君と終わった街で
元旦那の件があった次の日から、文姫はホテル暮らしになった。
会社近くの、小さなビジネスホテル。
狭い部屋。
薄いカーテン。
無機質な白い壁。
まだ完全な安心には程遠いが少しでも離れられる可能性があるだけで
それだけで、涙が出そうになった。
それからの日々は、驚くほど慌ただしかった。
海外支店への異動準備。
引き継ぎ。
書類。
荷物整理。
ビザ関係。
朝から夜まで仕事に追われ、そのままホテルへ戻る。
気づけば一日が終わっている。
そんな毎日だった。
準備期間は、たった十日間。
短すぎると思った。
でも今の文姫には、その忙しさが救いでもあった。
考える時間が減るから。
洸太のことを、少しだけ忘れられる気がした。
けれど。
スマホを開けば、現実に引き戻される。
未読のLINE。
洸太からのメッセージは、もう五十件を超えていた。
『話したい』
『どこいる?』
『頼むから無視しないで』
『文姫』
その文字を見るだけで、指先が止まる。
でも開けない。
開いたら、全部終わる。
いや。
全部戻ってしまう気がした。
だから文姫は、通知をまた閉じる。
見ないふりをする。
それでも。
真っ黒で、淡々とした日々の中で。
ふとした瞬間に浮かぶのは、洸太だった。
コピー機の前。
エレベーターの中。
ホテルへ戻る途中の夜道。
どうしても思い出してしまう。
笑った顔。
困った顔。
雨の日、追いかけてきた姿。
“今さら友達だけでいるの、無理かもしれない”
あの声。
そして考えてしまう。
桃花とうまくいったかな、と。
その想像は、胸の奥を静かに抉った。
考えたくない未来なのに。
気づけば、何度も想像してしまう。
渡航二日前の夜。
文姫はホテルのベッドへ座ったまま、窓の外を見ていた。
時計は十一時を回っている。
明日も朝早い。
本当なら、もう寝る時間だった。
でも。
どうしても、一度だけ行きたかった。
文姫は静かに立ち上がる。
コートを羽織り、ホテルを出た。
夜風が少し冷たい。
タクシーに乗り込む
走るタクシーの窓から、文姫は街を見つめる。
もうすぐ、この景色とも終わりなんだと思った。
十分ほど走ってタクシーから降りる。
見慣れたアパートが視界へ入る。
文姫の足が止まった。
洸太の住むアパート。
階段。
古い外壁。
何度も見た景色。
でもこうして来るのは、これで最後かもしれない。
文姫はゆっくり建物の前まで歩いていく。
見上げる。
二階の端。
洸太の部屋。
当然、電気は消えていた。
真っ暗だった。
時計はもう、十二時になろうとしている。
寝ているんだろう。
それでもよかった。
会いたいわけじゃない。
ただ。
最後に少しだけ、近くにいたかった。
それだけだった。
文姫の瞳から、自然と涙が零れる。
ぽたり、とアスファルトへ落ちる。
色んなことがあった。
短かった。
たった数日だった。
でも。
人生の中で、一番色の濃い時間だった。
笑って。
泣いて。
好きな人に触れて。
愛されていると、思えた。
文姫は小さく笑う。
涙でぐしゃぐしゃなのに、不思議と穏やかな顔だった。
「……バイバイ、洸太」
小さく呟く。
これでいい。
日常は壊れた。
全部真っ暗になった。
でもきっと大丈夫。
向こうでも、ちゃんと生きていける。
そう思って、文姫が振り返ろうとした時だった。
「何がバイバイだよ」
低い声。
すぐ後ろだった。
「ふざけんな」
文姫の身体が止まる。
ゆっくり振り返る。
「……え」
声が掠れる。
そこに立っていたのは。
洸太だった。
黒いパーカー姿。
乱れた髪。
息を切らしたまま、真っ直ぐ文姫を見ている。
文姫の頭が真っ白になる。
「ど、どうして……」
洸太は答えない。
ただ。
今にも壊れそうな顔で、文姫を見ていた。
会社近くの、小さなビジネスホテル。
狭い部屋。
薄いカーテン。
無機質な白い壁。
まだ完全な安心には程遠いが少しでも離れられる可能性があるだけで
それだけで、涙が出そうになった。
それからの日々は、驚くほど慌ただしかった。
海外支店への異動準備。
引き継ぎ。
書類。
荷物整理。
ビザ関係。
朝から夜まで仕事に追われ、そのままホテルへ戻る。
気づけば一日が終わっている。
そんな毎日だった。
準備期間は、たった十日間。
短すぎると思った。
でも今の文姫には、その忙しさが救いでもあった。
考える時間が減るから。
洸太のことを、少しだけ忘れられる気がした。
けれど。
スマホを開けば、現実に引き戻される。
未読のLINE。
洸太からのメッセージは、もう五十件を超えていた。
『話したい』
『どこいる?』
『頼むから無視しないで』
『文姫』
その文字を見るだけで、指先が止まる。
でも開けない。
開いたら、全部終わる。
いや。
全部戻ってしまう気がした。
だから文姫は、通知をまた閉じる。
見ないふりをする。
それでも。
真っ黒で、淡々とした日々の中で。
ふとした瞬間に浮かぶのは、洸太だった。
コピー機の前。
エレベーターの中。
ホテルへ戻る途中の夜道。
どうしても思い出してしまう。
笑った顔。
困った顔。
雨の日、追いかけてきた姿。
“今さら友達だけでいるの、無理かもしれない”
あの声。
そして考えてしまう。
桃花とうまくいったかな、と。
その想像は、胸の奥を静かに抉った。
考えたくない未来なのに。
気づけば、何度も想像してしまう。
渡航二日前の夜。
文姫はホテルのベッドへ座ったまま、窓の外を見ていた。
時計は十一時を回っている。
明日も朝早い。
本当なら、もう寝る時間だった。
でも。
どうしても、一度だけ行きたかった。
文姫は静かに立ち上がる。
コートを羽織り、ホテルを出た。
夜風が少し冷たい。
タクシーに乗り込む
走るタクシーの窓から、文姫は街を見つめる。
もうすぐ、この景色とも終わりなんだと思った。
十分ほど走ってタクシーから降りる。
見慣れたアパートが視界へ入る。
文姫の足が止まった。
洸太の住むアパート。
階段。
古い外壁。
何度も見た景色。
でもこうして来るのは、これで最後かもしれない。
文姫はゆっくり建物の前まで歩いていく。
見上げる。
二階の端。
洸太の部屋。
当然、電気は消えていた。
真っ暗だった。
時計はもう、十二時になろうとしている。
寝ているんだろう。
それでもよかった。
会いたいわけじゃない。
ただ。
最後に少しだけ、近くにいたかった。
それだけだった。
文姫の瞳から、自然と涙が零れる。
ぽたり、とアスファルトへ落ちる。
色んなことがあった。
短かった。
たった数日だった。
でも。
人生の中で、一番色の濃い時間だった。
笑って。
泣いて。
好きな人に触れて。
愛されていると、思えた。
文姫は小さく笑う。
涙でぐしゃぐしゃなのに、不思議と穏やかな顔だった。
「……バイバイ、洸太」
小さく呟く。
これでいい。
日常は壊れた。
全部真っ暗になった。
でもきっと大丈夫。
向こうでも、ちゃんと生きていける。
そう思って、文姫が振り返ろうとした時だった。
「何がバイバイだよ」
低い声。
すぐ後ろだった。
「ふざけんな」
文姫の身体が止まる。
ゆっくり振り返る。
「……え」
声が掠れる。
そこに立っていたのは。
洸太だった。
黒いパーカー姿。
乱れた髪。
息を切らしたまま、真っ直ぐ文姫を見ている。
文姫の頭が真っ白になる。
「ど、どうして……」
洸太は答えない。
ただ。
今にも壊れそうな顔で、文姫を見ていた。