悪魔の娘が帰還するまでーささやかな復讐と聖女の称号を添えてー
第二十八章:悪魔の見限り ※アイラ視点2/2
大祈祷が近づく。――彼女の机に届いた書類の束。そこに記された言葉は可能な限り柔らかく飾られていた。 悪魔契約の残酷な儀式の隠れ蓑だ。
しかし文官が見逃したのか、それとも誰かに気付いてほしいのか、本当に目を通せば、誰にでも分かる矛盾と異様さが並んでいた。
「贄」「代償」といった神への祈りとは異なる準備。
そして一言も神や天使に触れていない。
けれど、アイラは羽根ペンをくるくると弄びながら、斜めに署名した。
その瞬間に数百もの子供の運命が決定したのだ。
「うーん、この羽ペンじゃなくて、真珠が付いたのってなかった?」
窓の外で、泣き叫ぶ母の声がかすかに届いた。
アイラは眉を顰め、手元の宝石箱の蓋を閉じた。 昼間にあった成り上がり貴族の子息から贈られた政治的意味合いの強い贈り物だった。
「気が散るわね、どれだけ大声で騒いでいるのよ。侍女、窓を閉めてちょうだい」
「サインの前にちゃんと内容をお読みください」と差し出しても、アイラは鼻で笑った。
「こんな難しいの、分かるわけないじゃない。学校でだって習ってないわ。殿下に任せればいいのよ」
(王太子妃になろうというのに、学校の内容で物事を判断するのは間違いに決まっている。
特別な教師を複数付けてもらっておきながら、逃げ回っているから分からないのよ)
侍女たちは心の声に蓋をした。
「ですが、これは私どもには文字が見えません。特別な方しか読めない術が施してあります。きっと大事な……」
「なんか毎晩呼ばれて祈ってるから、きっとやることなら分かるわよ、大丈夫」
特別になりたいと言いながら、アイラがその責任に向き合うことはなかった。
◇◇◇
やがて私室での語らいの場で王太子が言った。
――王家が行おうとしている残酷な儀式。子供を生贄にする大祈祷。
どうせアイラは内容を理解していないだろうという可哀想な推測からだった。
「……国のためなんだ。」
王太子の俯いた、苦渋の決断に見える顔の造りの美しさだけをアイラは見ていた。
「国のためですもの。清濁を併せ呑むことも必要ですわ」
アイラは最近知った言葉をひけらかしながら、王太子に同調した。
王太子はオリヴィアと違って、己を肯定してくれるアイラを選んで良かったと改めて礼を述べた。
◇◇◇
「予言の乙女がそんなもののために祈らないと言えば、まともな教会の人間に告発していれば、王太子に苦言を呈していれば、身を張って子供たちを守っていればーー。
子供たちは、守れたかもしれないな。」
ヴァルドがそう言うと、フィンレイは疲れ果てた顔で頷いた。
「ああ…。アイラが目を逸らし耳を塞いでも、アイラが悪意を持っていなかったとしても、アイラが行わなかったことと行ったことのせいで発生した悲劇は、いずれアイラに戻ってくる。」
二人の悪魔は、空中で向きを変えた。
足元の町では、子供の泣き声と母親の慟哭が続いている。
◇◇◇
大祈祷の当日、日が落ちかける頃、フィンレイが最後の確認に現れた。
「たとえば今夜――灯が落ちても、あなたはただ笑っていればいい……。大事な儀式があるのでしょう?」
「どうして知っているの?限られた人しか知らない特別な儀式なんでしょう」
「あなたが関わることなら、私は全て知りたいのですよ」
「まあ……!」
アイラは頬を赤らめる。疑わしい言葉を微塵も気にする気配はない。
「あなたには今夜、『大切な役目』がある。『民のため』頑張ってください」
「わかったわ!任せて」
アイラは胸を張る。
役目という言葉の重みなど、首飾りの石ほども感じずに。
アイラは知らない。
自分の契約が、何を鈍らせ、どこに影を落としているのか。
彼女はただ、いるだけで愛されていると信じて歩く。
その根は、無条件に愛されて見える兄と姉、そして両親にあるのだが、本人は蓋をする。何だか胸がザワザワする……、そう思うと考えることを放棄する。
半端ではあるが、予言の乙女に選ばれるだけの才覚は本当にあったのに。教会へ預けられた縁もあったのに。多くの人に出会い、助言をしてくれる人は大勢いたのに。
自身と向き合っていれば、どこかで誰かの言葉を真摯に聞いていれば、努力を厭わなければーー。
「そういう契約だからな…。お前が望んだ『特別』の意味も分かるようになるだろう」
フィンレイは溜息を吐きながら首を横に振った。
遂に悪魔すらも見限った瞬間だった。
しかし文官が見逃したのか、それとも誰かに気付いてほしいのか、本当に目を通せば、誰にでも分かる矛盾と異様さが並んでいた。
「贄」「代償」といった神への祈りとは異なる準備。
そして一言も神や天使に触れていない。
けれど、アイラは羽根ペンをくるくると弄びながら、斜めに署名した。
その瞬間に数百もの子供の運命が決定したのだ。
「うーん、この羽ペンじゃなくて、真珠が付いたのってなかった?」
窓の外で、泣き叫ぶ母の声がかすかに届いた。
アイラは眉を顰め、手元の宝石箱の蓋を閉じた。 昼間にあった成り上がり貴族の子息から贈られた政治的意味合いの強い贈り物だった。
「気が散るわね、どれだけ大声で騒いでいるのよ。侍女、窓を閉めてちょうだい」
「サインの前にちゃんと内容をお読みください」と差し出しても、アイラは鼻で笑った。
「こんな難しいの、分かるわけないじゃない。学校でだって習ってないわ。殿下に任せればいいのよ」
(王太子妃になろうというのに、学校の内容で物事を判断するのは間違いに決まっている。
特別な教師を複数付けてもらっておきながら、逃げ回っているから分からないのよ)
侍女たちは心の声に蓋をした。
「ですが、これは私どもには文字が見えません。特別な方しか読めない術が施してあります。きっと大事な……」
「なんか毎晩呼ばれて祈ってるから、きっとやることなら分かるわよ、大丈夫」
特別になりたいと言いながら、アイラがその責任に向き合うことはなかった。
◇◇◇
やがて私室での語らいの場で王太子が言った。
――王家が行おうとしている残酷な儀式。子供を生贄にする大祈祷。
どうせアイラは内容を理解していないだろうという可哀想な推測からだった。
「……国のためなんだ。」
王太子の俯いた、苦渋の決断に見える顔の造りの美しさだけをアイラは見ていた。
「国のためですもの。清濁を併せ呑むことも必要ですわ」
アイラは最近知った言葉をひけらかしながら、王太子に同調した。
王太子はオリヴィアと違って、己を肯定してくれるアイラを選んで良かったと改めて礼を述べた。
◇◇◇
「予言の乙女がそんなもののために祈らないと言えば、まともな教会の人間に告発していれば、王太子に苦言を呈していれば、身を張って子供たちを守っていればーー。
子供たちは、守れたかもしれないな。」
ヴァルドがそう言うと、フィンレイは疲れ果てた顔で頷いた。
「ああ…。アイラが目を逸らし耳を塞いでも、アイラが悪意を持っていなかったとしても、アイラが行わなかったことと行ったことのせいで発生した悲劇は、いずれアイラに戻ってくる。」
二人の悪魔は、空中で向きを変えた。
足元の町では、子供の泣き声と母親の慟哭が続いている。
◇◇◇
大祈祷の当日、日が落ちかける頃、フィンレイが最後の確認に現れた。
「たとえば今夜――灯が落ちても、あなたはただ笑っていればいい……。大事な儀式があるのでしょう?」
「どうして知っているの?限られた人しか知らない特別な儀式なんでしょう」
「あなたが関わることなら、私は全て知りたいのですよ」
「まあ……!」
アイラは頬を赤らめる。疑わしい言葉を微塵も気にする気配はない。
「あなたには今夜、『大切な役目』がある。『民のため』頑張ってください」
「わかったわ!任せて」
アイラは胸を張る。
役目という言葉の重みなど、首飾りの石ほども感じずに。
アイラは知らない。
自分の契約が、何を鈍らせ、どこに影を落としているのか。
彼女はただ、いるだけで愛されていると信じて歩く。
その根は、無条件に愛されて見える兄と姉、そして両親にあるのだが、本人は蓋をする。何だか胸がザワザワする……、そう思うと考えることを放棄する。
半端ではあるが、予言の乙女に選ばれるだけの才覚は本当にあったのに。教会へ預けられた縁もあったのに。多くの人に出会い、助言をしてくれる人は大勢いたのに。
自身と向き合っていれば、どこかで誰かの言葉を真摯に聞いていれば、努力を厭わなければーー。
「そういう契約だからな…。お前が望んだ『特別』の意味も分かるようになるだろう」
フィンレイは溜息を吐きながら首を横に振った。
遂に悪魔すらも見限った瞬間だった。