悪魔の娘が帰還するまでーささやかな復讐と聖女の称号を添えてー

第十四章:百年の繁栄の代価

 時が、止まったようだった。

「記憶……?」

「そう。ノクティレアとの思い出だ。あの魔界での日々、弟妹たちと笑った日常。痛みから救われ、愛された証。君の帰る理由そのものを、この場に捧げるんだ」

 オリヴィアは息を呑んだ。

 色鮮やかに浮かぶのは、あの温かな腕。焼きたての甘いパンにヤカンの湯気。弟妹たちの笑顔。揺れる洗濯物と香草の香り。

 ──それらを、失う?

「そんな……馬鹿げてる……!」

「馬鹿げていないさ。実際にそうやって望みを叶えた者は、数多くいるよ。過去を捨て、自分を忘れ、ただ望みだけを残して駆け抜ける」

「そんな……そんなの……」
 絶望をどれほど集めれば良いのか分からない。この身体でどこまで出来るかも不明だ。
 まだ王太子の婚約者の身分も保留である、自由に動くことも工夫が必要だろう。

 だが、あの思い出を代償に門を開く?

 記憶を手放して、ノクティレアを、弟妹たちを、思い出せなくなっても──それでも、帰る?

「……違う。そんなの、意味がない」

 オリヴィアは首を振った。

「私は、あの時間を取り戻すために帰りたいの。あの思い出は、私の全てなのよ!」

 フィンレイはしばらく黙っていた。
 そして、ふっと微笑んだ。

「向こうでもう一度積み上げたら良い。それに帰るまでにここで新たに良い時間を得られるかもしれないじゃないか……どうだい君に優しい人間だって現れたんだろう?」

「……シャーロットのこと?彼女はあなたの仕組みで私の側にいるの?」

するとフィンレイは唇を歪めてニヤリと笑った。
「いいや?鎌をかけただけさ。何だ本当にいるんじゃないか。」
「ふざけないで、お喋りしている時間はないのよ…っ」

 忘れるということは、彼女の愛をなかったことにすること。

 弟妹たちの涙も、笑顔も、励まし合った言葉も──消し去ること。

 それは、オリヴィアが自分で自分を裏切る行為だった。

「……母さんを、あの日々のことを、忘れて生きるくらいなら……私はここで一生を終える方がマシよ」

 フィンレイの金の瞳が、すっと細められる。
オリヴィアの足元を照らす蛍火魔術の淡い光を受け、言葉にならない美しさを湛えながら。

「……ふふ。そうだろうと思った」

 その声音には、どこか安堵すら含まれていた。
「君が選ばないことを、俺は見届けに来たんだ」

「……え?」
予想外の言葉に呆けた声が出た。

「悪魔は、ただ願いを叶えるだけの存在でも、ただ人間を堕とす存在でもない。俺たちは選ばせる。
君たちの意志を試す。願いを持つ者が、叶えるに足る魂かどうかを──」

 オリヴィアの心臓が、徐々に落ち着いていくのを感じた。今まで速かったことに、今更気付いた方が正しいか。

「つまり……あれは、本当の契約の提案じゃなかったの?」
途端にフィンレイの視線は冷え冷えしたものになった。

「君が契約を望んでいたなら、それは本物になった。だけど君は、それを拒んだ。だからこそ、次に進める。……非常に厳しい道のりだがね。」

 魔界門を開くため、次にオリヴィアがすべきこと。
 ──人々の絶望を集める。誇り高い悪魔として同時に、その痛みに触れ、救うこと。

 後半は、本来、予言の乙女に期待されたが、しなかったこと。
 でも、オリヴィアなら出来る。
 それが僅かだとしても、しないよりずっと良い。
 なぜならオリヴィアは、絶望を知っているからだ。

 あの時ーー血まみれの暗い部屋で縛り付けられている時、誰かがオリヴィアのために一言でも庇ってくれたら。

抱き締めてくれなくて良いからせめて、兄たちだけでなく女である自分の誕生日を、覚えてくれている人がいたら。

泣いても吐いても鞭で打たれ、背中が膿んで熱が出ても、教養の授業や舞踏の練習をさせられていた時に、誰かが罵倒以外の言葉をかけてくれたら。

 誰かが、ただの一度でも認めてくれたら……。

 ーー誕生日を祝われていた令嬢は、親に抱きしめられ、愛情の言葉と祝福のキスを受けていたーー。

 いつか実父母もオリヴィアを愛してくれるのではと期待した。だが、それはもうあり得ない過去だ。今はーー。

「私は、悪魔の娘だもの!…ハッ、出来るに決まってるわ……」
手を床についたが、力が入らず滑ってしまった。滑ったまま肘で顔を上げる。

「既に大分辛そうだが……?身体の調子を治してやろうか?」
「結構よ!っぐ、ぅ……うえぇえええ!!!」

 限界を迎え、床に広がる液体と水音。
 フィンレイは面倒臭そうに顔を背け、天井を見上げるようにした後、退屈そうに語り出した。

 「……ああ、なんか大変そうだから、少し昔話でもしようか。この国の王家はこの場所で、『百年の繁栄』と引き換えに『最大の絶望』を差し出す大掛かりな契約を結んだ。最大とは何か?――『未来』だよ。例えば、希望を抱いた子どもを残酷な手段で殺すことだ」

 「……‼︎」
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