悪魔の娘が帰還するまでーささやかな復讐と聖女の称号を添えてー
第十九章:私に出来ること
数日後、噂を聞きつけた次の町へ向かう道中、オリヴィアはふらりと視界が白むのを感じ、岩壁に手をついた。
――胸の奥が、軋む。
封印解除の後遺症は波のように寄せては返す。高熱、関節痛、胸の圧迫。本来は引いていてもおかしくない時期だが、オリヴィアは最近、痛みの間隔が狭まっていた。
(大丈夫。立てる、まだ行ける)
そこへ、シャーロットが水を差し出す。
「お願いです、無理はなさいませんように」
彼女の指は震えていた。
驚いてシャーロットを見ると、彼女は子供みたいに涙を流していた。
「私は、あなた様がいつも誰かのために動いてくださっていることを知っています。けれど……ご自分を、少しは労わってください」
(違うのよ、シャーロット。これは私のため――帰るため)
喉まで出かかった言葉を飲み込み、代わりに小さく微笑んだ。
「ありがとう……、そんな顔をさせてごめんなさい」
◇◇◇
次の町は、貴族向けに輸出入事業から、顧客に直接売るための店の経営まで手広く囲い込む、爵位を買った豪商の男爵が仕切っていた。
広場は噴水もあり、豪商の屋敷までの道は、馬車が行き交える幅もあった。
だが一歩踏み込んだ路地には痩せた子が倒れていて、豪商の蔵には膨れた袋があった。
オリヴィアは昼にはいつも通りだったが、町民から聞いた豪商の行いを知って、少しのお節介を仕掛けた。
翌朝、何故か男爵は一晩で白髪となり、悪魔を見たような怯えた顔で、私財を投げ打ち、町民へ食糧を届け、代金を肩代わりした無料診療日を設けた。
あの強欲な豪商が何故、と誰もが首を捻った。そしてこう結論づけた。
「きっと聖女様がいらしたおかげだ!」
◇◇◇
「助けてくれ、聖女様……!」別荘を訪れる声は絶えない。
聖女。初めは便利だと思ったその名は、オリヴィアの皮膚の内側でじわりと焼けて焦げ付いていた。
(私は決して聖女なんかじゃない、ただ魔界の知識があるだけ、こんなに困っている人たちを利用して……)
真実との乖離のための罪悪感は拭えない。しかしだからこそ出来る限り、救う。――悪魔の娘の矜持として。
そして、それは今やオリヴィアにとって「したいこと」になっていた。
だがシャーロットはオリヴィアを涙ながらに止める。
今朝に至っては大袈裟ではなく、文字通り縋り付いて止められた。
「こんなにお痩せになって!皆の前に出る時は汗もなく立っておられますが、帰る頃には死んでしまうかと思うほどではないですか!昨日だって馬車で意識を失われて……」
別荘にいる他の使用人たちもオリヴィアを心配していた。エルフォード家は勿論だが、王家もシャーロット以外に使用人を派遣してはくれなかった。王家については求人を出してくれただけ有難いことだ。
ここの使用人たちの多くは、最低限の管理でほぼ放置されていたこの別荘を、オリヴィアが使うことになってから雇用された。
急なことで近隣出身の者ばかりだったから、顔見知りである出入りの業者や、家族とのやり取りを通じて間接的にオリヴィアの行いを知ることになったのだ。
「元気になるためのお散歩の筈だったのに、もう骨と皮ばかりだわ。村の人たちが助けを求める度に無理をされるから……。私たちの村は助かるけど、でも…」
「こんなに尽くしてくれる貴族なんていたのね。税金を搾り取って飾り立てる奴らばかりだと思っていたわ。」
「いつも洗濯係の私にまで有難うって仰ってくださって……。なんてお優しいのかしら」
訪れる者が増え、謎の少女と別荘の貴人様が同一人物であることも徐々に知られている。使用人たちを通して、或いは自力で気が付いて。
元々の設定に無理があるし、最初は貴族の道楽と拒否されたり萎縮させてしまうことを懸念したのだが、この段階になれば、そこまで止めることもない。
だが、当初の予想以上に求められる聖女としての役割に、オリヴィアの身体は衰弱した。
オリヴィアは昨夜から何も受け付けていない喉で、シャーロットに答えた。
「でも、私が動かないと…夜中に死んでしまう子供がいるかもしれないから……」
オリヴィアよりも衰弱しているのに、硬い土の上で雨に打たれて死ぬ子がいる。
子供の亡骸を抱いて泣く母がいる…。
知ってしまったのだ。現実は文字や話で知るよりも遥かに衝撃的だった。
人は死ぬと重くなる。間に合わなかった子供が、オリヴィアの膝の上で冷たく硬くなっていく。
きっと助かると思って、やっと聖女の元に来たのに、救えなかった時の母親の慟哭は、耳を突いていつまでも脳を揺らす。
何に例えることも出来ない、ただただその子を想って、悲しみに塗れた声だった。
魔界の教科書でも見たことのない症状の人にも会った。恐らくは或る病気の最末期。文字だけでは知っていたが、聞くのと見るのとでは大違いだ。
通常の貴族令嬢のままなら、絶対に知ることはない見た目に変化していたその人は、きっと早く良い医者にかかれていれば、家族手製の座敷牢の中に匿われることもなかった筈だった。
悲劇は溢れている。オリヴィアの目の前で、物語ではなく現実として、日々悲鳴をあげたくなることばかりが積み重なっていく。
自分が何か出来ていたら、違ったのではないかと、何かがずっとオリヴィアを苛む。
「今からでも私に出来ることをしたいわ……」
――胸の奥が、軋む。
封印解除の後遺症は波のように寄せては返す。高熱、関節痛、胸の圧迫。本来は引いていてもおかしくない時期だが、オリヴィアは最近、痛みの間隔が狭まっていた。
(大丈夫。立てる、まだ行ける)
そこへ、シャーロットが水を差し出す。
「お願いです、無理はなさいませんように」
彼女の指は震えていた。
驚いてシャーロットを見ると、彼女は子供みたいに涙を流していた。
「私は、あなた様がいつも誰かのために動いてくださっていることを知っています。けれど……ご自分を、少しは労わってください」
(違うのよ、シャーロット。これは私のため――帰るため)
喉まで出かかった言葉を飲み込み、代わりに小さく微笑んだ。
「ありがとう……、そんな顔をさせてごめんなさい」
◇◇◇
次の町は、貴族向けに輸出入事業から、顧客に直接売るための店の経営まで手広く囲い込む、爵位を買った豪商の男爵が仕切っていた。
広場は噴水もあり、豪商の屋敷までの道は、馬車が行き交える幅もあった。
だが一歩踏み込んだ路地には痩せた子が倒れていて、豪商の蔵には膨れた袋があった。
オリヴィアは昼にはいつも通りだったが、町民から聞いた豪商の行いを知って、少しのお節介を仕掛けた。
翌朝、何故か男爵は一晩で白髪となり、悪魔を見たような怯えた顔で、私財を投げ打ち、町民へ食糧を届け、代金を肩代わりした無料診療日を設けた。
あの強欲な豪商が何故、と誰もが首を捻った。そしてこう結論づけた。
「きっと聖女様がいらしたおかげだ!」
◇◇◇
「助けてくれ、聖女様……!」別荘を訪れる声は絶えない。
聖女。初めは便利だと思ったその名は、オリヴィアの皮膚の内側でじわりと焼けて焦げ付いていた。
(私は決して聖女なんかじゃない、ただ魔界の知識があるだけ、こんなに困っている人たちを利用して……)
真実との乖離のための罪悪感は拭えない。しかしだからこそ出来る限り、救う。――悪魔の娘の矜持として。
そして、それは今やオリヴィアにとって「したいこと」になっていた。
だがシャーロットはオリヴィアを涙ながらに止める。
今朝に至っては大袈裟ではなく、文字通り縋り付いて止められた。
「こんなにお痩せになって!皆の前に出る時は汗もなく立っておられますが、帰る頃には死んでしまうかと思うほどではないですか!昨日だって馬車で意識を失われて……」
別荘にいる他の使用人たちもオリヴィアを心配していた。エルフォード家は勿論だが、王家もシャーロット以外に使用人を派遣してはくれなかった。王家については求人を出してくれただけ有難いことだ。
ここの使用人たちの多くは、最低限の管理でほぼ放置されていたこの別荘を、オリヴィアが使うことになってから雇用された。
急なことで近隣出身の者ばかりだったから、顔見知りである出入りの業者や、家族とのやり取りを通じて間接的にオリヴィアの行いを知ることになったのだ。
「元気になるためのお散歩の筈だったのに、もう骨と皮ばかりだわ。村の人たちが助けを求める度に無理をされるから……。私たちの村は助かるけど、でも…」
「こんなに尽くしてくれる貴族なんていたのね。税金を搾り取って飾り立てる奴らばかりだと思っていたわ。」
「いつも洗濯係の私にまで有難うって仰ってくださって……。なんてお優しいのかしら」
訪れる者が増え、謎の少女と別荘の貴人様が同一人物であることも徐々に知られている。使用人たちを通して、或いは自力で気が付いて。
元々の設定に無理があるし、最初は貴族の道楽と拒否されたり萎縮させてしまうことを懸念したのだが、この段階になれば、そこまで止めることもない。
だが、当初の予想以上に求められる聖女としての役割に、オリヴィアの身体は衰弱した。
オリヴィアは昨夜から何も受け付けていない喉で、シャーロットに答えた。
「でも、私が動かないと…夜中に死んでしまう子供がいるかもしれないから……」
オリヴィアよりも衰弱しているのに、硬い土の上で雨に打たれて死ぬ子がいる。
子供の亡骸を抱いて泣く母がいる…。
知ってしまったのだ。現実は文字や話で知るよりも遥かに衝撃的だった。
人は死ぬと重くなる。間に合わなかった子供が、オリヴィアの膝の上で冷たく硬くなっていく。
きっと助かると思って、やっと聖女の元に来たのに、救えなかった時の母親の慟哭は、耳を突いていつまでも脳を揺らす。
何に例えることも出来ない、ただただその子を想って、悲しみに塗れた声だった。
魔界の教科書でも見たことのない症状の人にも会った。恐らくは或る病気の最末期。文字だけでは知っていたが、聞くのと見るのとでは大違いだ。
通常の貴族令嬢のままなら、絶対に知ることはない見た目に変化していたその人は、きっと早く良い医者にかかれていれば、家族手製の座敷牢の中に匿われることもなかった筈だった。
悲劇は溢れている。オリヴィアの目の前で、物語ではなく現実として、日々悲鳴をあげたくなることばかりが積み重なっていく。
自分が何か出来ていたら、違ったのではないかと、何かがずっとオリヴィアを苛む。
「今からでも私に出来ることをしたいわ……」