君の言葉で夢を見たい
………



あれは確か、半年くらい前――チェックインが始まる前の、ホテル全体が落ち着いている時間だった。


タオル追加の依頼をしてきた電話の主は、たどたどしい日本語で、一生懸命にそれを伝えようとしてくれていた。

だから私は、言語を日本語から英語に切り替えて彼との会話を続けた。


いつも通りゲストからの依頼を受け、客室課に依頼を飛ばして、相田ちゃんと雑談をして。

チェックインが始まった後は目の前の業務を淡々とこなした。


ロビーに立ち、目の前を通り過ぎていくゲストににこやかに挨拶をする。

だけどその接客の合間にふと、思い出す声があった。


不安そうな日本語の合間に漏れた彼の息遣いと、英語に切り替えた瞬間にふっと緊張がほどけた気配が、ざらりと引っかかるみたいに残っていた。





だから翌日――



「……トイレ、どこですか」



ロビーでお声がけした男性ゲストが躊躇いがちにそう言ったとき、すぐにわかった。


昨日、タオルの追加を依頼してきたゲストだ――


たどたどしい日本語の奥に、昨日と同じような緊張が滲んでいる気がした。

これ以上、居心地の悪い思いをさせたくなくて、私は昨日と同じように英語に切り替えて案内をした。



それが一番スムーズだと思ったし、実際その判断は間違っていなかったはずだ。


だけど彼は、少しだけ寂しそうに微笑んで「ありがとうございます」と小さく言った。


その表情とさっきより少し低くなった声が、前日の電話越しの記憶を上書きした。



そのあとすぐに朝のロビーはチェックアウトのゲストで溢れて、少し寂しそうな彼の声と表情は記憶の奥の方に押し込まれていった。




「Enjoy your trip! 《良い旅を!》」


ホテルを後にする英語圏のゲストを見送った後、不意に思い出したのはあの彼の日本語だった。



私はロビーのソファで談笑しているゲストや、レストランの案内を見ているゲストを見渡し、お困りのゲストがいないか目を配る。

彼の声が頭から離れない理由に気づいている。


あの寂しそうな「ありがとうございます」を言わせてしまったのは、私だ――。


お腹の前で重ねた手の指に力が入る。




新しい言語をひとつ身につけるたびに、あの時の彼みたいに、言葉のことで緊張してしまうゲストを安心させられる機会も増えるかもしれない。


そう思ったらいてもたってもいられなくなって、その日の仕事帰りに本屋へ寄った。

中国語は大学の第二外国語の必修科目で、少しだけ齧ったことがあった。


だから次に手を伸ばすなら、まったく知らない言葉がよかった。

それで選んだのが、韓国語だった。



韓国から来た団体のゲストだからといって、彼の母語が韓国語だとは限らない。

それはわかっている。

それでも、韓国語を学ぶことの価値は変わらない。





家に帰ると早速、買ったばかりの「はじめての韓国語」を開いてみた。

初めてじっくりと見たハングルは日本語よりもカクカクとしていて、記号みたいだった。

四角、丸、線の組み合わせでできたシンプルな見た目が、余計に言語っぽくない。


いつかこれが文字として読めるようになるの……?


それはエベレストの頂上みたいに遠く感じた。

だけどもし、韓国語を話せるようになったら、韓国にいる五千万人を超える人と言葉を交わせる可能性が生まれるのだと思うと、自然と胸が弾んだ。



もう一度彼に接客をすることはないかもしれない。


だけどもし「もう一度」があったら――



ページを捲る指に、わずかに力がこもる。


そして、まだ記号にしか見えないハングルが並んだ、「ハングルの基本」と書かれたページの一行目に視線を落とした。

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