抜き、リンは『エクリプス・イレーザー』(要は巨大なケシゴム)を片手にだけ持って、順番に穴に入った。
そっとウッドカーペットの上に降りる。部屋は十二畳くらいの広さで暗く殺風景で、隅の方にデスクトップのパソコンやビデオカメラなどの機器類が載ったデスクがあり、その前のゲーミングチェアに黒いワンピース姿の女の子が座っていた。本人の姿はネットで配信されないはずだけど、黒いネコ耳つきのヘッドフォンを被っている。
その子は私たちが部屋にいることに気づいていないみたい。ちょうど今ライブ配信が始まったようだ。
大きなモニター画面のウエイティング用の映像からライブ開始のオープニング映像に変わり、音楽が加わる。いつもスマホで見ているシーンだ。
「みんなこんばんはー
夕ご飯はもう食べたかニャ?
いつも入ってくれてありがとうニャン」
黒猫少女のアバターが声に合わせて可愛い仕草で動く。いつもの始まり方だ。『ニャ』とか『ニャン』とかを語尾につけるのは、いつもここまでで、このあと
は普通に喋るので、私はその方がしつこさやイヤミさがなくていいと思う。
『今日はね、とても大切な話があります……みんなもとっくに気づいていると思うけど、今、このチャンネルは大変なことになっています」
私とリンは顔を見合わせる。
「あ、心配してくれる書き込み、ありがとう!……でもね、すべてノアールがいけないんだけど、みんなを怒らせちゃったり、いやな思いをさせちゃってて……」
彼女の一ファンとして、「いや、あなたはぜんっぜん悪くないよ」って言ってあげたかったけど、リンは私の肩を手の乗せて引き止めた。
「せっかくみんなが楽しみにしてくれていたのに、本当にごめんなさい。傷つけちゃってごめんなさい……だからね。この『シャ・ノアール、屋根の上の世間話』は今夜の配信を持って閉鎖させていただきます」
えっ、そんな!? それじゃあ私たち、ここに忍び込んできた意味がないじゃないの!
それでも彼女は構わず続ける。
「でも、それだけじゃすまないの。みんなも、うすうす気づいていると思うけど、最近、このチャンネルだけじゃなくて、ネット全体が荒れているの、みんなも気づいているよね? ……これ全部、このわたしのせいなんだ」
そう言って彼女は手元の機器をいじって画面をビデオカメラに切り替えた。
え! さすがに顔バレがやばいでしょ?
画面に、ノアールちゃんの顔が映し出された。
コメント欄にいっぱい『!』マークが入った書き込みが流れる。
その顔を見て、反射的に私とリンは一歩後ろに下がり、武器を構えた。
中野結衣!
……どういうこと?
彼女は私たちを振り返ることなく、配信を続ける。
「信じられないかもだけど、わたしにはある特殊な能力が備わっています。人が発言したり、ネットに書き込んだ内容から、不信、憎悪の感情を読み取り、それを絡め取って、もっと強い言葉にして、拡散する能力。わたしのお友だちはそれを『スパイダー・フェイク・ウェブ、つまり、偽りの蜘蛛の糸』と呼んでいます」
そう言うと、ノアール……中野さんは、ゲーミングチェアをぐるりとまわし、私たちに体を向けて微笑んだ。そして、すぐに姿勢を元に戻し、カメラ目線で話を続けた。
「もともとわたしは、まともな人間じゃないの。みんなの負の感情……悲しみ、淋しさ、憎しみ、怒り、嫌悪……そんなものが集まり、実体化したのが、このわたし。だからね、こんなわたしとその能力が消えさえすれば、ぜんぶ元に戻ると思う……今日はね、わたしの友だち、二人の戦う少女がこの部屋に来ています。わたしをきれいに消し去るために」
中学生VTuberは、カメラの配信を切らずに椅子から立ち上がり、私たちに近づいてきた。リンは今すぐにでも彼女の武器、イレイザーを放りそうな気配だ。
「リン、ちょっと待って。ちょっとノアール……中野さんと話をさせてくれる?」
「そんな必要はないと思いますけど。彼女も覚悟されているようですし……同情は禁物よ」
「……わかってる」
私は、一歩前に出て、中野さんに向きあう。
「中野さん、私ね、今の話しを聞いて……ううん、以前からずっとノアールちゃんの配信を見ていてね。あなたがドブラックだなんて思えないの。もしそうだったとしても、あなたが消えちゃわなくても、うまくいく方法があるんじゃないかと思う」
中野さんは、一度だけうなずく。
「ありがとう。でもね、一度経験しているでしょう?あのアニメの中で」
「どういうこと?」
「リンさん……シャドウ・エクリプスさんはね、わたしをきれいに消し去ろうとはしなかった。ひょっとしたらそれが原因で復活するかも知れないってわかっていても」
驚いてわたしのバディの顔を見る。
「よくご存じね、中野さん、じゃなくてノアールさん、じゃなくてドブラック……それは、ワタクシの痛恨のミスでした」
中野さんはうなずき、再び口を開く。
「でも、エクリプスさんは、保険をかけたんだよね? 万が一わたしが復活してしまっても、テレビを見ている人が被害にあわないようにって」
それを聞いてわたしはリンが言ったことを思い出した。
「それが、あの番組を打ち切って、みんなの記憶から消去したことなの?」
「ほんとうにすごい力よね」中野さんがつぶやく。
「でもやっぱり失敗した。こうやってあなたを
リアルの世界で復活させてしまったんだから」
「そう。だから、やっぱり『わたしたち』を完全に消し去って……」
そのとき、私のイヤーカフが熱くなり、ピキンピキンを大音量で危険を知らせた。
「危ない!」
私はとっさにリンに飛びつき、押し倒しす。直後になにか網状のものが私たちの頭上を通り過ぎ、壁にぶつかってそのまま貼りついた。
私はリンに手を貸し、彼女を起き上がらせたけど、そうしている間も部屋の反対側の暗がりを見つめてた。そして、
「そこに隠れていたのね、出てきてくださる?」
二、三秒してゆっくりと人影が私たちに近づいて来た。中野さんがその人影のそばに寄る。
私は呆然としながらその二人を見比べた。
「な、中野さんが二人!?」
黒いワンピースに黒のミドルヘア、あどけない表情は瓜二つだ。違うところと言えば、一人はネコ耳つきヘッドフォンを着けていること、もう一人は、さっき投げつけられたのと同じ網のようなものを手にぶらさげていること。
「惜しかったわね……もう少しでエクリプスさんの負の感情をからめ取って、それを利用することができたのに……ていうか、あなた、少し手を貸してくれてもいいんじゃない?」
『蜘蛛の網』をぶら下げている女の子は、そう言って中野さんを睨んだ。
私は次の一撃がまたやってくるのではないかと姿勢を低くして身構えていたが、リンは瓜二つの二人のやりとりを注意深く観察している。彼女なりに分析が終わったのか、二人に一歩近づいた。
「ち、ちょっとリン、大丈夫なの?」
私は気が気でならなかったが、彼女は冷静に答えた。「そういうことでしたの、分裂していたのね」
「どういうこと?」私にはさっぱりわからない。
「さすが『真実を見極める力』に秀でたエクリプスさんね……じゃあ、わたしはどっちかしら?」
蜘蛛の網を持つ中野さんが謎の質問を投げかけた。
リンはこともなげに答える。
「あなたが『憎しみのドブラック』でしょ? この騒動を引き起こしている張本人」
「……その通りよ」
「ねえリン、よくわかんないんだけど?」
私は二人の中野さんを目の前にして、混乱が収まらない。
「さっきライブ配信しているとき、ネコ耳の中野さんが、悲しみ、淋しさ、憎しみ、怒り、嫌悪、そんなものが集まって実体化したのが私だっていったでしょう? それが大きく二つに別れた、ということだと思うの。一つは、憎しみ、怒り、嫌悪、不信という感情が集まった人格。略して『憎しみのドブラック』、そしてもう一つが、悲しみ、淋しさ、孤独、諦め、そんな感情が集まって生まれた『悲しみのドブラック』」
「どうして二つの人格なの?」
「恐らく憎しみのドブラックの方が、みんなの感情を絡め取って、増幅し、『復讐』しようとしている。歌舞伎町で会ったのも学校のライングループであったのも、きっとこの子よ……攻撃的なの。一方悲しみのドブラックは、ただただ、悲しみや淋しさの中にいるだけ。可愛そうな子なの」
「え! それじゃあ、悲しみのドブラック、つまりノアールさんのチャンネルは、憎しみのドブラックに攻撃されて炎上したってこと!」
「そういうことになりますわね、ずいぶんと見境なく見えますけど、人間の免疫細胞がその人自身に悪さをするのと似てますわ」
それを聞いてネコ耳をつけた中野さんが静かに頭を下げた。
蜘蛛の網を持った中野さんはじっと目をつぶったままだ。
それを聞いて私の頭の中にある考えが浮かんだ。
「ということは、『憎しみのドブラックだけ』を消去すれば、この騒動は収まるってことじゃないの?」
リンは私の肩の上に手を置いた。
「その可能性も無くはないけど、二度と同じ失敗は繰り返したくない……確実に『ドブラックをすべて消し去る』」
「そんな……それってやってみないとわからないじゃないの? だいたいそのときの失敗って、リンの失敗でしょ? 悲しみのドブラック……中野さんには関係ないじゃない!」
私の反論を聞いて、リンの表情が厳しくなった。
「ねえノア、あなた妙に悲しみのドブラック……ノアールさんに肩入れしてません? それが命取りになりますよ」
「はあ? ひょっとしてリン、ヤキモチ焼いてんの?」
「なにをおっっしゃいますか! 冷静におなりなさい」
「冷静じゃないのはリンの方だよ!」
そのとき、急に私のからだの自由が奪われた。体中になにかがベトベトまとわりついている。それが『憎しみのドブラック』が放った蜘蛛の網だと気づいたときはもう手遅れだった。身動きがとれずにバランスを崩し、横倒しになった。彼女は人の負の感情を増幅させる力がある。しまった……私とリンに言い争いをさせて隙を作ったんだ。
「二人で一つのエトワとエクリが、片割れになってしまったね。これでもう、あなたたちに勝ち目はなくなったわ。あなたがたが言う『憎しみ』と『悲しみ』のドブラックは不滅よ」
リンにも蜘蛛の網が放たれたが、彼女はギリギリのタイミングでそれをかわした。今度は両手にエクリプス・イレイザーを持ち、二人のドブラックにジリジリを歩み寄る。
そのとき。
『悲しみのドブラック』が私めがけて突進し、身をかがめて私に抱きつくと、蜘蛛の網をビリビリと剥がし始めた。それを自分の腕に巻きつけると、今度は『憎しみのドブラック』目がけて突き進んだ。
「こら、やめるんだ、放せ!」
憎しみのドブラックが覆い被さろうとする自分の分身を押しのけて阻止しようとするが、悲しみのドブラックは手足を使ってまとわりつき、手に巻いていた蜘蛛の網を二人の体に巻きつけた。
「さあ、エクリプスさん、わたしたちを消して!」
「だめだリン! 消すんじゃない!
私は思わず叫んだ。
「さあ、急いで!」
悲しみのドブラック……ノアール……中野さんが急かす。
「ごめんなさい、ノアール……ごめんなさい、ノア」
そう言うと、リンは目をつぶり、大きなケシゴムを二つ頭上高く掲げた。
「ちょっと待って」
私は、なんとか声を振り絞った。
「リン……こうしてくれないかな?」
「なんですの?」
「もうこんな悲しい思いはしたくない。むやみに人を疑ったり怒ったりしたくない……こんな辛い思いをするくらいなら、『戦いの少女』なんかもうやりたくない。だから、リンさえよければ、私たちの記憶もすべて消して欲しいんだ……もちろん、今動画配信を見ているフォロワーたちの記憶からも」
なんとかそう言い終えたら涙が溢れて止まらなかった。
リンは上げていた手を下ろし、しばらく黙っていた。 そしてケシゴムを持ったまま私をぎゅっと抱きしめた。
「わかりました。ノアの願いを尊重します。でも一つだけお願いがあるの」
「?」
「ワタクシが『過去』を消去したら、必ずノアたが『未来』を描かねばなりません……未来の見えなかったら、また同じことが起きてしまいます」
「どうすればいいの?」
「ワタクシが消去の動作に入ったら、あなたの武器で未来の物語を書いてください」
「……わかった」
私は、蜘蛛の縄でがんじがらめになっている二人に近づき、涙を流している、文字通り『悲しみのドブラック』に尋ねる。
「ねえ、中野さん……ノワール。君のことは絶対に忘れたくない。だから、未来に残す君の思いを聞かせて欲しいの」
「ありがとう……」
少しだけ考え、彼女は口を動かした。
「どんなにケシゴムできれいに消しても、筆圧が強ければ、うっすらとその跡は残る……私をそういう風に思い出してくれるとうれしいな」
「う、うん……わかった」
ノワールの頬に私の涙が落ち、それに反応して彼女は微笑んだ。
リンに頷いて合図する。彼女は再び大きなケシゴムを頭上にかかげた。
それと同時に私は、『オモイ・エガク・ペンシル』を両手に構える。
「イレイズ」
リンが厳かに唱える。
私は、ノアールの言葉を反すうしながら、
「思い出を育てよう、一緒に」
そんなシンプルなメッセージを大きなエンピツの芯先から放った。
きっとこれが、あのアニメのほんとうの最終回なんだ。