黄浦江の境界
第三章 詩人の悩み
一
パーティーの夜から、三日が過ぎた。
皐月はその間ずっと、馨にどうやって連絡を取るべきか悩んでいた。もらった名刺は机の引き出しにしまったままだ。光亜商会を訪ねるのは簡単だが、それでは馨の言う「深入り」をそのまま実行することになる。彼は明らかに、皐月が自分の秘密に近づくことを望んでいなかった。
しかし、諦めるわけにはいかなかった。
黄瀛の詩を読み返すたびに、皐月の確信は強まっていった。あの詩を書ける人間は、自分がこれまでに出会った中でただひとり——御厨馨しかいない。詩に込められた孤独、諦念、そしてかすかな希望。それらすべてが、船の上で見せた馨の横顔と重なって見える。
「やっぱり、会って確かめなければ」
皐月は意を決し、四日目の朝、一枚の手紙をしたためた。
御厨馨様
突然のお手紙をお許しください。お話ししたいことがございます。お時間をいただけないでしょうか。明日の午後二時、外灘の黄浦公園、噴水の前でお待ちしております。
橘皐月
簡潔な文面だった。余計なことは書かない。会う理由も明かさない。だが、馨ならば察するだろう——あの夜の会話の続きだと。
皐月は手紙を封筒に入れ、自分で光亜商会まで届けることにした。
光亜商会は、外灘からほど近い江西路に面した瀟洒な三階建てのビルだった。一階は事務所、二階以上は住居になっているらしい。看板には「光亜商会」の文字と、その下に英語で「KOA TRADING COMPANY」と記されている。
皐月が玄関を入ると、若い中国人の事務員が対応に出た。
「御厨様にお渡しください」
皐月が手紙を差し出すと、事務員はにこやかに受け取った。
「御厨はあいにく外出中ですが、必ずお渡しいたします」
「ありがとうございます」
皐月はビルを出て、通りを歩きながら考えた。馨はこの手紙を読んで、来るだろうか。それとも、無視するだろうか。もし来なければ、もうこの件は諦めるしかない——。
そう思うと、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような心地がした。
翌日、皐月は約束の三十分前に黄浦公園に着いた。
黄浦公園は、外灘の北端にある小さな公園だった。黄浦江と蘇州河の合流点に位置し、租界の中でも指折りの景勝地として知られている。もっとも、その入り口には悪名高い掲示が掲げられていた——「犬と中国人は入るべからず」。租界の傲慢さを象徴するようなその文言は、皐月の心をいつも暗くした。
しかし、今日はその看板に目を向ける余裕もなかった。
公園の中に入ると、芝生の緑が目に鮮やかで、あちこちに色とりどりの花が咲いている。水夫姿の西洋人や、ベビーカーを押す夫人たちが散策し、噴水の周りでは数人の子供たちが遊んでいた。すべてが絵葉書のように整っていて、先ほどの掲示の無残さと奇妙なコントラストをなしている。
皐月は噴水のそばのベンチに腰を下ろし、待った。
四月中旬の陽射しはもう強く、日傘がなければ肌がじりじりと焼けるようだった。黄浦江を渡る風が、時折、潮の香りを運んでくる。汽笛が遠くで鳴り、鴎が数羽、空を旋回している。
二時になった。
馨は、現れなかった。
二時十五分。皐月はベンチから立ち上がり、公園の入口を見つめ続けた。人々が行き交う中に、馨の姿はない。
二時半。皐月は溜息をついて、もう帰ろうかと思い始めた。やはり来ないのだ。あれだけはっきりと「深入りするな」と言ったのだから——。
そのときだった。
「橘さん」
声がした。皐月が振り返ると、馨が立っていた。
今日の馨は、パーティーの夜とは打って変わって地味な服装だった。濃い灰色のスーツに、飾りのない帽子。顔色は少し青白く、目の下にはうっすらと隈が浮かんでいる。手には皐月が出した手紙を持っていた。
「来てくださったのですね」
皐月の声は、ほっとした響きを帯びていた。
「あなたが、ここを選んだ理由は何ですか」
馨はそう尋ねながら、皐月の隣のベンチに腰を下ろした。
「理由——」
「黄浦江が見える場所だからでしょう。黄瀛の詩に出てくる、黄浦江が」
馨は手紙を折り畳み、ポケットにしまった。
「もう、隠すのはやめにします。あなたは勘が良すぎる」
皐月は馨の顔をまっすぐに見つめた。心臓が、早鐘のように打っている。
「では、やはり——」
「ええ」
馨は深く息を吐き出した。その表情は、パーティーの夜のような完璧な仮面ではなく、船の上の物憂げな素顔に戻っている。いや、それ以上に疲れ果てた、裸の表情だった。
「私が、黄瀛です」
言葉が、空気の中に落ちた。
皐月は息を呑んだ。確信はあった。しかし、こうして本人の口から聞くと、その重みはまったく違った。
「認めるのですね」
「認めざるを得ないでしょう。あなたは最初から、私の詩を知っている者の目で私を見ていた。船の上での会話のときから——」
馨は顔を上げ、黄浦江の彼方を見つめた。
「なぜ、隠していたのですか」
「いくつもの理由がある」馨は静かに語り始めた。「まず、家業のためだ。御厨家は代々、貿易商を営んできた。私が子供の頃から、父は私を後継者として育てた。商売の勘、外国語、帳簿のつけ方——必要なことはすべて教え込まれた。詩や文学は、『遊び』に過ぎなかった」
「でも、あなたは詩を愛している」
「愛している。だからこそ、表に出せない」
馨の声は、苦みに満ちていた。
「日本の実業界では、『詩人など男のくせに』という偏見が根強い。とくに、商家の跡取りが文学にうつつを抜かすなど、もってのほかだ。もし私が詩人だと知られれば、取引先は私を『軟弱な夢想家』と見なすだろう。信用が落ちれば、商会は立ち行かなくなる。そこに勤める数十人の使用人や、その家族の生活も——」
馨はそこで言葉を切り、苦しそうに額に手を当てた。
「すべては、私ひとりの問題ではない。だから私は、匿名で書くことで折り合いをつけた。詩を書き続けたいという自分勝手な欲望と、家業を守らなければならない責任との、ぎりぎりの妥協点だった」
皐月は、馨の横顔を見つめながら、胸が締め付けられるような思いだった。
この人は、ずっとひとりで苦しんできたのだ。誰にも言えない秘密を抱え、二つの顔を使い分けながら。その孤独が、あの詩の深い陰影を生み出したのだろうか。
「黄瀛という名前にしたのは、なぜですか」
馨は、かすかに笑った。
「『黄』は、この土地の色だ。黄河の濁り、上海の土埃、そして我々の肌の色。『瀛』は海——東シナ海であり、日本と中国を隔てる海であり、私自身の心の境界でもある。私はどこにも属せない。日本人でありながら上海に住み、商人でありながら詩を書く。どちらの世界からも、私ははみ出している」
「それこそが、あなたの詩の力ではありませんか」
皐月は言葉を選びながら言った。
「どちらにも属せないからこそ、見えるものがある。あなたの詩には、それが溢れている。私は——」
皐月は一度息を吸い、それから一気に言った。
「私は、あなたの詩に救われました」
馨は、ゆっくりと皐月の方を向いた。その目には、驚きと、信じられないという色が浮かんでいる。
「救われた?」
「はい。私はずっと、自分の詩に自信が持てませんでした。書きたいことはあるのに、言葉がついてこない。女だから、若いから、世間を知らないから——そう言われるたびに、諦めそうになった。でも、黄瀛の詩を読んだとき——」
皐月の声が、少し震えた。
「この人は、こんなにも苦しみながら書いている。そして、それでも書くことをやめていない。そう思ったら、私もまだ書いていいのだと思えました。あなたの詩がなければ、私はとっくにペンを折っていたかもしれない」
馨はしばらく黙っていた。それから、深い溜息をついた。
「皮肉なものだ」彼は呟いた。「私は自分の詩で誰かを救えるとは、一度も思ったことがなかった」
「でも、救ったのです。少なくとも、私を」
皐月の言葉に、馨は何も答えなかった。ただ、黄浦江の濁った流れを、じっと見つめていた。
二
馨が過去を語り始めたのは、それからしばらくしてからだった。
噴水の水音を聞きながら、馨はぽつりぽつりと、自分が詩人になろうとした日々のことを話し始めた。
「私が日本に留学したのは、十九のときだった」
馨の声は、遠い記憶を手繰り寄せるように、ゆっくりとしていた。
「父が、跡取りには海外の経験が必要だと言って、東京の高等商業学校に入れられた。今の一橋大学の前身だ。商売の勉強が本分だったが、私はすぐに文学の世界に引き込まれた。きっかけは、同級生に誘われて出席した文学講演会だった」
「どんな講演会だったのですか」
「西洋の新しい詩の潮流についての講演だった。フランスの象徴詩、イギリスのロマン派、ドイツの表現主義——それまで漢詩と和歌しか知らなかった私には、すべてが衝撃だった。言葉がこんなにも自由でいいのか。形式に縛られず、心のままに書いていいのか。私はその夜、生まれて初めて、自分でも詩を書いてみようと思った」
馨はそこで少し間を置き、それから自嘲めいた笑みを浮かべた。
「最初は、ひどいものだった。西洋の詩の真似事に過ぎなかった。ボードレールの模倣、ヴェルレーヌの焼き直し——日本語で書いていながら、中身は借り物の感情ばかり。でも、書き続けているうちに、少しずつわかってきた。真似では駄目だ。自分の言葉で書かなければ——」
「それで、漢詩の教養を活かそうと?」
「そうだ。私には、子供の頃から叩き込まれた漢詩の素養があった。李白、杜甫、王維——彼らの詩には、西洋の詩とはまったく違う美しさがある。自然と一体化する感覚、無常を静かに受け入れる心、言葉の外に広がる余白。それを新しい詩の形にできないかと考え始めた」
馨の目が、少しだけ輝きを取り戻した。詩の話になると、やはり彼の声は熱を帯びる。
「私は、西洋の自由詩の形式に、東洋の精神を吹き込もうとした。リズムは英語詩から学び、イマジネーションは漢詩から受け継ぐ。それができれば、本当の意味での『新しい詩』が生まれる——そう信じていた」
「素晴らしい試みだと思います」
皐月がそう言うと、馨は首を振った。
「しかし、世間はそう見てくれなかった。私が同人誌に詩を発表し始めると、反応は冷ややかだった。国粋派からは『西洋かぶれ』と罵られ、西洋崇拝の文学者からは『古臭い東洋趣味』と嘲笑された。どちらの陣営からも、私は異端だった」
馨は拳を握りしめた。
「それでも私は書き続けた。いずれ理解される日が来ると信じて。大学を卒業する頃には、小さな同人誌の同人になり、そこそこ名前も知られるようになった。しかし、その矢先に——」
「父上が、倒れられたのですか?」
馨は驚いたように皐月を見た。
「なぜ、それを?」
「勘です」皐月は静かに言った。「あなたの詩には、いつも喪失の影がある。何か大切なものを、突然失ったような——」
馨はしばらく皐月の顔を見つめていた。その目に、かすかな感嘆の色が浮かぶ。
「あなたは鋭すぎる」馨は呟いた。「そうだ。父が倒れた。過労だった。小さな商会を大きくするために、父は身を削って働いていた。倒れたと聞いて、私はすべてを放り出して上海に戻った。詩も、文学の仲間も、東京での生活も——すべてを捨てて」
「それが、『詩では人も東洋も救えない』という言葉につながるのですね」
馨は深く頷いた。
「父は一命を取り留めたが、以前のようには働けなくなった。商会の経営は傾き、使用人たちの生活も危うくなった。私は二十二歳で、商会の実権を握らざるを得なかった。詩を書いている暇など、どこにもなかった。そして思い知ったのだ。詩は、腹の足しにはならない。言葉は、現実を変えられない。どんなに美しい詩を書いても、それで飯が食えるわけではない——」
馨は立ち上がり、噴水の縁に手を置いた。
「私は、詩人になる夢を捨てた。だが、完全には捨てきれなかった。だから匿名で書くことにした。誰にも知られず、ただ自分のために書く。それだけが、私に残された道だった」
皐月は馨の背中を見つめながら、言葉を探した。何を言えばいいのか、簡単には見つからなかった。馨の苦しみは、まだ二十一歳の皐月には、想像もできないほど深いものだった。
しかし、それでも——。
「それでも、あなたは書き続けた」
皐月は立ち上がり、馨の隣に立った。
「どんなに苦しくても、詩を捨てなかった。なぜですか」
馨は答えなかった。ただ、噴水の水面を見つめている。そこには空が映り、雲が映り、時折、ふたりの姿が揺らいでいた。
「それが、あなたの本当の心だからでしょう」
皐月は言った。
「商売の責任を果たすことも大切です。でも、詩を書くことも、同じくらい大切なあなた自身の一部なのだ。それを否定することは、自分自身を否定することだ」
「綺麗事だ」馨は低く言った。「現実を見ろと、あの船の上でも言ったはずだ。夢だけでは生きていけない。理想だけでは——」
「でも、夢も理想もなくて、人は生きられるのですか」
皐月の言葉に、馨は顔を上げた。
「私は、夢を見ることを諦めたくない。現実を見ることも大切だと、あなたに教えられました。上海に来て、租界の現実を目の当たりにして、それは痛いほどわかりました。でも——」
皐月は、まっすぐに馨の目を見つめた。
「現実を見た上で、それでも夢を見続けることこそが、詩人の役目ではないのですか。あなたの詩は、まさにそれを体現している。現実の厳しさを知り尽くした上で、それでもかすかな希望を捨てない——黄瀛の詩には、いつもそれがある」
馨は、皐月の目をじっと見つめ返した。長い沈黙が続いた。
風が吹き、噴水の水飛沫がふたりの頬にかかった。
「あなたは、強い」馨はぽつりと言った。「私が若い頃に失ったものを、あなたはまだ持っている」
「失ったのではなく、しまい込んでいるだけです。あなたの心の奥には、今も詩人が生きている。私はそれを知っています。黄瀛の詩が、その証拠です」
馨は、かすかに笑った。
「かなわないな。あなたには」
それは、馨が見せた初めての、心からの微笑みだった。仮面でも自嘲でもない、ただ純粋な——。
「少し、歩きませんか」馨が言った。「この街の、私が好きな場所を案内します」
三
馨が皐月を連れて行ったのは、共同租界の中心から少し外れた、古い街並みの残る区域だった。
「上海には、様々な顔がある」
馨は歩きながら話し始めた。
「租界の大通りは、君も見た通り、西洋の威容を示している。銀行、商館、ホテル——すべてが壮麗で、力に満ちている。しかし、一歩路地に入れば、そこには古い中国が息づいている」
馨の言う通り、大通りから細い路地に足を踏み入れると、世界は一変した。
道幅は人がすれ違うのがやっとの狭さで、両側には木造や煉瓦造りの古い家々がひしめいている。軒先には洗濯物が干され、鳥籠が吊るされ、線香の匂いが漂っていた。石畳はぬかるみ、あちこちに水溜まりができている。裸足で走り回る子供たち、門口でおしゃべりに興じる老婆たち、籠を担いで行き交う行商人——。
「租界の華やかさの陰には、これがある」馨は言った。「そして、これこそが本当の上海だ。少なくとも、私にとっては」
「どうして、この路地が好きなのですか」
「ここには、生活があるからだ」馨は立ち止まり、壁に落書きされた漢字を指さした。「これは詩だ。誰が書いたかもわからない、名もなき誰かの言葉。だが、確かにここに生きている。大詩人の作品だけが詩ではない。街角の落書きにも、詩は宿っている」
皐月はその落書きをじっと見つめた。読める文字もあれば、読めない文字もある。だが、そこに込められた誰かの想いだけは、確かに感じ取ることができた。
「あなたは、そういうものを詩にしようとしているのですね」
「ああ」馨は小さく頷いた。「漢詩の伝統には、市井の人々の声を掬い上げる系譜がある。杜甫は戦乱の中での庶民の苦しみを詠んだ。白居易は老女の悲しみを詩にした。私は、その系譜を新しい形で継ぎたいと思っている」
路地を抜けると、小さな廟があった。線香の煙が立ち込め、中から読経のような声が聞こえてくる。馨は廟の前で軽く頭を下げ、それから皐月に言った。
「ここには、詩の種が無数に落ちている。あとは、それを見つけられるかどうかだ」
ふたりはさらに歩き続けた。馨は時折立ち止まっては、古い建物や街角の風景について説明してくれた。あの家は明代の建築様式を残しているとか、この通りはかつて茶の取引で栄えたとか——。馨の知識は深く、そしてその語り口には、この街への深い愛情が感じられた。
「御厨さんは、上海が好きなのですね」
皐月がそう言うと、馨は少し考えてから答えた。
「好きかどうかはわからない。でも、ここが私の居場所だとは思う。日本でもない、中国でもない、西洋でもない——そのどれでもない場所。混沌として、矛盾に満ちていて、それでいて新しい何かが生まれようとしている。私のような中途半端な人間には、ふさわしい街だ」
「中途半端だなんて——」
「いや、事実だ。商人としては詩人すぎるし、詩人としては商人すぎる。どちらの世界でも、私は完全にはなれない。でも」馨はかすかに笑った。「それでいいのかもしれない。どちらか一方になったら、見えなくなるものがある」
路地の出口で、馨は立ち止まった。
「橘さん、あなたにひとつ、謝らなければならないことがある」
「何でしょう」
「船の上で、私はあなたに『現実を見ろ』と言った。女性が詩人になることの難しさを説いた。あれは——」
馨は言い淀み、それから意を決したように続けた。
「あれは、かつて私が浴びせられた言葉そのものだった。私が詩を諦めたときに、周囲から言われたこと、自分に言い聞かせたことを、そのままあなたにぶつけていた。自分の挫折を、あなたに投影していたんだ」
「そんな——」
「私は、弱い人間だ」馨は自嘲した。「自分が諦めた夢を、若いあなたが追いかけているのを見て、嫉妬した。だから、あなたの志を挫こうとした。本当に、情けない」
皐月は首を振った。
「でも、あなたは私に『詩を書くことは、ただ書き続けることだ』とも言ってくれました。あの言葉に、私はどれだけ励まされたか。あなたの言葉には、いつも二つの声がある。商人としての冷めた声と、詩人としての温かい声。それは、どちらも本当のあなたなのだと思います」
馨は、皐月の言葉を黙って聞いていた。
「私は、あなたのどちらの声も信じています。だって、その両方が、黄瀛の詩を作り上げているのだから」
路地の向こうから、夕暮れを告げる鐘の音が聞こえてきた。
四
その翌日、馨は皐月を「ぜひ紹介したい人がいる」と言って、虹口の外れにある古書店へと連れて行った。
店は四川北路からさらに北へ、日本人居留民の区域を抜けたあたりにあった。周囲は中国人の住宅街で、店の外観も見るからに古びていた。看板には「聚珍書店」という文字がかすれかかっている。
「ここが?」
「ああ。見かけはぼろいが、中には宝が眠っている」
馨が木製の扉を押し開けると、カランカランと鈴の音が鳴った。
店内は薄暗く、紙と墨と埃の混じった匂いが満ちていた。天井まで届く書棚には、無数の漢籍や和本、洋書がぎっしりと詰まっている。積み上げられた本の塔があちこちにあり、通路は人がひとり通るのがやっとだ。
「おお、馨か」
書棚の奥から、老人の声がした。
現れたのは、七十歳前後とおぼしき中国の老人だった。白いあごひげを蓄え、丸い眼鏡をかけ、藍色の長衫を着ている。皺だらけの顔には、知的な光をたたえた目が輝いていた。
「陳老師、お久しぶりです」
馨は深々と頭を下げた。
「今日は、どうしても紹介したい人がいて参りました。こちら、橘皐月さん。長崎から来られた詩人志望の方です」
「詩人志望かね」陳老師は皐月をじろじろと眺め、それからにっこりと笑った。「若い女性が詩人とは、面白い時代になったものだ。私は陳文清という。ここで古書店を営みながら、たまに馨の詩の添削などもしている」
「添削を?」
皐月が馨を見ると、馨は少し照れたように言った。
「陳老師は、中国の古典文学の大家でね。若い頃は北京で教鞭をとっておられたが、今は隠遁してここで古書に囲まれて暮らしておられる。私が黄瀛として詩を書き始めた頃から、ずっと見てもらっているんだ」
「見てもらっているというより、馨が勝手に送ってくるのを、私が勝手に読んでいるだけさ」陳老師は笑った。「でも、なかなか面白いものを書く。日本人でありながら、漢詩の心をこれほど理解している若者は珍しい。匿名で発表するのは惜しいと、いつも言っているのだが」
「老師、その話は——」
「わかっているよ。でも、このお嬢さんは秘密をご存知なのだろう? ならば遠慮は無用だ。さあ、座りなさい。お茶を淹れよう」
陳老師はふたりを店の奥の小さな居間へと案内した。ここにも本が山積みだったが、中央には応接用の机と椅子が三脚、なんとか人の座れる空間が確保されていた。
ほどなくして運ばれてきたのは、芳醇な香りの烏龍茶だった。小さな茶器で淹れられたそれは、上海の茶館で飲むものよりずっと繊細な味わいだった。
「それで」陳老師は椅子に腰を下ろしながら言った。「お嬢さんは、馨の詩を読んでどう思ったかね」
皐月はしばらく考えてから答えた。
「初めて読んだとき、まるで自分のために書かれた詩のように感じました。東洋と西洋の間で引き裂かれる苦しみ。それでも自分自身であろうとする意志。そこには、私が言葉にできなかった想いが、すべて書かれていました」
「うむ」陳老師は満足げに頷いた。「馨の詩の最大の美点はそこだ。彼は自分の苦悩を普遍的なものに昇華することができる。個人的な痛みを、人類全体の痛みとして描くことができる。これは、古今東西の優れた詩人に共通する資質だ」
「老師、褒めすぎです」馨は苦笑した。
「褒めているわけではない。事実を述べているだけだ」陳老師はぴしゃりと言った。「だがな、馨。お前の詩にはまだ弱点がある」
「弱点?」
「希望が足りない」
陳老師は茶を一口すすり、それから続けた。
「お前の詩は、苦悩や諦念の表現においては卓越している。しかし、その先にあるべき光——どんなに小さくてもいい、未来への希望——それが足りない。まるで、闇の中に留まることを選んでいるかのようだ」
馨は黙っていた。その横顔には、苦しげな翳りが浮かんでいる。
「老師の言う通りです」馨は低く言った。「私には、希望を書く資格がない」
「資格など、誰が決める」
「私自身です」馨は顔を上げた。「私は、詩人になる夢を捨てた人間だ。それなのに、詩の中で希望を語ることなど——」
「だから、それが間違いだと私は言っている」
陳老師は厳しい口調で言った。
「夢を捨てたのではない。お前は現実と折り合いをつけたのだ。それは弱さではない。むしろ、勇気のいることだ。そして、その折り合いの中でなお詩を書き続けていることこそが、お前の詩の本当の強さではないのか」
馨は何も言わなかった。
部屋の中に、重い沈黙が落ちた。
皐月は、その沈黙を破るように口を開いた。
「私も、そう思います」
馨と陳老師の視線が、皐月に集まった。
「御厨さんの詩には、苦しみの中にもかすかな光があります。『黄浦江の濁りに映る影は 中国でも日本でもなく ただひとりの人間の形』——この『ただひとりの人間』という言葉に、私は希望を感じました。どんなに引き裂かれても、最後には『人間』でいようとする意志。それは、未来への信頼ではないでしょうか」
陳老師は破顔した。
「お嬢さん、君は良い読者だ。詩人志望というのも納得できる」
「ありがとうございます。でも、私の詩はまだまだで——」
「詩人なんてものはな」陳老師は茶器を手に取りながら言った。「一生、未熟なものだ。完成した詩人など、どこにもいない。大切なのは、書き続けること。それだけだ」
書き続けること。それだけだ——。
その言葉は、船の上で馨が言ったことと同じだった。
皐月は馨を見た。馨もまた、皐月を見つめていた。ふたりの視線が交わり、そこには言葉以上の何かが通い合った。
「老師」馨が立ち上がった。「今日は、彼女に僕の詩の原点を見せたくて来ました。例の本を——」
「ああ、あれか」陳老師も立ち上がり、書棚の奥へと消えた。しばらくして戻ってきたとき、手には一冊の古びたノートがあった。
「これが、黄瀛の最初の詩集だ」馨はそのノートを皐月に差し出した。「正式に出版されたものではなく、私が自分で清書し、製本したものだ。全部で十二篇。十八歳から二十二歳までに書いた詩が収められている」
皐月は震える手でノートを受け取った。表紙には毛筆で「瀛海集」と記されている。
「開けてみてください」
馨の言葉に従い、皐月は最初の頁を開いた。
そこには、驚くほど丁寧な文字で詩が書かれていた。
故郷
汽笛が鳴る 夕闇の埠頭
母の手が 桟橋の彼方で揺れる
水平線はいつも曖昧だ
故郷と異郷の境界など
誰が決めたのだろう
「これは、上海に戻るときの詩ですね」
「ああ。東京での留学生活を終え、父が倒れたとの報せを受けて、急遽上海に戻ることになったときのものだ。詩人になる夢も、東京で築いた人間関係も、すべてを置き去りにして——」
馨はノートを見つめながら続けた。
「この詩を書いたとき、私はもう二度と詩を書くまいと決めていた。でも、書かずにはいられなかった。船の中で、泣きながらこのノートに書きつけた。それが、黄瀛としての最初の詩になった」
皐月は頁をめくった。どの詩も、若々しい感性と、すでに完成された技法が共存している。痛みがあり、諦めがあり、しかしその奥には確かに希望があった。
「素晴らしい」
皐月は素直に言った。
「これほどの詩を書ける人が、なぜ匿名で——」
「だからこそ、匿名なんだ」
馨はノートを受け取り、大切そうに胸に抱えた。
「私は、本名で詩を発表する資格を失った。しかし、詩を書くことをやめることもできなかった。だから、黄瀛という別人になった。黄瀛は自由だ。家業のしがらみも、世間の偏見も、何もない。ただ詩だけのために存在する」
「でも、それでは黄瀛は——」
皐月は言葉を選びながら言った。
「それは、本当のあなたではないのではありませんか。あなたは、黄瀛でもあり、御厨馨でもある。その両方を引き受けることこそが、きっと——」
「若いのに、えらいことを言うねえ」
陳老師が、感心したように皐月を見た。
「馨、このお嬢さんの言う通りだ。お前はいつも、自分を二つに分けて考えすぎる。だが、人間はそんなに単純に割り切れるものではない。商人の馨と詩人の黄瀛、どちらもお前だ。そろそろ、それを受け入れたらどうだ」
馨は、陳老師と皐月の顔を交互に見た。その目には、迷いと、かすかな安堵が同時に浮かんでいた。
「老師、橘さん。今日は、来てよかった。ありがとう」
馨は深く頭を下げた。
古書店を出ると、外はもう夕暮れだった。
街灯がぽつりぽつりと灯り始め、路地には夕食の支度をする匂いが漂っている。
「今日は、本当にありがとうございました」
皐月が言うと、馨は穏やかな笑みを浮かべた。
「こちらこそ。陳老師に会わせることができてよかった。彼は、私が上海で唯一、正体を明かしている相手だ。その彼が、あなたのことを気に入った。それは——」
馨は言葉を切り、少し間を置いてから続けた。
「私にとって、とても意味のあることなんだ」
「意味?」
「ああ。陳老師が認めるということは、それだけで価値がある。あなたには、詩人としての才能があるということだ。自信を持っていい」
馨の言葉は、心からのものに聞こえた。皐月は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「御厨さん、これからも詩を書きますか?」
「もちろん。ただし、これまで通り匿名で、だ。それしか方法がない」
「でも——」
「わかっている。いつかは、本当の名前で書きたいと思っている。でも、今はまだその時ではない。商会もまだ安定していないし、父の体調も思わしくない。もう少し、このままでいさせてほしい」
馨の声には、悲しみよりもむしろ、静かな覚悟が感じられた。
皐月はそれ以上、何も言わなかった。
ふたりは、夕闇の迫る路地を、ゆっくりと歩き続けた。
五
それからの日々は、皐月にとって驚くほど充実したものになった。
馨とは、週に二度か三度、会うようになっていた。ふたりで上海の街を探索し、馨は皐月に様々な場所を案内した。豫園の庭園、龍華寺の古塔、福州路の書店街、南市の老城隍廟——。馨が案内する場所はどれも、ガイドブックには載っていない上海の素顔を見せてくれた。
「ここは、私が最初の詩の着想を得た場所だ」
馨は豫園の太湖石の前で言った。
「この石は、何百年もかけて水が作り出した形だ。人の手で作ったわけではない。でも、これを見たとき、詩も同じだと思った。言葉は時間をかけて、心の中で少しずつ形作られる。急いで作った詩は、どこか不自然になる」
ふたりは、古い茶館で休憩しながら、詩の話をした。皐月が最近書いた詩を見せると、馨は真剣に読み、率直な感想を述べた。時に厳しい批評もあったが、それはいつも愛情のこもったものだった。
「この部分は、言葉が多すぎる。詩は説明ではなく、提示だ。『夕陽が沈む』と書くよりも、『空が朱に染まる』と書け。読者の想像力に委ねるんだ」
「でも、伝わらないかもしれないと不安で——」
「伝えようとしすぎると、詩は死ぬ。信じるんだ。あなたの言葉を。あなたの感受性を」
そんな会話を重ねるうちに、皐月は自分の詩が少しずつ変わっていくのを感じていた。以前は技巧に走りすぎたり、逆に感情に流されすぎたりしていたが、馨の助言によって、そのバランスが取れ始めている。
「御厨さんは、やはり教師に向いていますね」
ある日、皐月がそう言うと、馨は照れたように笑った。
「私はただ、かつて自分がつまずいた場所を教えているだけだ。同じ轍を踏んでほしくないから」
「でも、私の詩のせいで、あなたが書く時間が減っているのでは?」
「いや、むしろ逆だ」馨は真剣な顔で言った。「あなたと話していると、私も詩が書きたくなる。あなたの情熱が、私の凍えていた何かを溶かしてくれる」
そんな馨の言葉に、皐月は心が震えるのを感じた。
馨もまた、変わり始めている。以前よりもよく笑うようになった。自嘲的な笑みではなく、心からの笑顔を見せる瞬間が増えた。それは、陳老師や皐月が指摘した「希望」が、彼の中で少しずつ育っている証拠かもしれない。
しかし——。
馨は時折、不意に口を閉ざすことがあった。ふたりで笑い合っている最中に、ふと真顔に戻り、遠くを見つめる。その目には、変わらずあの物憂げな翳りが浮かんでいた。
「どうかなさいましたか」
皐月が尋ねても、馨は「何でもない」と首を振るだけだった。
馨の心の中には、まだ皐月が踏み込めない領域がある。それは彼が背負う責任であり、過去の傷であり、そして——これから彼が選ばなければならない道だった。
そんなある日、馨がいつになく沈んだ表情で現れた。
場所は、いつもの待ち合わせ場所である外灘のカフェだった。窓際の席で、馨は冷めたコーヒーをじっと見つめている。
「今日は、少し話したいことがある」
馨の声は、かすかに震えていた。
「何か、あったのですか」
「父から手紙が来た」馨は懐から一通の封筒を取り出した。「もうそろそろ、身を固めろと言ってきた。お見合いの話もあるらしい」
皐月は、胸の奥がずきりと痛むのを感じた。
「お見合い、ですか」
「ああ。相手は、大阪の大きな商家の娘だそうだ。商会同士の提携という意味もあるのだろう。断る理由がない」
「でも、ご本人の意思は——」
「私の意思など、関係ない」
馨は封筒を握りつぶした。
「私は御厨家の跡取りだ。家を守り、商売を続けることが私の使命だ。いずれは日本に帰り、正式に家を継がなければならない。上海でのこうした生活も、いずれ終わる」
馨の言葉は、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
「詩を書くことも、ですか」
「詩は」馨は辛そうに言った。「私の人生の本筋ではない。どんなに愛していても、それは私の道の本流にはならない。だから——」
馨は皐月の目を見つめた。
「あなたも、ご自身の道を進んでください。私は、あなたの詩を応援している。でも、これ以上——」
「これ以上、何ですか」
馨は答えなかった。ただ、窓の外の黄浦江を、じっと見つめていた。
皐月は、馨が何を言おうとしているのか、痛いほどわかっていた。馨は、ふたりの間に一線を引こうとしている。これ以上親しくなれば、別れるときが辛くなるから。
でも——。
「私は」皐月はテーブルの上に置かれた馨の手に、自分の手を重ねた。「あなたに救われました。あなたの詩に、あなたの言葉に、あなたの存在に。だから今度は、私があなたを救いたい」
馨の手が、かすかに震えた。
「救う、とは」
「あなたが自分らしく生きられるように。詩人としても、商人としても、そしてひとりの人間としても、あなたがあなたであることを諦めないでほしい」
馨は、皐月の手を振りほどくことはしなかった。しかし、握り返すこともしなかった。
「それは、できない相談だ」
馨の声は、かすれていた。
「私はもう、諦めることに慣れてしまった。夢も、希望も、そして——」
馨はそこで言葉を切った。その目には、皐月の姿が映っている。彼が諦めようとしている最後の何かが、そこにあった。
「御厨さん、私は——」
「帰りましょう」
馨は立ち上がった。
「今日は、これで。明日もまた、商会の仕事がある。あなたも、詩の推敲を続けてください。次のサロンで発表するのでしょう」
「でも——」
「おやすみなさい、橘さん」
馨はそう言うと、コーヒー代をテーブルに置き、足早にカフェを出ていった。
皐月は、しばらくその場に座り続けた。
窓の外では、黄浦江が夕陽に赤く染まっていた。船の汽笛が遠くで鳴り、鴎が数羽、黄昏の空を旋回している。
馨は、一線を引こうとしている。
でも、その線はあまりにも脆く、あまりにも痛々しかった。
「諦めることに慣れてしまった——」
馨の言葉が、皐月の胸の中で繰り返し響いた。
彼は慣れてしまったのだ。夢を諦めることに。自分自身であることを諦めることに。でも、その慣れは、本当の彼の心を殺してはいないか。
「私が、何とかしなければ」
皐月は心の中で呟いた。
馨が黄瀛としての詩を捨てずにいる限り、彼の心の炎はまだ消えていない。そして、その炎を守り、育てることが、今の自分にできることではないのか。
窓の外では、最初の瓦斯灯がぽつりと灯り始めていた。
夜の帳が下りようとしている。だが、闇が深ければ深いほど、灯りは際立つのだ。
皐月はノートを取り出し、ペンを走らせ始めた。
馨に宛てて——。黄瀛に宛てて——。いや、ひとりの人間から、もうひとりの人間へ——。
詩が、生まれようとしていた。
六
それから数日、馨からは連絡がなかった。
皐月はその間、ほとんど眠らずに詩を書いていた。馨に伝えたいことがあった。言葉にしなければならない想いがあった。それは恋文のようなものかもしれない。でも、ただの恋文ではない。ひとりの詩人から、もうひとりの詩人へ——魂の呼びかけだった。
田村家の自室で、皐月は何度も何度も書き直した。馨から教わったことを思い出しながら、言葉を削り、研ぎ澄ませていく。
『言葉は説明ではなく、提示だ。』
そうだ。だから、想いをそのまま書くのではなく、想いが立ち現れる風景を描こう。
『詩人は一生未熟なものだ。大切なのは書き続けること。』
これが、今の自分の精一杯の詩だ。未熟でもいい。でも、真心を込めて。
皐月が詩を書き上げたのは、馨と別れてから五日目の夜だった。
詩の題は「黄浦江に寄せて」。
馨が愛した黄浦江。彼が黄瀛という名に込めた海。すべての境界を溶かし、すべてを受け入れる流れ——。
皐月は清書した詩を封筒に入れ、表には「御厨馨様」とだけ記した。
翌朝、皐月は光亜商会を訪れた。応対したのは、前回と同じ若い中国人の事務員だった。
「こちらを、御厨様に」
「御厨は、あいにく数日前から体調を崩しておりまして——」
皐月は心臓がぎゅっと締め付けられる思いだった。
「お加減はいかがなのですか」
「それが、あまり思わしくないようで。医者からは静養が必要だと言われているそうです。商会の業務も、しばらくは番頭が代わりに——」
皐月は決断した。
「これを、必ずお届けください。そして、橘皐月が来たと、そうお伝えください」
事務員は一瞬ためらったが、皐月の真剣な表情に押されて、こくりと頷いた。
「承知しました。必ず」
皐月は光亜商会を後にし、外灘へと歩いた。
黄浦江は、今日も変わらず濁った流れをたたえている。船が行き交い、汽笛が鳴り、鴎が舞い——すべてはいつも通りだ。でも、皐月の心は重く沈んでいた。
馨は体調を崩した。それは、心の病かもしれない。自分のせいだろうか。無理に秘密を暴き、過去を掘り返し、そして希望を押しつけた——。
「でも」皐月は呟いた。「それでも、私は信じる」
馨の詩を。馨の言葉を。そして、馨という人間を。
詩には力がある。言葉には力がある。それが人を救うこともあれば、時に傷つけることもある。でも、何もしなければ何も変わらない。
皐月は黄浦江の流れを見つめながら、馨の言葉を思い出していた。
『境界の上にいるような気分になる』
船という境界。上海という境界。東洋と西洋の境界。現実と夢の境界——。
そのすべての境界を越えて、ふたりは出会った。だから、きっと——。
「きっと、また会える」
皐月はそう信じることにした。
その夜、皐月の元に一通の手紙が届いた。
田村家の女中が持ってきた封筒には、表に何も書かれていなかった。しかし、中に入っていた便箋の文字を見て、皐月はすぐに誰からの手紙かわかった。
馨だった。
文字は少し震えていたが、確かに彼の筆跡だった。
橘さん
詩をありがとう。何度も読んだ。読むたびに、涙が止まらなかった。
あなたの詩には、私が失ったもの、諦めたものが、確かにそこにあった。黄浦江の流れのようだ、とあなたは書いた。流れはいつも変わらず、しかし決して同じ水ではない。人の心も、きっとそうなのだろう。
私は今、病床にいる。医者は過労だと言うが、自分では心の病だと思っている。あなたに一線を引こうとして、その線が自分の首を絞めている。馬鹿な男だ。
だが、あなたの詩を読んで、少しだけ光が見えた気がする。まだ、私は何も諦めていなかったのだと。諦めることに慣れたふりをしていただけで、本当は何も諦められていなかったのだと。
もう少し時間がほしい。自分自身と向き合う時間が。そのあとで、必ずあなたに会いに行く。それまで、あなたも詩を書き続けてほしい。
あなたの詩が、私の詩が、いつかどこかで、境界を越えて響き合うことを信じて。
御厨馨
——またの名を、黄瀛
皐月は手紙を胸に抱きしめた。涙が、自然とこぼれ落ちた。
それは悲しみの涙ではなかった。馨が、もう一度、自分の詩人としての名前を、自ら記した——「黄瀛」。それは、彼が自分自身を取り戻すための第一歩にほかならなかった。
返事は、詩で書こう。皐月はそう決めた。
言葉は境界を越える。海を越え、国を越え、人の心を越えていく。
それが、詩の力なのだから。
窓の外では、上海の夜が更けていった。瓦斯灯の灯りが、街のあちこちに滲んでいる。
遠くで、黄浦江を渡る船の汽笛が、長く尾を引いて響いていた。
パーティーの夜から、三日が過ぎた。
皐月はその間ずっと、馨にどうやって連絡を取るべきか悩んでいた。もらった名刺は机の引き出しにしまったままだ。光亜商会を訪ねるのは簡単だが、それでは馨の言う「深入り」をそのまま実行することになる。彼は明らかに、皐月が自分の秘密に近づくことを望んでいなかった。
しかし、諦めるわけにはいかなかった。
黄瀛の詩を読み返すたびに、皐月の確信は強まっていった。あの詩を書ける人間は、自分がこれまでに出会った中でただひとり——御厨馨しかいない。詩に込められた孤独、諦念、そしてかすかな希望。それらすべてが、船の上で見せた馨の横顔と重なって見える。
「やっぱり、会って確かめなければ」
皐月は意を決し、四日目の朝、一枚の手紙をしたためた。
御厨馨様
突然のお手紙をお許しください。お話ししたいことがございます。お時間をいただけないでしょうか。明日の午後二時、外灘の黄浦公園、噴水の前でお待ちしております。
橘皐月
簡潔な文面だった。余計なことは書かない。会う理由も明かさない。だが、馨ならば察するだろう——あの夜の会話の続きだと。
皐月は手紙を封筒に入れ、自分で光亜商会まで届けることにした。
光亜商会は、外灘からほど近い江西路に面した瀟洒な三階建てのビルだった。一階は事務所、二階以上は住居になっているらしい。看板には「光亜商会」の文字と、その下に英語で「KOA TRADING COMPANY」と記されている。
皐月が玄関を入ると、若い中国人の事務員が対応に出た。
「御厨様にお渡しください」
皐月が手紙を差し出すと、事務員はにこやかに受け取った。
「御厨はあいにく外出中ですが、必ずお渡しいたします」
「ありがとうございます」
皐月はビルを出て、通りを歩きながら考えた。馨はこの手紙を読んで、来るだろうか。それとも、無視するだろうか。もし来なければ、もうこの件は諦めるしかない——。
そう思うと、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような心地がした。
翌日、皐月は約束の三十分前に黄浦公園に着いた。
黄浦公園は、外灘の北端にある小さな公園だった。黄浦江と蘇州河の合流点に位置し、租界の中でも指折りの景勝地として知られている。もっとも、その入り口には悪名高い掲示が掲げられていた——「犬と中国人は入るべからず」。租界の傲慢さを象徴するようなその文言は、皐月の心をいつも暗くした。
しかし、今日はその看板に目を向ける余裕もなかった。
公園の中に入ると、芝生の緑が目に鮮やかで、あちこちに色とりどりの花が咲いている。水夫姿の西洋人や、ベビーカーを押す夫人たちが散策し、噴水の周りでは数人の子供たちが遊んでいた。すべてが絵葉書のように整っていて、先ほどの掲示の無残さと奇妙なコントラストをなしている。
皐月は噴水のそばのベンチに腰を下ろし、待った。
四月中旬の陽射しはもう強く、日傘がなければ肌がじりじりと焼けるようだった。黄浦江を渡る風が、時折、潮の香りを運んでくる。汽笛が遠くで鳴り、鴎が数羽、空を旋回している。
二時になった。
馨は、現れなかった。
二時十五分。皐月はベンチから立ち上がり、公園の入口を見つめ続けた。人々が行き交う中に、馨の姿はない。
二時半。皐月は溜息をついて、もう帰ろうかと思い始めた。やはり来ないのだ。あれだけはっきりと「深入りするな」と言ったのだから——。
そのときだった。
「橘さん」
声がした。皐月が振り返ると、馨が立っていた。
今日の馨は、パーティーの夜とは打って変わって地味な服装だった。濃い灰色のスーツに、飾りのない帽子。顔色は少し青白く、目の下にはうっすらと隈が浮かんでいる。手には皐月が出した手紙を持っていた。
「来てくださったのですね」
皐月の声は、ほっとした響きを帯びていた。
「あなたが、ここを選んだ理由は何ですか」
馨はそう尋ねながら、皐月の隣のベンチに腰を下ろした。
「理由——」
「黄浦江が見える場所だからでしょう。黄瀛の詩に出てくる、黄浦江が」
馨は手紙を折り畳み、ポケットにしまった。
「もう、隠すのはやめにします。あなたは勘が良すぎる」
皐月は馨の顔をまっすぐに見つめた。心臓が、早鐘のように打っている。
「では、やはり——」
「ええ」
馨は深く息を吐き出した。その表情は、パーティーの夜のような完璧な仮面ではなく、船の上の物憂げな素顔に戻っている。いや、それ以上に疲れ果てた、裸の表情だった。
「私が、黄瀛です」
言葉が、空気の中に落ちた。
皐月は息を呑んだ。確信はあった。しかし、こうして本人の口から聞くと、その重みはまったく違った。
「認めるのですね」
「認めざるを得ないでしょう。あなたは最初から、私の詩を知っている者の目で私を見ていた。船の上での会話のときから——」
馨は顔を上げ、黄浦江の彼方を見つめた。
「なぜ、隠していたのですか」
「いくつもの理由がある」馨は静かに語り始めた。「まず、家業のためだ。御厨家は代々、貿易商を営んできた。私が子供の頃から、父は私を後継者として育てた。商売の勘、外国語、帳簿のつけ方——必要なことはすべて教え込まれた。詩や文学は、『遊び』に過ぎなかった」
「でも、あなたは詩を愛している」
「愛している。だからこそ、表に出せない」
馨の声は、苦みに満ちていた。
「日本の実業界では、『詩人など男のくせに』という偏見が根強い。とくに、商家の跡取りが文学にうつつを抜かすなど、もってのほかだ。もし私が詩人だと知られれば、取引先は私を『軟弱な夢想家』と見なすだろう。信用が落ちれば、商会は立ち行かなくなる。そこに勤める数十人の使用人や、その家族の生活も——」
馨はそこで言葉を切り、苦しそうに額に手を当てた。
「すべては、私ひとりの問題ではない。だから私は、匿名で書くことで折り合いをつけた。詩を書き続けたいという自分勝手な欲望と、家業を守らなければならない責任との、ぎりぎりの妥協点だった」
皐月は、馨の横顔を見つめながら、胸が締め付けられるような思いだった。
この人は、ずっとひとりで苦しんできたのだ。誰にも言えない秘密を抱え、二つの顔を使い分けながら。その孤独が、あの詩の深い陰影を生み出したのだろうか。
「黄瀛という名前にしたのは、なぜですか」
馨は、かすかに笑った。
「『黄』は、この土地の色だ。黄河の濁り、上海の土埃、そして我々の肌の色。『瀛』は海——東シナ海であり、日本と中国を隔てる海であり、私自身の心の境界でもある。私はどこにも属せない。日本人でありながら上海に住み、商人でありながら詩を書く。どちらの世界からも、私ははみ出している」
「それこそが、あなたの詩の力ではありませんか」
皐月は言葉を選びながら言った。
「どちらにも属せないからこそ、見えるものがある。あなたの詩には、それが溢れている。私は——」
皐月は一度息を吸い、それから一気に言った。
「私は、あなたの詩に救われました」
馨は、ゆっくりと皐月の方を向いた。その目には、驚きと、信じられないという色が浮かんでいる。
「救われた?」
「はい。私はずっと、自分の詩に自信が持てませんでした。書きたいことはあるのに、言葉がついてこない。女だから、若いから、世間を知らないから——そう言われるたびに、諦めそうになった。でも、黄瀛の詩を読んだとき——」
皐月の声が、少し震えた。
「この人は、こんなにも苦しみながら書いている。そして、それでも書くことをやめていない。そう思ったら、私もまだ書いていいのだと思えました。あなたの詩がなければ、私はとっくにペンを折っていたかもしれない」
馨はしばらく黙っていた。それから、深い溜息をついた。
「皮肉なものだ」彼は呟いた。「私は自分の詩で誰かを救えるとは、一度も思ったことがなかった」
「でも、救ったのです。少なくとも、私を」
皐月の言葉に、馨は何も答えなかった。ただ、黄浦江の濁った流れを、じっと見つめていた。
二
馨が過去を語り始めたのは、それからしばらくしてからだった。
噴水の水音を聞きながら、馨はぽつりぽつりと、自分が詩人になろうとした日々のことを話し始めた。
「私が日本に留学したのは、十九のときだった」
馨の声は、遠い記憶を手繰り寄せるように、ゆっくりとしていた。
「父が、跡取りには海外の経験が必要だと言って、東京の高等商業学校に入れられた。今の一橋大学の前身だ。商売の勉強が本分だったが、私はすぐに文学の世界に引き込まれた。きっかけは、同級生に誘われて出席した文学講演会だった」
「どんな講演会だったのですか」
「西洋の新しい詩の潮流についての講演だった。フランスの象徴詩、イギリスのロマン派、ドイツの表現主義——それまで漢詩と和歌しか知らなかった私には、すべてが衝撃だった。言葉がこんなにも自由でいいのか。形式に縛られず、心のままに書いていいのか。私はその夜、生まれて初めて、自分でも詩を書いてみようと思った」
馨はそこで少し間を置き、それから自嘲めいた笑みを浮かべた。
「最初は、ひどいものだった。西洋の詩の真似事に過ぎなかった。ボードレールの模倣、ヴェルレーヌの焼き直し——日本語で書いていながら、中身は借り物の感情ばかり。でも、書き続けているうちに、少しずつわかってきた。真似では駄目だ。自分の言葉で書かなければ——」
「それで、漢詩の教養を活かそうと?」
「そうだ。私には、子供の頃から叩き込まれた漢詩の素養があった。李白、杜甫、王維——彼らの詩には、西洋の詩とはまったく違う美しさがある。自然と一体化する感覚、無常を静かに受け入れる心、言葉の外に広がる余白。それを新しい詩の形にできないかと考え始めた」
馨の目が、少しだけ輝きを取り戻した。詩の話になると、やはり彼の声は熱を帯びる。
「私は、西洋の自由詩の形式に、東洋の精神を吹き込もうとした。リズムは英語詩から学び、イマジネーションは漢詩から受け継ぐ。それができれば、本当の意味での『新しい詩』が生まれる——そう信じていた」
「素晴らしい試みだと思います」
皐月がそう言うと、馨は首を振った。
「しかし、世間はそう見てくれなかった。私が同人誌に詩を発表し始めると、反応は冷ややかだった。国粋派からは『西洋かぶれ』と罵られ、西洋崇拝の文学者からは『古臭い東洋趣味』と嘲笑された。どちらの陣営からも、私は異端だった」
馨は拳を握りしめた。
「それでも私は書き続けた。いずれ理解される日が来ると信じて。大学を卒業する頃には、小さな同人誌の同人になり、そこそこ名前も知られるようになった。しかし、その矢先に——」
「父上が、倒れられたのですか?」
馨は驚いたように皐月を見た。
「なぜ、それを?」
「勘です」皐月は静かに言った。「あなたの詩には、いつも喪失の影がある。何か大切なものを、突然失ったような——」
馨はしばらく皐月の顔を見つめていた。その目に、かすかな感嘆の色が浮かぶ。
「あなたは鋭すぎる」馨は呟いた。「そうだ。父が倒れた。過労だった。小さな商会を大きくするために、父は身を削って働いていた。倒れたと聞いて、私はすべてを放り出して上海に戻った。詩も、文学の仲間も、東京での生活も——すべてを捨てて」
「それが、『詩では人も東洋も救えない』という言葉につながるのですね」
馨は深く頷いた。
「父は一命を取り留めたが、以前のようには働けなくなった。商会の経営は傾き、使用人たちの生活も危うくなった。私は二十二歳で、商会の実権を握らざるを得なかった。詩を書いている暇など、どこにもなかった。そして思い知ったのだ。詩は、腹の足しにはならない。言葉は、現実を変えられない。どんなに美しい詩を書いても、それで飯が食えるわけではない——」
馨は立ち上がり、噴水の縁に手を置いた。
「私は、詩人になる夢を捨てた。だが、完全には捨てきれなかった。だから匿名で書くことにした。誰にも知られず、ただ自分のために書く。それだけが、私に残された道だった」
皐月は馨の背中を見つめながら、言葉を探した。何を言えばいいのか、簡単には見つからなかった。馨の苦しみは、まだ二十一歳の皐月には、想像もできないほど深いものだった。
しかし、それでも——。
「それでも、あなたは書き続けた」
皐月は立ち上がり、馨の隣に立った。
「どんなに苦しくても、詩を捨てなかった。なぜですか」
馨は答えなかった。ただ、噴水の水面を見つめている。そこには空が映り、雲が映り、時折、ふたりの姿が揺らいでいた。
「それが、あなたの本当の心だからでしょう」
皐月は言った。
「商売の責任を果たすことも大切です。でも、詩を書くことも、同じくらい大切なあなた自身の一部なのだ。それを否定することは、自分自身を否定することだ」
「綺麗事だ」馨は低く言った。「現実を見ろと、あの船の上でも言ったはずだ。夢だけでは生きていけない。理想だけでは——」
「でも、夢も理想もなくて、人は生きられるのですか」
皐月の言葉に、馨は顔を上げた。
「私は、夢を見ることを諦めたくない。現実を見ることも大切だと、あなたに教えられました。上海に来て、租界の現実を目の当たりにして、それは痛いほどわかりました。でも——」
皐月は、まっすぐに馨の目を見つめた。
「現実を見た上で、それでも夢を見続けることこそが、詩人の役目ではないのですか。あなたの詩は、まさにそれを体現している。現実の厳しさを知り尽くした上で、それでもかすかな希望を捨てない——黄瀛の詩には、いつもそれがある」
馨は、皐月の目をじっと見つめ返した。長い沈黙が続いた。
風が吹き、噴水の水飛沫がふたりの頬にかかった。
「あなたは、強い」馨はぽつりと言った。「私が若い頃に失ったものを、あなたはまだ持っている」
「失ったのではなく、しまい込んでいるだけです。あなたの心の奥には、今も詩人が生きている。私はそれを知っています。黄瀛の詩が、その証拠です」
馨は、かすかに笑った。
「かなわないな。あなたには」
それは、馨が見せた初めての、心からの微笑みだった。仮面でも自嘲でもない、ただ純粋な——。
「少し、歩きませんか」馨が言った。「この街の、私が好きな場所を案内します」
三
馨が皐月を連れて行ったのは、共同租界の中心から少し外れた、古い街並みの残る区域だった。
「上海には、様々な顔がある」
馨は歩きながら話し始めた。
「租界の大通りは、君も見た通り、西洋の威容を示している。銀行、商館、ホテル——すべてが壮麗で、力に満ちている。しかし、一歩路地に入れば、そこには古い中国が息づいている」
馨の言う通り、大通りから細い路地に足を踏み入れると、世界は一変した。
道幅は人がすれ違うのがやっとの狭さで、両側には木造や煉瓦造りの古い家々がひしめいている。軒先には洗濯物が干され、鳥籠が吊るされ、線香の匂いが漂っていた。石畳はぬかるみ、あちこちに水溜まりができている。裸足で走り回る子供たち、門口でおしゃべりに興じる老婆たち、籠を担いで行き交う行商人——。
「租界の華やかさの陰には、これがある」馨は言った。「そして、これこそが本当の上海だ。少なくとも、私にとっては」
「どうして、この路地が好きなのですか」
「ここには、生活があるからだ」馨は立ち止まり、壁に落書きされた漢字を指さした。「これは詩だ。誰が書いたかもわからない、名もなき誰かの言葉。だが、確かにここに生きている。大詩人の作品だけが詩ではない。街角の落書きにも、詩は宿っている」
皐月はその落書きをじっと見つめた。読める文字もあれば、読めない文字もある。だが、そこに込められた誰かの想いだけは、確かに感じ取ることができた。
「あなたは、そういうものを詩にしようとしているのですね」
「ああ」馨は小さく頷いた。「漢詩の伝統には、市井の人々の声を掬い上げる系譜がある。杜甫は戦乱の中での庶民の苦しみを詠んだ。白居易は老女の悲しみを詩にした。私は、その系譜を新しい形で継ぎたいと思っている」
路地を抜けると、小さな廟があった。線香の煙が立ち込め、中から読経のような声が聞こえてくる。馨は廟の前で軽く頭を下げ、それから皐月に言った。
「ここには、詩の種が無数に落ちている。あとは、それを見つけられるかどうかだ」
ふたりはさらに歩き続けた。馨は時折立ち止まっては、古い建物や街角の風景について説明してくれた。あの家は明代の建築様式を残しているとか、この通りはかつて茶の取引で栄えたとか——。馨の知識は深く、そしてその語り口には、この街への深い愛情が感じられた。
「御厨さんは、上海が好きなのですね」
皐月がそう言うと、馨は少し考えてから答えた。
「好きかどうかはわからない。でも、ここが私の居場所だとは思う。日本でもない、中国でもない、西洋でもない——そのどれでもない場所。混沌として、矛盾に満ちていて、それでいて新しい何かが生まれようとしている。私のような中途半端な人間には、ふさわしい街だ」
「中途半端だなんて——」
「いや、事実だ。商人としては詩人すぎるし、詩人としては商人すぎる。どちらの世界でも、私は完全にはなれない。でも」馨はかすかに笑った。「それでいいのかもしれない。どちらか一方になったら、見えなくなるものがある」
路地の出口で、馨は立ち止まった。
「橘さん、あなたにひとつ、謝らなければならないことがある」
「何でしょう」
「船の上で、私はあなたに『現実を見ろ』と言った。女性が詩人になることの難しさを説いた。あれは——」
馨は言い淀み、それから意を決したように続けた。
「あれは、かつて私が浴びせられた言葉そのものだった。私が詩を諦めたときに、周囲から言われたこと、自分に言い聞かせたことを、そのままあなたにぶつけていた。自分の挫折を、あなたに投影していたんだ」
「そんな——」
「私は、弱い人間だ」馨は自嘲した。「自分が諦めた夢を、若いあなたが追いかけているのを見て、嫉妬した。だから、あなたの志を挫こうとした。本当に、情けない」
皐月は首を振った。
「でも、あなたは私に『詩を書くことは、ただ書き続けることだ』とも言ってくれました。あの言葉に、私はどれだけ励まされたか。あなたの言葉には、いつも二つの声がある。商人としての冷めた声と、詩人としての温かい声。それは、どちらも本当のあなたなのだと思います」
馨は、皐月の言葉を黙って聞いていた。
「私は、あなたのどちらの声も信じています。だって、その両方が、黄瀛の詩を作り上げているのだから」
路地の向こうから、夕暮れを告げる鐘の音が聞こえてきた。
四
その翌日、馨は皐月を「ぜひ紹介したい人がいる」と言って、虹口の外れにある古書店へと連れて行った。
店は四川北路からさらに北へ、日本人居留民の区域を抜けたあたりにあった。周囲は中国人の住宅街で、店の外観も見るからに古びていた。看板には「聚珍書店」という文字がかすれかかっている。
「ここが?」
「ああ。見かけはぼろいが、中には宝が眠っている」
馨が木製の扉を押し開けると、カランカランと鈴の音が鳴った。
店内は薄暗く、紙と墨と埃の混じった匂いが満ちていた。天井まで届く書棚には、無数の漢籍や和本、洋書がぎっしりと詰まっている。積み上げられた本の塔があちこちにあり、通路は人がひとり通るのがやっとだ。
「おお、馨か」
書棚の奥から、老人の声がした。
現れたのは、七十歳前後とおぼしき中国の老人だった。白いあごひげを蓄え、丸い眼鏡をかけ、藍色の長衫を着ている。皺だらけの顔には、知的な光をたたえた目が輝いていた。
「陳老師、お久しぶりです」
馨は深々と頭を下げた。
「今日は、どうしても紹介したい人がいて参りました。こちら、橘皐月さん。長崎から来られた詩人志望の方です」
「詩人志望かね」陳老師は皐月をじろじろと眺め、それからにっこりと笑った。「若い女性が詩人とは、面白い時代になったものだ。私は陳文清という。ここで古書店を営みながら、たまに馨の詩の添削などもしている」
「添削を?」
皐月が馨を見ると、馨は少し照れたように言った。
「陳老師は、中国の古典文学の大家でね。若い頃は北京で教鞭をとっておられたが、今は隠遁してここで古書に囲まれて暮らしておられる。私が黄瀛として詩を書き始めた頃から、ずっと見てもらっているんだ」
「見てもらっているというより、馨が勝手に送ってくるのを、私が勝手に読んでいるだけさ」陳老師は笑った。「でも、なかなか面白いものを書く。日本人でありながら、漢詩の心をこれほど理解している若者は珍しい。匿名で発表するのは惜しいと、いつも言っているのだが」
「老師、その話は——」
「わかっているよ。でも、このお嬢さんは秘密をご存知なのだろう? ならば遠慮は無用だ。さあ、座りなさい。お茶を淹れよう」
陳老師はふたりを店の奥の小さな居間へと案内した。ここにも本が山積みだったが、中央には応接用の机と椅子が三脚、なんとか人の座れる空間が確保されていた。
ほどなくして運ばれてきたのは、芳醇な香りの烏龍茶だった。小さな茶器で淹れられたそれは、上海の茶館で飲むものよりずっと繊細な味わいだった。
「それで」陳老師は椅子に腰を下ろしながら言った。「お嬢さんは、馨の詩を読んでどう思ったかね」
皐月はしばらく考えてから答えた。
「初めて読んだとき、まるで自分のために書かれた詩のように感じました。東洋と西洋の間で引き裂かれる苦しみ。それでも自分自身であろうとする意志。そこには、私が言葉にできなかった想いが、すべて書かれていました」
「うむ」陳老師は満足げに頷いた。「馨の詩の最大の美点はそこだ。彼は自分の苦悩を普遍的なものに昇華することができる。個人的な痛みを、人類全体の痛みとして描くことができる。これは、古今東西の優れた詩人に共通する資質だ」
「老師、褒めすぎです」馨は苦笑した。
「褒めているわけではない。事実を述べているだけだ」陳老師はぴしゃりと言った。「だがな、馨。お前の詩にはまだ弱点がある」
「弱点?」
「希望が足りない」
陳老師は茶を一口すすり、それから続けた。
「お前の詩は、苦悩や諦念の表現においては卓越している。しかし、その先にあるべき光——どんなに小さくてもいい、未来への希望——それが足りない。まるで、闇の中に留まることを選んでいるかのようだ」
馨は黙っていた。その横顔には、苦しげな翳りが浮かんでいる。
「老師の言う通りです」馨は低く言った。「私には、希望を書く資格がない」
「資格など、誰が決める」
「私自身です」馨は顔を上げた。「私は、詩人になる夢を捨てた人間だ。それなのに、詩の中で希望を語ることなど——」
「だから、それが間違いだと私は言っている」
陳老師は厳しい口調で言った。
「夢を捨てたのではない。お前は現実と折り合いをつけたのだ。それは弱さではない。むしろ、勇気のいることだ。そして、その折り合いの中でなお詩を書き続けていることこそが、お前の詩の本当の強さではないのか」
馨は何も言わなかった。
部屋の中に、重い沈黙が落ちた。
皐月は、その沈黙を破るように口を開いた。
「私も、そう思います」
馨と陳老師の視線が、皐月に集まった。
「御厨さんの詩には、苦しみの中にもかすかな光があります。『黄浦江の濁りに映る影は 中国でも日本でもなく ただひとりの人間の形』——この『ただひとりの人間』という言葉に、私は希望を感じました。どんなに引き裂かれても、最後には『人間』でいようとする意志。それは、未来への信頼ではないでしょうか」
陳老師は破顔した。
「お嬢さん、君は良い読者だ。詩人志望というのも納得できる」
「ありがとうございます。でも、私の詩はまだまだで——」
「詩人なんてものはな」陳老師は茶器を手に取りながら言った。「一生、未熟なものだ。完成した詩人など、どこにもいない。大切なのは、書き続けること。それだけだ」
書き続けること。それだけだ——。
その言葉は、船の上で馨が言ったことと同じだった。
皐月は馨を見た。馨もまた、皐月を見つめていた。ふたりの視線が交わり、そこには言葉以上の何かが通い合った。
「老師」馨が立ち上がった。「今日は、彼女に僕の詩の原点を見せたくて来ました。例の本を——」
「ああ、あれか」陳老師も立ち上がり、書棚の奥へと消えた。しばらくして戻ってきたとき、手には一冊の古びたノートがあった。
「これが、黄瀛の最初の詩集だ」馨はそのノートを皐月に差し出した。「正式に出版されたものではなく、私が自分で清書し、製本したものだ。全部で十二篇。十八歳から二十二歳までに書いた詩が収められている」
皐月は震える手でノートを受け取った。表紙には毛筆で「瀛海集」と記されている。
「開けてみてください」
馨の言葉に従い、皐月は最初の頁を開いた。
そこには、驚くほど丁寧な文字で詩が書かれていた。
故郷
汽笛が鳴る 夕闇の埠頭
母の手が 桟橋の彼方で揺れる
水平線はいつも曖昧だ
故郷と異郷の境界など
誰が決めたのだろう
「これは、上海に戻るときの詩ですね」
「ああ。東京での留学生活を終え、父が倒れたとの報せを受けて、急遽上海に戻ることになったときのものだ。詩人になる夢も、東京で築いた人間関係も、すべてを置き去りにして——」
馨はノートを見つめながら続けた。
「この詩を書いたとき、私はもう二度と詩を書くまいと決めていた。でも、書かずにはいられなかった。船の中で、泣きながらこのノートに書きつけた。それが、黄瀛としての最初の詩になった」
皐月は頁をめくった。どの詩も、若々しい感性と、すでに完成された技法が共存している。痛みがあり、諦めがあり、しかしその奥には確かに希望があった。
「素晴らしい」
皐月は素直に言った。
「これほどの詩を書ける人が、なぜ匿名で——」
「だからこそ、匿名なんだ」
馨はノートを受け取り、大切そうに胸に抱えた。
「私は、本名で詩を発表する資格を失った。しかし、詩を書くことをやめることもできなかった。だから、黄瀛という別人になった。黄瀛は自由だ。家業のしがらみも、世間の偏見も、何もない。ただ詩だけのために存在する」
「でも、それでは黄瀛は——」
皐月は言葉を選びながら言った。
「それは、本当のあなたではないのではありませんか。あなたは、黄瀛でもあり、御厨馨でもある。その両方を引き受けることこそが、きっと——」
「若いのに、えらいことを言うねえ」
陳老師が、感心したように皐月を見た。
「馨、このお嬢さんの言う通りだ。お前はいつも、自分を二つに分けて考えすぎる。だが、人間はそんなに単純に割り切れるものではない。商人の馨と詩人の黄瀛、どちらもお前だ。そろそろ、それを受け入れたらどうだ」
馨は、陳老師と皐月の顔を交互に見た。その目には、迷いと、かすかな安堵が同時に浮かんでいた。
「老師、橘さん。今日は、来てよかった。ありがとう」
馨は深く頭を下げた。
古書店を出ると、外はもう夕暮れだった。
街灯がぽつりぽつりと灯り始め、路地には夕食の支度をする匂いが漂っている。
「今日は、本当にありがとうございました」
皐月が言うと、馨は穏やかな笑みを浮かべた。
「こちらこそ。陳老師に会わせることができてよかった。彼は、私が上海で唯一、正体を明かしている相手だ。その彼が、あなたのことを気に入った。それは——」
馨は言葉を切り、少し間を置いてから続けた。
「私にとって、とても意味のあることなんだ」
「意味?」
「ああ。陳老師が認めるということは、それだけで価値がある。あなたには、詩人としての才能があるということだ。自信を持っていい」
馨の言葉は、心からのものに聞こえた。皐月は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「御厨さん、これからも詩を書きますか?」
「もちろん。ただし、これまで通り匿名で、だ。それしか方法がない」
「でも——」
「わかっている。いつかは、本当の名前で書きたいと思っている。でも、今はまだその時ではない。商会もまだ安定していないし、父の体調も思わしくない。もう少し、このままでいさせてほしい」
馨の声には、悲しみよりもむしろ、静かな覚悟が感じられた。
皐月はそれ以上、何も言わなかった。
ふたりは、夕闇の迫る路地を、ゆっくりと歩き続けた。
五
それからの日々は、皐月にとって驚くほど充実したものになった。
馨とは、週に二度か三度、会うようになっていた。ふたりで上海の街を探索し、馨は皐月に様々な場所を案内した。豫園の庭園、龍華寺の古塔、福州路の書店街、南市の老城隍廟——。馨が案内する場所はどれも、ガイドブックには載っていない上海の素顔を見せてくれた。
「ここは、私が最初の詩の着想を得た場所だ」
馨は豫園の太湖石の前で言った。
「この石は、何百年もかけて水が作り出した形だ。人の手で作ったわけではない。でも、これを見たとき、詩も同じだと思った。言葉は時間をかけて、心の中で少しずつ形作られる。急いで作った詩は、どこか不自然になる」
ふたりは、古い茶館で休憩しながら、詩の話をした。皐月が最近書いた詩を見せると、馨は真剣に読み、率直な感想を述べた。時に厳しい批評もあったが、それはいつも愛情のこもったものだった。
「この部分は、言葉が多すぎる。詩は説明ではなく、提示だ。『夕陽が沈む』と書くよりも、『空が朱に染まる』と書け。読者の想像力に委ねるんだ」
「でも、伝わらないかもしれないと不安で——」
「伝えようとしすぎると、詩は死ぬ。信じるんだ。あなたの言葉を。あなたの感受性を」
そんな会話を重ねるうちに、皐月は自分の詩が少しずつ変わっていくのを感じていた。以前は技巧に走りすぎたり、逆に感情に流されすぎたりしていたが、馨の助言によって、そのバランスが取れ始めている。
「御厨さんは、やはり教師に向いていますね」
ある日、皐月がそう言うと、馨は照れたように笑った。
「私はただ、かつて自分がつまずいた場所を教えているだけだ。同じ轍を踏んでほしくないから」
「でも、私の詩のせいで、あなたが書く時間が減っているのでは?」
「いや、むしろ逆だ」馨は真剣な顔で言った。「あなたと話していると、私も詩が書きたくなる。あなたの情熱が、私の凍えていた何かを溶かしてくれる」
そんな馨の言葉に、皐月は心が震えるのを感じた。
馨もまた、変わり始めている。以前よりもよく笑うようになった。自嘲的な笑みではなく、心からの笑顔を見せる瞬間が増えた。それは、陳老師や皐月が指摘した「希望」が、彼の中で少しずつ育っている証拠かもしれない。
しかし——。
馨は時折、不意に口を閉ざすことがあった。ふたりで笑い合っている最中に、ふと真顔に戻り、遠くを見つめる。その目には、変わらずあの物憂げな翳りが浮かんでいた。
「どうかなさいましたか」
皐月が尋ねても、馨は「何でもない」と首を振るだけだった。
馨の心の中には、まだ皐月が踏み込めない領域がある。それは彼が背負う責任であり、過去の傷であり、そして——これから彼が選ばなければならない道だった。
そんなある日、馨がいつになく沈んだ表情で現れた。
場所は、いつもの待ち合わせ場所である外灘のカフェだった。窓際の席で、馨は冷めたコーヒーをじっと見つめている。
「今日は、少し話したいことがある」
馨の声は、かすかに震えていた。
「何か、あったのですか」
「父から手紙が来た」馨は懐から一通の封筒を取り出した。「もうそろそろ、身を固めろと言ってきた。お見合いの話もあるらしい」
皐月は、胸の奥がずきりと痛むのを感じた。
「お見合い、ですか」
「ああ。相手は、大阪の大きな商家の娘だそうだ。商会同士の提携という意味もあるのだろう。断る理由がない」
「でも、ご本人の意思は——」
「私の意思など、関係ない」
馨は封筒を握りつぶした。
「私は御厨家の跡取りだ。家を守り、商売を続けることが私の使命だ。いずれは日本に帰り、正式に家を継がなければならない。上海でのこうした生活も、いずれ終わる」
馨の言葉は、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
「詩を書くことも、ですか」
「詩は」馨は辛そうに言った。「私の人生の本筋ではない。どんなに愛していても、それは私の道の本流にはならない。だから——」
馨は皐月の目を見つめた。
「あなたも、ご自身の道を進んでください。私は、あなたの詩を応援している。でも、これ以上——」
「これ以上、何ですか」
馨は答えなかった。ただ、窓の外の黄浦江を、じっと見つめていた。
皐月は、馨が何を言おうとしているのか、痛いほどわかっていた。馨は、ふたりの間に一線を引こうとしている。これ以上親しくなれば、別れるときが辛くなるから。
でも——。
「私は」皐月はテーブルの上に置かれた馨の手に、自分の手を重ねた。「あなたに救われました。あなたの詩に、あなたの言葉に、あなたの存在に。だから今度は、私があなたを救いたい」
馨の手が、かすかに震えた。
「救う、とは」
「あなたが自分らしく生きられるように。詩人としても、商人としても、そしてひとりの人間としても、あなたがあなたであることを諦めないでほしい」
馨は、皐月の手を振りほどくことはしなかった。しかし、握り返すこともしなかった。
「それは、できない相談だ」
馨の声は、かすれていた。
「私はもう、諦めることに慣れてしまった。夢も、希望も、そして——」
馨はそこで言葉を切った。その目には、皐月の姿が映っている。彼が諦めようとしている最後の何かが、そこにあった。
「御厨さん、私は——」
「帰りましょう」
馨は立ち上がった。
「今日は、これで。明日もまた、商会の仕事がある。あなたも、詩の推敲を続けてください。次のサロンで発表するのでしょう」
「でも——」
「おやすみなさい、橘さん」
馨はそう言うと、コーヒー代をテーブルに置き、足早にカフェを出ていった。
皐月は、しばらくその場に座り続けた。
窓の外では、黄浦江が夕陽に赤く染まっていた。船の汽笛が遠くで鳴り、鴎が数羽、黄昏の空を旋回している。
馨は、一線を引こうとしている。
でも、その線はあまりにも脆く、あまりにも痛々しかった。
「諦めることに慣れてしまった——」
馨の言葉が、皐月の胸の中で繰り返し響いた。
彼は慣れてしまったのだ。夢を諦めることに。自分自身であることを諦めることに。でも、その慣れは、本当の彼の心を殺してはいないか。
「私が、何とかしなければ」
皐月は心の中で呟いた。
馨が黄瀛としての詩を捨てずにいる限り、彼の心の炎はまだ消えていない。そして、その炎を守り、育てることが、今の自分にできることではないのか。
窓の外では、最初の瓦斯灯がぽつりと灯り始めていた。
夜の帳が下りようとしている。だが、闇が深ければ深いほど、灯りは際立つのだ。
皐月はノートを取り出し、ペンを走らせ始めた。
馨に宛てて——。黄瀛に宛てて——。いや、ひとりの人間から、もうひとりの人間へ——。
詩が、生まれようとしていた。
六
それから数日、馨からは連絡がなかった。
皐月はその間、ほとんど眠らずに詩を書いていた。馨に伝えたいことがあった。言葉にしなければならない想いがあった。それは恋文のようなものかもしれない。でも、ただの恋文ではない。ひとりの詩人から、もうひとりの詩人へ——魂の呼びかけだった。
田村家の自室で、皐月は何度も何度も書き直した。馨から教わったことを思い出しながら、言葉を削り、研ぎ澄ませていく。
『言葉は説明ではなく、提示だ。』
そうだ。だから、想いをそのまま書くのではなく、想いが立ち現れる風景を描こう。
『詩人は一生未熟なものだ。大切なのは書き続けること。』
これが、今の自分の精一杯の詩だ。未熟でもいい。でも、真心を込めて。
皐月が詩を書き上げたのは、馨と別れてから五日目の夜だった。
詩の題は「黄浦江に寄せて」。
馨が愛した黄浦江。彼が黄瀛という名に込めた海。すべての境界を溶かし、すべてを受け入れる流れ——。
皐月は清書した詩を封筒に入れ、表には「御厨馨様」とだけ記した。
翌朝、皐月は光亜商会を訪れた。応対したのは、前回と同じ若い中国人の事務員だった。
「こちらを、御厨様に」
「御厨は、あいにく数日前から体調を崩しておりまして——」
皐月は心臓がぎゅっと締め付けられる思いだった。
「お加減はいかがなのですか」
「それが、あまり思わしくないようで。医者からは静養が必要だと言われているそうです。商会の業務も、しばらくは番頭が代わりに——」
皐月は決断した。
「これを、必ずお届けください。そして、橘皐月が来たと、そうお伝えください」
事務員は一瞬ためらったが、皐月の真剣な表情に押されて、こくりと頷いた。
「承知しました。必ず」
皐月は光亜商会を後にし、外灘へと歩いた。
黄浦江は、今日も変わらず濁った流れをたたえている。船が行き交い、汽笛が鳴り、鴎が舞い——すべてはいつも通りだ。でも、皐月の心は重く沈んでいた。
馨は体調を崩した。それは、心の病かもしれない。自分のせいだろうか。無理に秘密を暴き、過去を掘り返し、そして希望を押しつけた——。
「でも」皐月は呟いた。「それでも、私は信じる」
馨の詩を。馨の言葉を。そして、馨という人間を。
詩には力がある。言葉には力がある。それが人を救うこともあれば、時に傷つけることもある。でも、何もしなければ何も変わらない。
皐月は黄浦江の流れを見つめながら、馨の言葉を思い出していた。
『境界の上にいるような気分になる』
船という境界。上海という境界。東洋と西洋の境界。現実と夢の境界——。
そのすべての境界を越えて、ふたりは出会った。だから、きっと——。
「きっと、また会える」
皐月はそう信じることにした。
その夜、皐月の元に一通の手紙が届いた。
田村家の女中が持ってきた封筒には、表に何も書かれていなかった。しかし、中に入っていた便箋の文字を見て、皐月はすぐに誰からの手紙かわかった。
馨だった。
文字は少し震えていたが、確かに彼の筆跡だった。
橘さん
詩をありがとう。何度も読んだ。読むたびに、涙が止まらなかった。
あなたの詩には、私が失ったもの、諦めたものが、確かにそこにあった。黄浦江の流れのようだ、とあなたは書いた。流れはいつも変わらず、しかし決して同じ水ではない。人の心も、きっとそうなのだろう。
私は今、病床にいる。医者は過労だと言うが、自分では心の病だと思っている。あなたに一線を引こうとして、その線が自分の首を絞めている。馬鹿な男だ。
だが、あなたの詩を読んで、少しだけ光が見えた気がする。まだ、私は何も諦めていなかったのだと。諦めることに慣れたふりをしていただけで、本当は何も諦められていなかったのだと。
もう少し時間がほしい。自分自身と向き合う時間が。そのあとで、必ずあなたに会いに行く。それまで、あなたも詩を書き続けてほしい。
あなたの詩が、私の詩が、いつかどこかで、境界を越えて響き合うことを信じて。
御厨馨
——またの名を、黄瀛
皐月は手紙を胸に抱きしめた。涙が、自然とこぼれ落ちた。
それは悲しみの涙ではなかった。馨が、もう一度、自分の詩人としての名前を、自ら記した——「黄瀛」。それは、彼が自分自身を取り戻すための第一歩にほかならなかった。
返事は、詩で書こう。皐月はそう決めた。
言葉は境界を越える。海を越え、国を越え、人の心を越えていく。
それが、詩の力なのだから。
窓の外では、上海の夜が更けていった。瓦斯灯の灯りが、街のあちこちに滲んでいる。
遠くで、黄浦江を渡る船の汽笛が、長く尾を引いて響いていた。