孤高の心臓外科医は、憎しみの元恋人を熱情で囲い込む
そう言い捨てて、友人はくるりと背を向けてしまった。
(恋とか彼氏とか、人生で必要あるのかな)
一葉は、生まれてから一度も恋という恋をしたことがない。
というのも、彼女が育った環境によるものが大きい。
日本でもそれなりに名の知れた篠宮(しのみや)医療(いりょう)機器(きき)メーカーの社長令嬢として生まれた一葉は、物心ついた頃に女性しかいない幼稚園を受験し、そのまま高校までエスカレーター式に進学してきた。よって、普段から父と教師以外で多くの男性に触れあってこなかった。
それに母が亡くなってから、父親が寂しさを埋めるように夜の仕事の女性に溺れ、たくさんお金を使っているのを知っていたため、男女の付き合いというのは危険な駆け引きが潜んでいるものだと勘ぐってしまう。
友人から聞く恋愛話も、喧嘩だとか浮気だとか、何かと大変そうだ。
少女漫画のような白馬の王子様なんてこの世には存在しないのだろう。
(そういえば、お父さんから返事、来てるかな)
一葉が父に【いつ帰宅するのか】と尋ねるメッセージを送ったのは、二日前のことだった。スマホを開いて確認したが、まだメッセージも開いていないようだった。
これまでの経験からして、父が事故に遭っているとか、どこかで倒れているという可能性は低い。
きっと出張に出ているか、あるいは遊びに行ったところから、そのまま会社へ向かっている。
一葉はお手伝いさんに向けて【父の夕食はいりません】と短くメッセージを送った。
(お父さん、こんなに毎日飲み歩いて……お金、大丈夫なのかな)
小さく息を吐き、一葉はいつものようにスクールバッグを肩に掛け講堂を出た。
その足で大学構内の一角にある中央図書館へ向かう。この大学は蔵書数の多さで昔から都内でも有名で、最近、人気建築デザイナーによって立て直され、おしゃれなカフェや文房具屋まで併設されている。
そんな魅力も一因として、本好きの一葉はこの大学を受験した。
図書館に到着し、印刷物や古書の独特の香りを堪能しながら、本棚と本棚の道を、わくわくしながら歩いていく。
誰にも邪魔されない時間。何かと不安にさせられる父親の存在を忘れられる場所。
真っ先に向かったのは、今没頭している英文学のコーナー。
すでにドストエフスキーの本は読み切ってしまった。
新しくお気に入りの作家を探すべく、あ行に手を伸ばし『アントン・チェーホフ』の一冊を指にかけた、そのとき。
「あれ……? 君は」
聞き覚えのある声に、一葉は自然と振り返った。すぐに心臓がどきっとひときわ大きな音を立てる。
見覚えのある端正な顔も、微かに驚きを滲ませていた。
「この前の、バスにいた!」
まさに、一緒に老婆を助けた〝お兄さん〟だった。