私を振った同級生ドクターの距離が近すぎます!〜もしかして、私のこと好きですか〜
17 密室での甘い仕返し
夜勤明けのシャワーを浴びながら、私は昨夜の熱を思い出していた。
分娩室での、あの近すぎる距離。
『まだ、終わってないだろ?』
そう言った鳴海くんの顔が、何度も脳裏にフラッシュバックする。
でも、あれは私への誘いだったのか、それともただの距離の錯覚だったのか。考えようとするたびに、答えのない場所に落ちていく。
(……自意識過剰になっちゃう)
卒業式のあの日、勝手に失恋したと思い込んでいたけれど、もし今の彼を信じていいのなら。私はもう、彼を好きでいることを我慢しなくていいのかもしれない。
♢
日曜日。ぎこちない足取りで病棟へ向かうと、今日の担当医は珍しく産婦人科部長だった。
「鳴海先生たちは、東京で学会よ」
学会。東十条のいる場所。
『殴るかもしれない』と言っていた鳴海くんの言葉が、不安というより予感になって胸の奥に沈んでいた。
もし本当に何かが起きたら、それはもう過去の話じゃない。今の問題になる。
(……大丈夫よね。鳴海くんに限って、そんなこと)
♢
(鳴海 蒼真 視点)
中央国際フォーラム。
壇上で「腹腔鏡のスペシャリスト」として発表している東十条 誠を見て、俺は腹の底から煮えくりかえるような怒りを感じていた。
整えられた髪、ねっとりとした声、聴講生を舐めるような視線。
(……こいつが、藤川を傷つけた男か)
卒業式のあの日、藤川にフラれたと思い込んで第二ボタンを引きちぎった時と同じ、あるいはそれ以上の激情。
休憩時間、俺は三宮先生に頼まれたコーヒーを買いに売店へ向かったが、偶然にも聖三愛の医師たちの会話を耳にする。
「東十条はどこだ?」
「喫煙室です」
コーヒーを探しているはずなのに、視線が甘い飲料の棚から離れなかった。
(これではないだろう)
自分でも理由がわからないまま、ブラックではなくイチゴミルクを手に取っていた。
その瞬間、胸の奥にあった苛立ちが、わずかに動いた。
♢
カップを手に持ち、俺の足は喫煙室へと向かっていた。
ガチャリ
入室した瞬間、すぐにタバコの煙で鼻孔を刺激され思わず眉を寄せてしまう。
喫煙室は意外に広く六畳ほどの部屋だった。中央に空気清浄機が取り付けられた腰の高さほどの喫煙台があった。この中にいたのは、東十条だけであった。俺は迷わず奴のもとに歩み寄った。
「どうも。若葉総合病院の鳴海と申します」
吸い上げるタバコの先を赤く灯らせた後、東十条はゆっくりと俺に振り向いた。
「若葉総合? ああ…紹介状を書いたことがありますよ」
俺はそれに返事はせず、持っていたカップを台に置いた。この部屋には長居はしたくなかった。だから本題に入った。
「藤川萌奈さん、ご存じですよね?」
「彼女、そこにいるんだ。仕事のできる綺麗な子だったよね」
「まあ…」
確かにそうだが、こいつの口から言われるといやらしさが先に出てきてイラっとした。
「もしかして、藤川さんのこと狙っている?」
「はい?」
東十条のあまりにも下世話な問いかけに、俺は驚きと嫌悪の顔になってしまう。
「彼女、手強いでしょう? うちの医局でも有名だったよ。”落ちないナース”ってね」
「落ちないナース? どういう意味ですか?」
「アプローチしてもノリが悪いんですよ。だから誰が落とせるか競っている奴もいたよ。ふふっ」
東十条はまるで他人事のように鼻で笑った。
「落とそうと頑張ったのは東十条先生ですよね」
俺は腕を組み威嚇するような口調で迫った。
「なんで名前を?」
「先ほどの発表者でしたよね?」
「あ…そうか」
東十条から先ほどのいやらしいテンションが消え、視線を下げて灰を落とした。黙り込む東十条に、俺がもう一度確認をする。
「あなたが藤川にちょっかいを出していたんですよね?」
奴は何かを考え込むように、ゆっくりと煙草を吸い上げた。そして、
「彼女からだよ。俺は上司の娘と婚約している身だからそんなことはしない。何を吹き込まれたのか知らないけど、簡単に信じるのもどうかと思うよ」
「彼女は誤解をされたまま病院を辞めざるを得なかった。彼女に悪いと思わないんですか?」
この部屋には誰もいないのに、東十条はすりガラスから見える外通路に目を配らせてから口を開いた。
「身に覚えがない話に付き合う必要はないけどさ、君、外来のことも知っているんだよね?」
「はい」
「彼女が悪いってことは公然の事実なんだよ。あの日、外来にいた人たちはみんなそう信じている」
「東十条先生が嘘をついたから婚約者があんな無茶をしたんです。藤川に手をだそうとしたことがばれたくないと嘘をついたあなたの責任です」
俺は真実をそのまま奴に叩きつけた。
東十条のタバコを吸う手が止まった。そして再び俺に視線を向けてきた。
「君、なにが目的?」
「藤川への謝罪です」
俺はきっぱりと伝えた。しかし、奴は呆れたように顔を歪ませ笑った。
「俺が謝る必要はないだろう。写真を撮られるような行動をした彼女が悪いんだから」
そういって吐いた煙を目で追っていた。
藤川が言い訳をしないことをいいことに、東十条は嘘で別のストーリーを作り上げていた。
(都合のいいように事実を書き換えたな)
俺は怒りがこみあげて、グッと拳を握りしめた。
でもそれは単なる怒りじゃない。
このまま黙っていたら、藤川の人生がまた嘘に塗りつぶされるという焦りだった。
「最低だな。藤川に罪をなすりつけて」
「彼女だって自分が悪いと認めたから、責任を取って辞めたんだ。そうだろ?」
「違うっ。不安にさせてしまった患者に申し訳ないと辞めたんだ!」
つい興奮して俺は力任せに拳を台にたたきつけた。それなりの音が鳴り響いたが、東十条は俺にチラッと視線を移すだけ。そして、
「周囲はどうでもいいんだよ。辞める理由なんて」
そう言って吸い込んだ煙を俺の顔に吹きかけてきた。煙が目にしみて思わず顔を背けた。
「人の顔に煙を吐かないでくださいっ」
「ここは煙を吐く場所。嫌ならおまえが出ていけ」
そのふてぶてしい態度に最高に腹が立った。握りしめる拳に力が入った。痛みを感じるほどに。
思いのまま、こいつを殴ってしまおうか――
そのとき藤川の顔が浮かんだ。
怒っている顔じゃない。悲しむ顔だった。
誰かを壊したくないと無理に笑う顔だ。
きっと俺がそんなことをしたら藤川は悲しむだろう。こんなにくだらない人間のために自分を犠牲にしないでって。それで少し冷静になれた。
藤川もこんなバカは相手にしなかった。相手にする価値もないもんな。ここで殴れば俺は医師としては終わる。こいつのせいで俺が割を食うなんてありえない。だから一時の感情のままに行動はしない。
俺は拳を解いた。
「一度だけでいい。藤川に謝ってください」
しかし東十条の返答は早かった。
「断る。理由がないからな」
俺は奴を睨んだ。
(藤川を傷つけたこと、絶対に許せないんだよ)
「認めないのなら、仕方ないです」
俺はカップを東十条の頭上に持ち上げると、そのまま逆さまにした。
パシャっ―――
甘い匂いが一瞬だけ空気を支配した。
「な、何すんだよっ!」
「冷たいですか? あなたが藤川に浴びせた言葉よりは、ずっと温かいと思いますけど。でも、これで、チャラです」
俺はまっすぐ東十条を捉えた。
「なっ、なんだよっ。お前」
奴はふらっと後退した。
その時、喫煙室の外から声が聞こえドアノブが回った。ドアが開くこの数秒の刹那、東十条はとんでもない悪知恵を働かした。
人が入ってくるコンマ前に、一人勝手に勢いよく倒れ込んだんだ。
「いって…なにするんですかっ。鳴海先生っ」
一人で転んだはずの東十条が俺の名を呼びながら、肩を押さえ顔を歪めた。しかもタイミング悪く入室してきたのは東十条を探していた聖三愛病院の連中であった。
「東十条、大丈夫か。何があったんだ?」
同僚が倒れ込んでいる奴のもとに駆け寄った。
「彼が急に突き飛ばしてきたんです」
(冗談だろう。こいつ。演技するのかよ)
東十条はわざとらしく肩をさすりながら痛がるふりをする。俺を悪者に仕立てる気だ。こんな間でよくもそんなストーリが思いつくものだ。きっと藤川の時もそうだったと容易に想像がつく。
「俺は何もしていないです。勝手に一人で転んでましたよ」
俺もいたって冷静にそういい返した。しかし東十条はふっと口の端で笑った。
「見てください俺の服。そのカップの中身を俺にかけてきたんですよ」
そういって俺の手に握られているカップを指さした。
「それは…」
かけたのは事実だから仕方がなかった。これはその通りなので俺も口ごもってしまった。
「東十条が暴力を振るうはずがないだろう。一体、どういうつもりかね?」
俺は聖三愛病院の医師から詰め寄られたしまった。
分娩室での、あの近すぎる距離。
『まだ、終わってないだろ?』
そう言った鳴海くんの顔が、何度も脳裏にフラッシュバックする。
でも、あれは私への誘いだったのか、それともただの距離の錯覚だったのか。考えようとするたびに、答えのない場所に落ちていく。
(……自意識過剰になっちゃう)
卒業式のあの日、勝手に失恋したと思い込んでいたけれど、もし今の彼を信じていいのなら。私はもう、彼を好きでいることを我慢しなくていいのかもしれない。
♢
日曜日。ぎこちない足取りで病棟へ向かうと、今日の担当医は珍しく産婦人科部長だった。
「鳴海先生たちは、東京で学会よ」
学会。東十条のいる場所。
『殴るかもしれない』と言っていた鳴海くんの言葉が、不安というより予感になって胸の奥に沈んでいた。
もし本当に何かが起きたら、それはもう過去の話じゃない。今の問題になる。
(……大丈夫よね。鳴海くんに限って、そんなこと)
♢
(鳴海 蒼真 視点)
中央国際フォーラム。
壇上で「腹腔鏡のスペシャリスト」として発表している東十条 誠を見て、俺は腹の底から煮えくりかえるような怒りを感じていた。
整えられた髪、ねっとりとした声、聴講生を舐めるような視線。
(……こいつが、藤川を傷つけた男か)
卒業式のあの日、藤川にフラれたと思い込んで第二ボタンを引きちぎった時と同じ、あるいはそれ以上の激情。
休憩時間、俺は三宮先生に頼まれたコーヒーを買いに売店へ向かったが、偶然にも聖三愛の医師たちの会話を耳にする。
「東十条はどこだ?」
「喫煙室です」
コーヒーを探しているはずなのに、視線が甘い飲料の棚から離れなかった。
(これではないだろう)
自分でも理由がわからないまま、ブラックではなくイチゴミルクを手に取っていた。
その瞬間、胸の奥にあった苛立ちが、わずかに動いた。
♢
カップを手に持ち、俺の足は喫煙室へと向かっていた。
ガチャリ
入室した瞬間、すぐにタバコの煙で鼻孔を刺激され思わず眉を寄せてしまう。
喫煙室は意外に広く六畳ほどの部屋だった。中央に空気清浄機が取り付けられた腰の高さほどの喫煙台があった。この中にいたのは、東十条だけであった。俺は迷わず奴のもとに歩み寄った。
「どうも。若葉総合病院の鳴海と申します」
吸い上げるタバコの先を赤く灯らせた後、東十条はゆっくりと俺に振り向いた。
「若葉総合? ああ…紹介状を書いたことがありますよ」
俺はそれに返事はせず、持っていたカップを台に置いた。この部屋には長居はしたくなかった。だから本題に入った。
「藤川萌奈さん、ご存じですよね?」
「彼女、そこにいるんだ。仕事のできる綺麗な子だったよね」
「まあ…」
確かにそうだが、こいつの口から言われるといやらしさが先に出てきてイラっとした。
「もしかして、藤川さんのこと狙っている?」
「はい?」
東十条のあまりにも下世話な問いかけに、俺は驚きと嫌悪の顔になってしまう。
「彼女、手強いでしょう? うちの医局でも有名だったよ。”落ちないナース”ってね」
「落ちないナース? どういう意味ですか?」
「アプローチしてもノリが悪いんですよ。だから誰が落とせるか競っている奴もいたよ。ふふっ」
東十条はまるで他人事のように鼻で笑った。
「落とそうと頑張ったのは東十条先生ですよね」
俺は腕を組み威嚇するような口調で迫った。
「なんで名前を?」
「先ほどの発表者でしたよね?」
「あ…そうか」
東十条から先ほどのいやらしいテンションが消え、視線を下げて灰を落とした。黙り込む東十条に、俺がもう一度確認をする。
「あなたが藤川にちょっかいを出していたんですよね?」
奴は何かを考え込むように、ゆっくりと煙草を吸い上げた。そして、
「彼女からだよ。俺は上司の娘と婚約している身だからそんなことはしない。何を吹き込まれたのか知らないけど、簡単に信じるのもどうかと思うよ」
「彼女は誤解をされたまま病院を辞めざるを得なかった。彼女に悪いと思わないんですか?」
この部屋には誰もいないのに、東十条はすりガラスから見える外通路に目を配らせてから口を開いた。
「身に覚えがない話に付き合う必要はないけどさ、君、外来のことも知っているんだよね?」
「はい」
「彼女が悪いってことは公然の事実なんだよ。あの日、外来にいた人たちはみんなそう信じている」
「東十条先生が嘘をついたから婚約者があんな無茶をしたんです。藤川に手をだそうとしたことがばれたくないと嘘をついたあなたの責任です」
俺は真実をそのまま奴に叩きつけた。
東十条のタバコを吸う手が止まった。そして再び俺に視線を向けてきた。
「君、なにが目的?」
「藤川への謝罪です」
俺はきっぱりと伝えた。しかし、奴は呆れたように顔を歪ませ笑った。
「俺が謝る必要はないだろう。写真を撮られるような行動をした彼女が悪いんだから」
そういって吐いた煙を目で追っていた。
藤川が言い訳をしないことをいいことに、東十条は嘘で別のストーリーを作り上げていた。
(都合のいいように事実を書き換えたな)
俺は怒りがこみあげて、グッと拳を握りしめた。
でもそれは単なる怒りじゃない。
このまま黙っていたら、藤川の人生がまた嘘に塗りつぶされるという焦りだった。
「最低だな。藤川に罪をなすりつけて」
「彼女だって自分が悪いと認めたから、責任を取って辞めたんだ。そうだろ?」
「違うっ。不安にさせてしまった患者に申し訳ないと辞めたんだ!」
つい興奮して俺は力任せに拳を台にたたきつけた。それなりの音が鳴り響いたが、東十条は俺にチラッと視線を移すだけ。そして、
「周囲はどうでもいいんだよ。辞める理由なんて」
そう言って吸い込んだ煙を俺の顔に吹きかけてきた。煙が目にしみて思わず顔を背けた。
「人の顔に煙を吐かないでくださいっ」
「ここは煙を吐く場所。嫌ならおまえが出ていけ」
そのふてぶてしい態度に最高に腹が立った。握りしめる拳に力が入った。痛みを感じるほどに。
思いのまま、こいつを殴ってしまおうか――
そのとき藤川の顔が浮かんだ。
怒っている顔じゃない。悲しむ顔だった。
誰かを壊したくないと無理に笑う顔だ。
きっと俺がそんなことをしたら藤川は悲しむだろう。こんなにくだらない人間のために自分を犠牲にしないでって。それで少し冷静になれた。
藤川もこんなバカは相手にしなかった。相手にする価値もないもんな。ここで殴れば俺は医師としては終わる。こいつのせいで俺が割を食うなんてありえない。だから一時の感情のままに行動はしない。
俺は拳を解いた。
「一度だけでいい。藤川に謝ってください」
しかし東十条の返答は早かった。
「断る。理由がないからな」
俺は奴を睨んだ。
(藤川を傷つけたこと、絶対に許せないんだよ)
「認めないのなら、仕方ないです」
俺はカップを東十条の頭上に持ち上げると、そのまま逆さまにした。
パシャっ―――
甘い匂いが一瞬だけ空気を支配した。
「な、何すんだよっ!」
「冷たいですか? あなたが藤川に浴びせた言葉よりは、ずっと温かいと思いますけど。でも、これで、チャラです」
俺はまっすぐ東十条を捉えた。
「なっ、なんだよっ。お前」
奴はふらっと後退した。
その時、喫煙室の外から声が聞こえドアノブが回った。ドアが開くこの数秒の刹那、東十条はとんでもない悪知恵を働かした。
人が入ってくるコンマ前に、一人勝手に勢いよく倒れ込んだんだ。
「いって…なにするんですかっ。鳴海先生っ」
一人で転んだはずの東十条が俺の名を呼びながら、肩を押さえ顔を歪めた。しかもタイミング悪く入室してきたのは東十条を探していた聖三愛病院の連中であった。
「東十条、大丈夫か。何があったんだ?」
同僚が倒れ込んでいる奴のもとに駆け寄った。
「彼が急に突き飛ばしてきたんです」
(冗談だろう。こいつ。演技するのかよ)
東十条はわざとらしく肩をさすりながら痛がるふりをする。俺を悪者に仕立てる気だ。こんな間でよくもそんなストーリが思いつくものだ。きっと藤川の時もそうだったと容易に想像がつく。
「俺は何もしていないです。勝手に一人で転んでましたよ」
俺もいたって冷静にそういい返した。しかし東十条はふっと口の端で笑った。
「見てください俺の服。そのカップの中身を俺にかけてきたんですよ」
そういって俺の手に握られているカップを指さした。
「それは…」
かけたのは事実だから仕方がなかった。これはその通りなので俺も口ごもってしまった。
「東十条が暴力を振るうはずがないだろう。一体、どういうつもりかね?」
俺は聖三愛病院の医師から詰め寄られたしまった。