転生令嬢は騎士からの愛に気付かない
 貴族社会では、伴侶以外の者を傍に置く者はいる。だが、生涯伴侶だけを愛す夫婦も、多くはないが存在しているのだ。
 そしてヴィルヘルムにとって、アシュリーだけを愛し抜くことは難しいことではなかった。

「──アシュリー」

 呼ぶのならば、彼女の本当の名前を。
 そう思うと、エスコートしている最中はともかく、その体を腕に収めている間には《シェリー》と言う名を口にすることはできなくて。
 だからこそ目が覚めたら、彼女の名前を目一杯呼びたかった。

 布で汚れた部分を拭い、ほつれた髪を引っ張らないように解く。
 濡れた布でもあれば良かったが、そのためには一度部屋を出なければならない。
 必要なものを伝えれば、勘のいい者には気付かれてしまうし、それを自身で用意して人目を阻んで部屋に戻ってくるにはヴィルヘルムの顔は知られ過ぎていた。

 ──……すまない。

 ヴィルヘルムは謝罪の言葉を心の中で呟き、その腕にアシュリーを抱き締める。
 温もりを求めてなのか、アシュリーが擦り寄ってくるのが可愛くて、悶えながら額に口付けを落とした。

「……良い夢を」

 自分のものとは思えないほど優しくて甘い声が静かに部屋に響く。
 アシュリーが目覚めたら、きちんと話をしよう。
 ヴィルヘルムはそう思いながら、遠くで賑やかに響き渡るワルツの音を聞いていた。
 
 けれどそれからしばらくして、ヴィルヘルムは部屋を出ることになってしまう。
 騎士団の人間から場所を聞いたジェラルドが部屋を訪れたのだ。
 事情を察したのかもしれない。ジェラルドは部屋までは入って来ずにヴィルヘルムの支度を待ち、そしてふたりは部屋を出た。
 その部屋には、しっかりと施錠をして。
 事態を知った第一王子からとローウェルからねちねちと長いお話を聞かされたヴィルヘルムがやっとのことで部屋に戻ってきたときには、そこにアシュリーの姿はなかった。
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