君と終わった街で
電話の向こうで、文姫が小さくあくびをする。

『やば、眠くなってきた』

「お前、昔から電話するとすぐ眠そうになるよな」

『安心するからじゃない?』

何気ない調子だった。

でも、その言葉に洸太の心臓が小さく鳴る。

文姫は昔から、こういうことを無意識に言う。

たぶん深い意味なんてない。

でも、言われた側は覚えてしまう。

高校の頃もそうだった。

「洸太といると楽」とか。

「なんか落ち着く」とか。

そのたびに期待して。

でも結局、“恋愛ではない”に戻っていく。

洸太は小さく息を吐いた。

もう、あの頃みたいにはならない。

そう思っていた。

なのに、文姫と話していると、時々昔の感情が静かに顔を出す。

『……ねえ』

文姫が少し眠そうな声で言う。

「ん?」

『今度会う時さ』

『昔みたいにコンビニ寄ろうよ』

洸太は少し目を瞬く。

「コンビニ?」

『うん』

文姫が小さく笑う。

『高校の時、めっちゃ行ってたじゃん』

思わず、洸太も笑ってしまう。

放課後。

制服のまま寄っていたコンビニ。

文姫はいつも、新作のお菓子を見つけると無駄にテンションが上がっていた。

結局、何も買わない日も多かったのに。

それでも、あの時間が好きだった。

『なんかさ』

文姫が静かに続ける。

『あの頃のこと、今になって結構思い出す』

その声は、少しだけ遠かった。

洸太は返事をしない。

できなかった。

文姫も同じなんだと思った。

忘れていたわけじゃない。

ちゃんと、残っていたんだ。

『……不思議だね』

文姫がぽつりと呟く。

『一回ちゃんと終わったと思ってたのに』

その一言が、胸の奥へ静かに沈んでいく。

終わった。

たしかに、あの頃の二人は終わっていた。

卒業して。

連絡もしなくなって。

別々の人生を生きて。

もう二度と交わらないと思っていた。

それなのに今、こうしてまた電話をしている。

洸太は窓の外を見る。

東京の夜景は、相変わらずどこか冷たかった。

でも今だけは。

その光が少しだけ、温かく見えた。

電話の向こうで、文姫がまた小さくあくびをする。

『やばい、ほんと眠い』

「寝ろよもう」

『でも切るのちょっともったいない』

洸太は苦笑する。

「明日仕事だろ」

『洸太もじゃん』

「俺はいいんだよ」

『なにそれ、おじさんみたい』

「お前も同い年だろ」

文姫が笑う。

その笑い声が、夜の静けさに柔らかく溶けていく。

高校の頃。

電話を切る直前の時間が、洸太は好きだった。

眠そうな文姫の声。

少しゆっくりになる会話。

“じゃあね”と言えば終わってしまう、あの感じ。

今、久しぶりにその空気の中にいる。

『……ねえ』

文姫が、少しだけ静かな声になる。

「ん?」

『もしさ』

そこで、一瞬言葉が止まる。

電話越しに、小さく寝返りを打つ音がした。

『高校の時、ちゃんと話せてたらさ』

洸太は目を伏せる。

文姫は続きをすぐには言わなかった。

たぶん、自分でも上手く言葉にできていないんだと思う。

『……なんか変わってたのかな』

小さな声だった。

独り言みたいに聞こえた。

洸太はすぐには答えられない。

変わっていたかもしれない。

変わらなかったかもしれない。

でも、もし違う未来があったとしても。

きっとその頃の二人には、そこへ辿り着く余裕がなかった。

洸太はソファから立ち上がり、窓際へ歩く。

街の灯りが、ガラス越しに滲んで見えた。

「……分かんないな」

正直に答える。

「でも、俺たぶん」

少しだけ笑う。

「今の方が文姫とちゃんと向き合えてる」

電話の向こうが静かになる。

それから、文姫が小さく笑った。

『それ、今日何回目?』

「思ってるよりずっと大事なんだよ」

洸太がそう返すと。

文姫は少しだけ黙って。

『そっか』

と、優しく言った。

その声が、妙に胸に残った。

しばらく、どちらも何も話さない。

でも不思議と、沈黙が苦しくない。

昔、欲しかった時間が。

十年遅れで、今ここにある気がした。

時計を見る。

もう二時を過ぎていた。

平日の深夜。

普通なら、とっくに寝ている時間だった。

でも、不思議と眠気は来ない。

電話の向こうでも、文姫がまだ起きている気配がする。

『ねえ』

「ん?」

『土曜、楽しみかも』

その言葉に、洸太は少しだけ笑う。

「急だな」

『だって久しぶりに誰かとちゃんとご飯行く』

「友達いないのかよ」

『失礼』

文姫が笑う。

『いるけど、なんか違うじゃん』

その言葉の意味を、洸太は少し考える。

なんか違う。

たぶん自分も、同じだった。

会社の人間関係はある。

飲みに行く相手もいる。

でも、こうして気を遣わずに話せる相手は、いつの間にかいなくなっていた。

大人になるって、そういうことなのかもしれない。
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