私を振った同級生ドクターの距離が近すぎます!〜もしかして、私のこと好きですか〜

18 告白と宣戦布告



月曜日。
私は日勤だった。

勤務室に挨拶をして入ると、市川主任と北田師長が、声を潜めて何かを話していた。空気がいつもと少し違う。

(何か、あったのかな)

患者や家族からのトラブルは珍しくない。
けれど、こういう空気の重さは、だいたい良くない知らせの前触れだ。
私はいつも通り受け持ち部屋を確認し、指示書に目を通そうとした。
そのときだった。

「藤川さん…大変なことになっています」
大久保さんが、そっと寄ってきた。
「何があったの?」

「鳴海先生が…謹慎処分になったそうですっ」
 ――鳴海くんが?
「ど、どういうこと?」

指示書が手から滑り落ちた。
拾おうとしても、指先がうまく動かない。
大久保さんが慌てて拾い上げ、小さな声で続けた。

「詳細はまだはっきりしてないんですけど…昨日の学会で、人を殴ったって…」
「鳴海先生が? 人を?」

思わず声が大きくなる。

「しーっですっ。確定じゃないんです。でも師長が…ちょっとそんな話をしていて…。でも、何かの間違いですよね。あの鳴海先生が…」

「そ、そうよ。そんなことする人じゃないわ。きっと何かの間違いよ」

自分に言い聞かせるように返した声が、少しだけ震えていた。

(まさか東十条先生と…何かあった?)

でも、あの鳴海くんが人を殴るなんて。
そんな衝動的なことをする人じゃない。
そう信じようとしているのに、胸の奥が落ち着かない。

そして朝のミーティングで、その不安は形を持った。

「鳴海先生は本日よりしばらくお休みになります。謹慎処分とのことで、復帰は未定です」

北田師長の言葉に、病棟の空気が一瞬で変わった。

「鳴海先生の今日のオペ、ドクター変更お願い!」
「424号室の鎮痛剤どうする?」

いつもは鳴海先生がいるだけで回っていた場所が、急に歯車を失ったみたいにざわつく。

「ねえ看護師さん。鳴海先生、風邪でもひいたの? あのイケメンが見られないのは残念ねぇ」
患者さんが、寂しそうに笑った。
「大丈夫ですよ。きっとすぐ戻ってきますから」
私はそう言うことしかできなかった。

けれど本当は、胸の奥が落ち着かなかった。
鳴海くんがいないだけで、病棟の空気がこんなに変わるなんて。

それ以上に――
東十条先生の名前が、頭の奥で引っかかって離れない。

昼休み。

私はいてもたってもいられず、スマホを握って外来の外へ出た。我聞なら何か知っているはずだと思った。


「萌奈か? どうした?」
「我聞⁈ 鳴海くんから連絡きてない?」
「きたぞ。このあと俺ん家来るってよ。てか、蒼真、仕事休みなの?」
「何があったか言ってなかった?」
「よくわかんねーけど。とりあえず、俺も帰るわ。お前も来れるか?」
「うん、仕事が終わったらすぐ行く」

震える指先で電話を切る。
(やっぱり、起きてしまったのかもしれない)
まだ何も確証はない。
でも、点と点を繋げれば――東十条先生の影が浮かぶ。
あの人の顔を思い出すだけで、胸の奥がざわついた。

(鳴海くんを巻き込んだの?)

そう考えた瞬間、喉の奥が熱くなる。
気づけば、涙がこぼれていた。

悔しい。
怖い。
そして何より――

(もし本当にあの人が原因なら、私は絶対に許さない!)

そう思った瞬間、胸の奥の何かが静かに燃えた。
私は涙を乱暴に拭う。
泣いている場合じゃない。
鳴海くんは、きっと今も一人で戦っている。



午後は必死に仕事をさばいて、定時で病棟を後にした。
我聞の家に着いたのは十八時半だった。
「おじゃまします」
慣れた田島家の玄関をくぐると、リビングに入った瞬間、亜里沙が今にも泣きそうな顔で私を出迎えた。

「萌奈っ。鳴海先生が…っ」
「鳴海くんがどうしたの?」
「酔っ払って、まるで別人みたいで…」

眉を下げて亜里沙が嘆く。

「鳴海くんと我聞はどこ?」
「二階のお兄ちゃんの部屋にいる…」
「わかった。行ってくるわ」

私はゆっくりと階段を上った。細い廊下の突き当たりが我聞の部屋だ。
ドアの前に立つと、中から声が漏れてくる。

「飲みすぎだって。明日に響くぞ」
「いんだよっ。どうせ俺は謹慎中だしっ」

鳴海くんの声。
そこにはいつもの穏やかさはなかった。

「蒼真は人を殴ったりしない。俺は信じるよ」

「あたりまえだ。俺は何もしてないっ。あんな奴に俺の拳をあげてたまるかっ」

「にしても、蒼真はどうしてそんな奴に絡みにいったんだよ」

「文句を言ってやりたかった。謝れって」

「萌奈のためにそこまでするか…?」

「あの東十条って男が藤川を傷つけたんだぞ!」

 鳴海くん……
 そこまで、私のことを……

胸の奥がぎゅっと痛くなって、鼻の奥が熱くなる。
涙が勝手にあふれそうになるのを必死でこらえた。

でも今、一番つらいのは鳴海くんだ。
私のせいで、仕事まで失ってしまった。
私は涙を拭って、ドアノブに手をかけた。

「萌奈!」

我聞が先に気づいた。

「よかったぜ。俺じゃどうにもできない。萌奈、頼む」
「うん。我聞、ありがとう」

我聞は部屋を出ていく。
床には飲みかけの缶がいくつも転がっていた。
酔っているのは一目でわかった。
私は胡座をかいたまま顔を背ける鳴海くんの隣に座った。

「鳴海くん、東十条先生と会ったんだね」
「会ったよ。同じ学会にいた」
「……何があったの?」
「勝手に転んで、俺が突き飛ばしたって言いだした。あいつ、すごい嘘つきだ」
「うん。ろくな人じゃないよね」

私はそっと彼の横顔を見た。
怒っているのに、どこか傷ついている顔だった。

「東十条先生を無視できなかった?」
「……あいつの顔見たら、我慢できなかった」
「私の代わりに、怒ってくれたんだよね」
「……」
「ありがとう。そして、ごめん」
私は深く頭を下げた。

「私がちゃんと誤解を解かないまま辞めたから……全部、私のせい」
「俺が勝手にやったことだ。藤川は関係ない」
「でも……」

「もーっ! こんなことなら我慢しないで一発殴っとけばよかった!」

鳴海くんが拳を前に突き出す。

「私も辞める前に顔面パンチしておけばよかった!」

私もつられて、空を殴る真似をした。
一瞬だけ、二人で笑えた。
でも次の瞬間、鳴海くんの表情がふっと消えた。
すん、と力が抜けたみたいに私のほうへ倒れ込んでくる。
胸元に顔を埋めて、腰のあたりをぎゅっと抱きしめた。

(うわぁ……)

お酒の匂いと、重みと、体温。
全部が近すぎて、頭が追いつかない。

「ふじかわぁ……」

舌足らずな声。こんな鳴海くん、初めて見る。
「なに?」
私は微笑んで答えた。

「おれは、藤川が好きだぁ」

―――っ

心臓が跳ねた。

「好きなんだよぉ……」

言葉というより、こぼれ落ちるみたいな声だった。私は息をのむ。

(本当に?)

でも、疑う必要なんてなかった。
だって私も同じだから。
ずっと言えなかっただけで、ずっとここにあった気持ちだから。
私はそっと彼を抱き返した。

「私も鳴海くんが好きだよ」

「……うん……俺も好き……」

「私も大好き」

「……うん……だいすき……」

そのまま鳴海くんは、安心したみたいに目を閉じた。
規則正しい呼吸。
力の抜けた腕。
まるで、やっと帰る場所を見つけたみたいに。

ありがとう、鳴海くん
こんなあなたを、私は知らなかった。
でも、この姿を知ってしまったから――
もう、戻れない。
もっと好きになってしまう。

(私はこの人を、一生大切にしなければいけない)

そんな決意が、静かに胸に落ちた。

カチャリ――

部屋を出ると、我聞が廊下に座り込んでいた。

「蒼真は?」
「寝てる」
「そうか……あいつのあんな姿、初めて見たから……」
「うん……」
「これは、俺のせいだ……」
「え?」

我聞が青ざめる。

「俺があの時、ちゃんと伝えてたら……こんなことには……」
「ちょっと待って。我聞までおかしくならないでよ」
「……うん……」
「私、明日の朝一番で、聖三愛に誤解を解きに行く」

そう言うと、我聞がはっと顔を上げた。

「東十条に会うのか? やめとけって」
「大丈夫。私、切り札持ってるから」
「は?」

私は小さくピースサインを作る。
あの日、私は妊婦さんたちのために身を引いた。
でも、今の私はもう「守る側」じゃない。
大切な人を守るために、奪われたものを取り戻すために。

「萌奈、なにする気だよ?」

私は答えなかった。ただ、まっすぐ前を見る。

 「私が、東十条を殴ってくる」

その瞳には、もう迷いも涙もなかった。


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