黄浦江の境界
第四章 試される想い
一
馨からの手紙を受け取ってから、皐月は十日間、ただひたすら待ち続けた。
田村家の二階の窓辺に座り、通りを行き交う人々を眺めながら、彼女は馨の言葉を何度も繰り返し読んだ。手紙はもう、折り目が擦り切れるほどになっている。
『もう少し時間がほしい。自分自身と向き合う時間が。そのあとで、必ずあなたに会いに行く。』
馨はそう書いた。だから皐月は、その言葉を信じて待つことにした。焦ってはいけない。彼には彼の戦いがある——商会を守る戦い、父親の期待に応える戦い、そして何より、自分自身の心と向き合う戦いが。
しかし、五月に入り、上海の陽気が日増しに蒸し暑くなってきても、馨からの連絡はなかった。
皐月はその間、詩を書き続けた。馨に教えられたことを胸に刻みながら、言葉を削り、研ぎ澄ませていく。書き上げた詩はノートに清書し、いつか馨に見せられる日を夢見て、大切にしまっておいた。
「皐月さん、今日もお出かけにならないのですか」
節子が心配そうに声をかけてくる。
「ええ、今日は少し、書くことがありまして」
皐月は微笑んで答えたが、心の中は決して穏やかではなかった。馨は本当に戻ってくるのだろうか。病は快方に向かっているのだろうか。何か、悪いことが起きているのではないか——。
そんな不安が、夜ごと彼女を眠りから覚まさせた。
五月七日、久しぶりに翠蘭から手紙が届いた。文面は簡潔だったが、皐月の胸をざわつかせるには十分だった。
『早急にお会いしたいことがあります。明日、いつもの茶館でお待ちしています。』
翌日、皐月は約束の茶館へと急いだ。外灘に面したその店に着くと、翠蘭はすでにテラス席に座っていた。いつもは明るい彼女の表情が、今日はひどく曇っている。
「翠蘭さん、何があったのですか」
皐月が席に着くより早く、翠蘭は一枚の新聞をテーブルの上に広げた。
「これを見て」
それは英字新聞『ノースチャイナ・スター・ニュース』だった。租界で最も影響力のある英字紙である。翠蘭の指さす先には、大きな見出しが躍っていた。
『租界の二重生活——若き日本人実業家、秘された詩人の顔』
皐月は息を呑んだ。全身の血が、音を立てて引いていくような心地がした。
記事を読み進める。そこには、馨のことが詳細に書かれていた。
『光亜商会の若き経営者、御厨馨氏(二十六歳)は、租界の日本人社会で将来を嘱望される有能な実業家である。しかし本紙の調査により、同氏が「黄瀛」の筆名で詩を発表し、日本の一部文学青年の間で熱狂的な支持を得ている事実が明らかになった——』
さらに記事は続く。
『「黄瀛」の詩は、東洋と西洋の狭間で苦悩する内容が多く、一説には反西洋的な思想を含むとの指摘もある。また、匿名での発表は、自身の文学的野心を隠蔽し、取引先を欺く行為ではないかという声も上がっている——』
そして、最後の段落には、筆者の名がはっきりと記されていた。
『本紙記者 アーサー・ウィリアムズ』
「あの男——」
皐月は、パーティーの夜に庭で声をかけてきた西洋人記者の顔を思い出した。獲物を見つけた狩人のような、あの鋭い目つきを。
「やりやがったわ」翠蘭は吐き捨てるように言った。「しかも、悪意に満ちている。『反西洋的』だの『欺瞞』だの——すべて憶測か、意図的な曲解だわ。でも、こんな大新聞に書かれたら、信じる人も多い」
「馨さんは——御厨さんは、このことを?」
「もちろん知っているはずよ。今朝、光亜商会の前に新聞記者が詰めかけているのを見たわ」
皐月は居ても立ってもいられなくなった。
「私、行きます。光亜商会へ」
「待って」翠蘭は皐月の手を掴んだ。「今、あなたが行っても、余計に混乱させるだけかもしれない。あの記者たちは、少しでもスキャンダラスな話を嗅ぎつけようとしている。御厨さんと親しい女性が現れたとなれば、それもまた格好の餌食になる」
「でも——」
「わかっている。でも、まずは状況を整理しましょう。私の父も、この件で動いている。光亜商会とは長い付き合いだから、できる限りのことはするつもりよ」
翠蘭はそう言って、皐月を椅子に座らせた。
「それに、あなたには別にやるべきことがあるはずよ」
「別のこと?」
「ええ。この記事に対抗するには、事実を示すしかない。黄瀛の詩が、本当は何を詠っているのか。それが『反西洋的』でも『欺瞞』でもないことを、誰かに証明してもらわなければ——」
翠蘭の目が、じっと皐月を見つめた。
「それができるのは、あなただけかもしれない」
二
光亜商会は、まさに蜂の巣をつついたような騒ぎだった。
江西路に面したビルの前には、十人以上の新聞記者や野次馬が集まっている。彼らは入口に詰め寄り、中から出てくる者に質問を浴びせかけていた。
「御厨社長は在宅か!」
「黄瀛の詩について、何かコメントは!」
「取引先にはいつ説明するつもりだ!」
皐月は人混みの後ろから、その光景をじっと見つめた。
直接、馨に会うことはできない。翠蘭の言う通り、自分が飛び込んでいったところで、火に油を注ぐだけだろう。しかし、ここで手をこまねいているわけにもいかない。
皐月は決断し、路地を迂回して光亜商会の裏口へと回った。以前、馨と街を歩いたときに「商会の裏には小さな中庭がある」と聞いたことを思い出したのだ。
細い路地を抜け、煉瓦塀に囲まれた裏庭にたどり着く。庭には小さな木戸があり、そこから中に入れるようになっていた。皐月は意を決して、木戸を押した。
鍵はかかっていなかった。
中庭は静かだった。石畳の小道、小さな池、手入れの行き届いた植木——表通りの喧騒が嘘のような空間だった。
「誰か——」
声がした。
振り返ると、以前、手紙を取り次いでくれた中国人の事務員が立っていた。
「あなたは、橘さん——」
「申し訳ありません、裏口からお邪魔して。でも、どうしても御厨さんに——」
事務員は皐月の顔をじっと見て、それから静かに頷いた。
「ついてきてください。ただし、短時間でお願いします。御厨は、まだ本調子ではありませんので」
馨は二階の自室にいた。
事務員に案内されて入った部屋は、驚くほど簡素だった。机と椅子、本棚、そして窓際の寝台——。飾り気のない、まるで修行僧のような部屋だ。
馨は寝台に半身を起こしていた。顔色は青白く、頬はこけ、目は落ち窪んでいる。病み上がりどころか、まだ病のただ中にあるように見えた。
「橘さん——」
馨の声は、かすれていた。
「なぜ、ここに——」
「新聞を見ました。いてもたってもいられなくて」
皐月は馨の枕元に歩み寄った。
「お加減はいかがですか」
「見ての通りだ」馨は力なく笑った。「心労が、そのまま体に出たらしい。みっともないな」
「そんな——」
「君に会わないと決めてから、眠れなくなった。いや、もっと前からか。自分の正体が暴かれるのではないかという恐怖が、ずっと私を苛んでいた。そして、それが現実になった。皮肉なものだ。秘密が暴かれるのを恐れるあまり、その秘密が暴かれたときの衝撃に耐えられなくなるとは」
馨は激しく咳き込んだ。
皐月はあわてて水差しから水を注ぎ、馨に差し出した。
「ありがとう」
馨は水を一口含み、深く息を吐いた。
「君に謝らなければならない。約束を守れなかった。自分自身と向き合うと言いながら、結局、何も変われなかった。むしろ、事態を悪くした」
「御厨さんのせいではありません。あの記者が——」
「アーサー・ウィリアムズは、ただ自分の仕事をしただけだ」馨は自嘲した。「彼は嗅ぎつけたスクープを記事にした。それが彼の商売だ。責められる筋合いはない。私が、もっと慎重に、もっと巧妙に秘密を守るべきだった。あるいは——」
馨は窓の外を見つめた。外灘の方向から、汽笛の音が聞こえてくる。
「最初から、詩など書かなければよかった」
「やめてください」皐月は強く言った。「そんなことをおっしゃらないでください。あなたの詩は、あなたが思うよりずっと、多くの人の心に届いています。それが証拠に——」
皐月は鞄から、数枚の紙を取り出した。
「これを」
「何ですか」
「私の友人たちに書いてもらいました。文学サロンの仲間たちです。黄瀛の詩が、どれほど自分たちの心を支えているか——」
それは、皐月がここ数日で集めた手紙だった。森田をはじめ、サロンで出会った文学青年たちが、黄瀛の詩への想いを綴ったものだ。
馨は震える手でそれらを読み始めた。
『黄瀛の詩は、私たちが言葉にできなかった想いを、代わりに言葉にしてくれた』
『西洋化の波に押し流されそうな中で、東洋人としての誇りを思い出させてくれた』
『匿名であっても、あなたの詩は確かに存在している。その事実だけで、私たちは救われる』
馨の目から、涙がこぼれ落ちた。
「私の詩が——誰かの役に立っていたのか」
「そうです。だから、諦めないでください。少なくとも、あなたの詩を必要としている人たちが、ここにいる」
馨は手紙を胸に抱きしめた。
「ありがとう。でも——」
彼は涙を拭い、苦しげに言った。
「商会は、もうもたないかもしれない。今朝、大口の取引先から契約を打ち切るという連絡があった。『信用に関わる』と。別の取引先からは、『詩人に商売が務まるのか』と言われた。銀行も、融資の継続に難色を示し始めている」
「でも、あなたの商才は、詩を書くこととは関係ないはず——」
「世間は、そうは見てくれない。とくに、この租界では。信用こそがすべての世界で、『隠し事をしていた』という事実だけで、人は切り捨てられる」
馨は拳を握りしめた。
「私は、父が生涯をかけて築いた商会を、自分のせいで潰そうとしている」
「そんな——」
「もう、これ以上、君に迷惑はかけられない」
馨は顔を上げ、皐月をまっすぐに見つめた。
「君は、これから詩人として生きていくのだろう。ならば、スキャンダルに巻き込まれてはいけない。私と関わっていることが知られれば、君の名にも傷がつく」
「私は、そんなこと——」
「お願いだ」馨の声は、懇願するようだった。「今日は帰ってくれ。そして、しばらくは私のことを忘れてほしい。詩を書き続けてほしい。君には、それが一番大切なことだから」
皐月は何かを言おうとしたが、言葉が見つからなかった。
馨の目は、これ以上何を言っても無駄だと言っていた。彼はまた、自分ひとりで苦しみを抱え込もうとしている。今回ばかりは、彼の決意は固いようだった。
「今日は、これで失礼します」
皐月は立ち上がり、馨に一礼した。
「でも、私は諦めません。必ず、また来ます」
馨は何も言わなかった。ただ、窓の外を見つめている。
その横顔は、船の上で初めて見たときと同じ、深い孤独と物憂げな翳りに満ちていた。
三
光亜商会を出た皐月は、真っ直ぐに虹口へ向かった。
彼女の頭の中では、馨の言葉が繰り返し響いている。
『信用こそがすべての世界で、「隠し事をしていた」という事実だけで、人は切り捨てられる。』
その事実を変えるには、どうすればいいのか。馨の詩が「隠し事」ではなく、誇るべきものであることを示すには——。
答えはひとつしかなかった。
「黄瀛の詩の、本当の価値を証明しなければ」
それは、馨自身にさえできなかったことだ。彼は自分の詩を「諦めの証」としか見なしていなかった。しかし、皐月にはわかっている。黄瀛の詩には、もっと深い意味がある。それは単なる趣味や現実逃避ではなく、東洋の心を近代に蘇らせる試みであり、新しい時代の文学を切り拓く先駆的な営みなのだ。
そのことを証明するには、まず皐月自身がもっと学ばなければならなかった。
聚珍書店の鈴の音が、今日はひときわ大きく響いた。
「おや、お嬢さんか」
陳老師は今日もまた、書棚の陰からひょっこりと姿を現した。白いあごひげは相変わらずで、丸い眼鏡の奥の目は、皐月を見つめて細められる。
「馨は一緒ではないのかね」
「実は——」
皐月は事情を説明した。新聞記事のこと、馨が窮地に立たされていること、そして彼が詩を諦めようとしていること。
陳老師は黙って聞いていたが、話が終わると深い溜息をついた。
「やはり、そうなったか」
「老師は、予測されていたのですか」
「いつかはこうなると、薄々感じておった。馨は、世間というものを甘く見すぎていた。秘密は、いつか必ず露見する。とくに、彼ほど優れた詩を書くならなおさらだ。誰かが見ている。誰かが嗅ぎつける」
陳老師は椅子に座り、茶器を取り出した。手つきは落ち着いていて、まるでこの事態さえも想定の範囲内であるかのようだった。
「しかし、これは馨にとって、悪いことばかりではないかもしれん」
「どういうことですか」
「馨は長い間、自分を二つに分けて生きてきた。商人の顔と、詩人の顔。その二つは決して交わらず、彼はその裂け目の中で苦しみ続けてきた。しかし、秘密が露見したということは、もう分裂を続ける必要がなくなったということでもある」
「でも、それで商会が——」
「そう、そこが問題だ」陳老師は茶を注ぎながら言った。「租界の商人たちは、詩の価値など理解しない。彼らにとって詩は、商売の役に立たないばかりか、害になるものだ。馨の詩がいかに優れていても、彼らにはわからない」
「ならば、わからせればいいのではありませんか」
皐月の言葉に、陳老師の手が止まった。
「説明してくれんか」
「馨さんの詩が、西洋の単なる模倣ではなく、漢詩の伝統を受け継ぎながら新しい詩の形を創造したものであること。それが、これからの日本の文学にとって、どれほど重要な意味を持つか——」
皐月は息を吸い、一気に続けた。
「それを、私の言葉で書きます。いえ、書かせてください。馨さんの詩の真価を、誰にでもわかる形で示したいのです。新聞記者の書いたゴシップ記事ではなく、本当の批評を——」
陳老師はじっと皐月を見つめていた。皺だらけの顔に、ゆっくりと笑みが広がっていく。
「面白い。いや、面白いだけではない。君は本気だな」
「本気です。でも、私にはまだ知識が足りません。漢詩の伝統も、西洋の詩の理論も、すべてが未熟です。だから老師——」
「私に教えろと?」
「お願いします。馨さんの詩の、本当の価値を証明するために」
陳老師は立ち上がり、書棚の間をゆっくりと歩き始めた。
「いいだろう。ただし、覚悟はあるかね。学ぶということは、なまやさしいことではないぞ」
「覚悟なら、とっくにできています」
「よろしい」陳老師は数冊の本を棚から抜き出し、皐月の前に積み上げた。「まずはこれからだ。李白、杜甫、王維——唐詩の精髄を学べ。これが漢詩の骨格だ。次に、宋詞。蘇軾、李清照——詩がより人間の内面に近づいた時代だ。そして——」
陳老師はさらに数冊を積んだ。
「西洋の詩論だ。ワーズワース、コールリッジ、ボードレール、ヴェルレーヌ——馨が影響を受けた詩人たちの言葉を、原書で読め。君は英語が読めるか」
「少しだけ。でも、フランス語は——」
「それなら、英語訳のあるものを選ぼう。何より大切なのは、詩が何を語っているか、ではなく、詩がどのように語っているか、を理解することだ」
「どのように——ですか」
「そうだ。詩の価値は、主題ではない。表現の仕方にある。同じ風景を詠んでも、凡庸な詩人と優れた詩人の間には、天と地ほどの開きがある。馨の詩のどこが優れているのか、具体的に説明できなければ、批評にはならない」
陳老師の言葉は厳しかったが、その目は温かかった。
「君は若い。だが、若さは弱点ではない。むしろ、感受性の鋭さという武器になる。私が教えられることは限られているが、少なくとも、馨が歩んできた道筋をなぞることはできるだろう」
その日から、皐月の猛勉強が始まった。
彼女は毎日、朝早くから聚珍書店に通った。陳老師は店の奥の小さな居間を勉強部屋として開放してくれ、朝から夕方まで、みっちりと講義をしてくれた。
「漢詩の根幹は何か。それは『情景の融合』だ」陳老師は語る。「李白の『静夜思』を見よ。『牀前明月光 疑是地上霜』——月の光と霜という二つのイメージが重なり合い、故郷への想いが自然に立ち上がる。説明はない。ただ情景があるだけだ。その情景が、読者の心の中で想いを結ぶ」
皐月はノートに必死に書き留めた。
「馨の詩にも、同じ技法が見られる。『瓦斯灯のにじむ霧の街 東洋の月は煤けて沈み』——ここには、租界の夜景という情景と、その中での自己喪失という想いが、一体となって立ち上がっている」
「たしかに——」
「これが、単なる模倣でない証拠だ。西洋の詩にはない、東洋独自の表現がある。馨はそれを、漢詩から学び、近代詩に蘇らせた。ここが一番重要な点だ」
陳老師は次に、馨が影響を受けた西洋の詩人たちについて講義した。
「ワーズワースは、日常の言葉で詩を書くことを提唱した。それまでの西洋詩は、貴族や教養人のための難解な言葉で書かれていた。それを、一般の人々が使う生きた言葉で書く——これが、近代詩の出発点だ。馨はその方法論を日本語に適用した」
「ボードレールは、都市の闇を詠んだ。パリの路地裏、貧困、退廃——それまで詩の題材にならなかったものを、彼は詩にした。馨もまた、上海の租界という人工的な都市の闇を詠んだ。それは、ボードレールの影響でありながら、単なる模倣ではなく、東洋の都市でしか生まれ得ない詩になっている」
皐月は、馨の詩がますます深く理解できるようになるのを感じた。今までは感覚的に「すごい」と思っていたものが、なぜすごいのか、具体的に言葉にできるようになってきた。
「老師、私は今まで、詩を感覚だけで読んでいました。でも、それでは駄目なのですね。なぜ優れているのかを、きちんと言葉にできなければ——」
「その通りだ。とくに、君が書こうとしている批評は、詩の価値を知らない読者に向けて書くものだ。感覚的な賛辞だけでは説得力がない。なぜ黄瀛の詩が新しいのか、なぜそれが東洋の近代詩にとって重要なのか——それを理詰めで説明しなければならん」
陳老師は眼鏡を外し、疲れた目をこすった。
「しかし、理屈だけでも足りない。最後に大切なのは、詩が人の心を動かす力を持っているかどうかだ。君が馨の詩に救われたように、他の誰かも救われるかもしれない——その可能性こそが、詩の最終的な価値だ」
皐月は深く頷いた。
「私は、そのことを伝えたい。馨さんの詩が、理屈ではなく、まず心を打つものであること。そして、その力の源が、東洋の伝統と西洋の革新を融合させた、彼独自の表現にあること——」
「それだ。それが言えれば、十分な批評になる」
陳老師は満足げに笑った。
「さあ、今日の講義はここまでだ。あとは、君自身が考え、書く番だ」
四
皐月が批評を書き上げるまでに、さらに一週間を要した。
題は『黄瀛詩論——東洋の心、近代の詩』。
彼女はその中で、馨の詩が単なる趣味の産物でもなければ、反西洋的な思想の表明でもないことを、一篇一篇の詩を具体的に分析しながら論じた。漢詩の情景融合の技法がどのように近代詩に生かされているか。西洋の自由詩の形式がどのように日本語の詩に適応されているか。そして何より、黄瀛の詩が、東洋と西洋の狭間で苦悩する現代人の心を、これまでにない言葉で表現していること——。
清書を終えた夜、皐月は陳老師の元へ原稿を持っていった。
陳老師は無言で読み進め、最後の頁を閉じたとき、深く息を吐いた。
「素晴らしい。私が言うのもなんだが、君はすでに一人前の批評家だ」
「そんな——」
「いや、お世辞ではない。君は馨の詩の本質を、これ以上ないほど明確に言葉にしている。これを読めば、少なくとも詩に関心のある人間ならば、黄瀛の価値を疑わないだろう」
「でも、肝心の相手は、詩に関心のない人たちです。租界の商人たち、銀行家たち——彼らに、どうやって届ければ——」
「そのことなら、私に考えがある」
陳老師は机の引き出しから一枚の名刺を取り出した。
「林泰輔という。上海で『亜細東時報』という中国語新聞を発行している。彼は中国文化の復興に情熱を燃やす男で、租界の西洋化に強い危機感を持っている。君の批評は、中国語に翻訳して彼の新聞に掲載してもらおう」
「中国語に?」
「馨の詩の価値は、日本人だけのものではない。漢詩の伝統を受け継ぐ中国人にも、同じように響くはずだ。そして、租界の中国人社会には、まだ文化を重んじる風潮が残っている。彼らが黄瀛の詩を支持すれば、日本人社会も無視はできまい」
皐月は名刺を受け取りながら、胸が震えるのを感じた。
「でも、翻訳は——」
「私がやる」陳老師はあっさりと言った。「馨のためだ。君のためだ。そして、この東洋の文化が、西洋の波に飲み込まれないために——私にもできることがあるなら、惜しまずにやりたい」
翌日、陳老師は皐月の原稿を中国語に翻訳し始めた。
それはただの翻訳ではなかった。陳老師は中国の読者に合わせて、漢詩の伝統との関連をさらに詳しく書き加え、黄瀛の詩が持つ東洋的な美意識をより深く掘り下げていった。皐月の文章を土台にしながら、陳老師の長年の学識が加わり、それは二人の合作と呼ぶべきものになっていった。
翻訳が完成したのは、さらに三日後のことだった。
「これを林泰輔に届けよう。彼なら、きっと理解してくれる」
陳老師は原稿を丁寧に包み、皐月に手渡した。
「あとは、君が直接、林のもとへ行くといい。若い女性がこれだけのものを書いたと知れば、彼もきっと興味を持つだろう」
皐月は原稿を胸に抱きしめた。
「老師、本当にありがとうございます。何とお礼を言っていいか——」
「礼などいらん。ただ——」
陳老師は皐月の目をじっと見つめた。
「馨を救ってやってくれ。あの若者は、才能がありながら、ずっと孤独だった。君のような理解者が現れたことは、彼の人生で最大の幸運だ。どうか、彼を見捨てないでほしい」
「見捨てたりしません。絶対に」
皐月は固く誓った。
五
『亜細東時報』の編集部は、共同租界の端にある小さなビルにあった。
建物は古く、外壁の塗装は剥げ落ち、看板の文字もかすれかけている。とても新聞社には見えないが、中に入ると、活字とインクの匂いが満ちていた。
林泰輔は四十代半ばの、痩せた知識人風の男性だった。丸い眼鏡、長い辮髪、藍色の長衫——外見は典型的な中国の旧式知識人だが、その目には改革者のような鋭い光があった。
「陳老師からの紹介かね。珍しいこともあるものだ。彼がわざわざ誰かをよこすとは」
林は皐月が差し出した原稿を、その場で読み始めた。
読み終えるまでの沈黙が、皐月には永遠のように感じられた。
「これは——」
林は原稿から顔を上げ、皐月をまじまじと見つめた。
「君が書いたのかね。こんなに若いのに」
「陳老師のご指導のもとで」
「いや、指導だけで書けるものではない。この詩への理解、批評の確かさ——君はただ者ではないな」
林は原稿を机に置き、腕を組んだ。
「だが、これを新聞に載せるとなると、それなりの理由がいる。私の新聞は、中国の文化復興を旗印にしている。日本人の詩人を取り上げるのは、建前から言えば筋が違う」
「でも——」
「しかし」林は手を上げて皐月の言葉を制した。「これが筋違いでないことは、私にもわかる。この詩人、黄瀛——いや、御厨馨は、漢詩の伝統をこれほど深く理解し、それを新しい詩に蘇らせた。こんなことができるのは、現代では彼をおいて他にいないかもしれない。彼が日本人であれ中国人であれ、そんなことは重要ではない。これは東洋の至宝だ」
林は立ち上がり、印刷機の並ぶ隣室へと歩いていった。
「今週の号に掲載しよう。一面は無理だが、文化面のトップを約束する」
「ありがとうございます!」
皐月は深々と頭を下げた。
「ただし、ひとつだけ警告しておく」林の声が真剣になった。「君はこれで、租界の日本人社会を敵に回すかもしれない。彼らは同国人のスキャンダルを暴かれることを何より嫌う。ましてや、中国語の新聞に反論を載せるとなれば、反逆者扱いされる可能性もある」
「覚悟の上です」
皐月の声は揺るがなかった。
「私が恐れているのは、ただひとつ——馨さんが、自分の詩の価値を永遠に知らずに終わることだけです」
林はしばらく皐月を見つめていたが、やがて満足げに頷いた。
「いい目だ。君のような若者がいるなら、東洋の未来もまだ捨てたものではないな」
六
黄瀛の詩を擁護する批評が『亜細東時報』に掲載されたのは、それから三日後のことだった。
記事は大きな反響を呼んだ。まずは中国文化人の間で話題になり、それが租界の知識人サークルを通じて、日本人社会にも徐々に広がっていった。
「『亜細東時報』に日本人の詩を擁護する記事が出た」
「しかも、かなり本格的な批評だそうだ」
「筆者は誰なんだ?」
「それが、匿名でね。ただ、陳文清老師の監修とある」
もちろん、それが皐月の書いたものだということは、ごく一部の人間しか知らなかった。翠蘭はもちろんだが、森田をはじめとする文学サロンの仲間たちにも、皐月は秘密を守るよう頼んだ。彼女は表舞台に出るつもりはなかった。大切なのは、馨の詩の真価が伝わること。それだけだった。
批評の効果は、ゆっくりとではあるが確実に現れ始めた。
まず、文学関係者たちが声を上げ始めた。上海で発行されている日本語の文芸誌が、黄瀛の詩を真剣に論じる特集を組んだ。そこでは、アーサー・ウィリアムズの記事が「詩の価値をまったく理解しないゴシップ」と断じられ、黄瀛の詩が東洋近代詩の重要な試みであることが強調された。
次に、租界の中国人商人たちが動いた。彼らの中には、漢詩の教養を深く持つ者も多く、黄瀛の詩に共感を覚える者が少なくなかったのだ。劉翠蘭の父、劉明徳もまた、光亜商会との取引を継続することを明言し、他の中国人商人たちにも呼びかけた。
「商売に詩は関係ない。むしろ、漢詩を理解する商人こそが、中国との取引にふさわしい」
劉明徳のこの言葉は、日本人社会にも重く響いた。
しかし、それでも——。
馨の窮地は、まだ完全には晴れていなかった。
一部の取引先は依然として強硬な態度を崩さず、銀行の融資も完全には回復していなかった。そして何より、馨自身がまだ立ち直れていなかった。
皐月が批評を発表してからさらに一週間が過ぎた。馨からは、依然として何の連絡もなかった。
七
五月の終わり、皐月はひとりで外灘を歩いていた。
夕暮れが近づき、黄浦江の水面が茜色に染まっている。対岸の浦東には、無数の小さな船が停泊し、その向こうには広大な田園地帯が広がっている——まだ開発される前の、古い浦東の姿だ。
この景色を見るたびに、皐月は馨の言葉を思い出す。
『境界の上にいるような気分になる』
今、彼女自身が、その境界の上に立っている気がした。馨を信じて待つべきか。それとも、何か別の行動を起こすべきか。何が正しいのか、自分でもわからなくなっていた。
田村家に戻ると、節子が一通の手紙を差し出した。
「光亜商会の方から届きました。皐月さんがお戻りになったら、すぐにお渡しするよう言づかって——」
皐月は手紙を受け取ると、自室に駆け上がった。
封筒の表には、震えた文字で「橘皐月様」と記されている。馨の筆跡だった。
皐月は封を切り、便箋を取り出した。中には二枚の紙が入っていた。
一枚目は、馨からの手紙だった。
橘皐月さん
君の批評を読んだ。陳老師が中国語版を見せてくれたのだ。何度も読んだ。読むたびに、涙が止まらなかった。
君は、私が自分でも気づかなかった私の詩の価値を、これ以上ないほど明確に言葉にしてくれた。私の詩が単なる模倣でも現実逃避でもなく、東洋の心を近代に蘇らせようとする試みだったことを、君は理詰めで証明してみせた。
ありがとう。この言葉では足りないほど、感謝している。
だが、その上で、私は決断しなければならない。
商会の状況は、まだ厳しい。君の批評のおかげで、いくつかの取引先は戻ってきた。しかし、失った信用のすべてを取り戻すには、まだ時間がかかる。そのためには、私自身が「変化」を示さなければならない——世間が納得する形で。
私は、詩を捨てることにした。
黄瀛としての最後の詩を、今日、発表する。同封したのがそれだ。これが、私の最後の詩だ。もう二度と、詩は書かない。そう決めた。
そして、君にも会わない。君と会えば、私はまた詩を書きたくなってしまうだろう。君の顔を見れば、君の声を聞けば、私はまた夢を見たくなってしまうだろう。だが、それはもう許されないのだ。
君には、君の道がある。詩人として、これから大きく羽ばたいていくべき人だ。私のような厄介者に、君の未来を曇らせる権利はない。
さようなら、橘皐月さん。君に出会えたことは、私の人生で唯一の、本当の幸福だった。
御厨馨
——黄瀛としては、これが最後の名乗りだ
皐月は手紙を読み終え、しばらくの間、呆然としていた。
それから、二枚目の便箋を手に取った。
そこには、こう書かれていた。
筆を折る
黄浦江の濁りよ さらば
瓦斯灯の霧よ さらば
詩など何の役にも立たぬと
二十歳の私は知っていた
二十六歳の私は それを忘れていた
ただ忘れたかっただけか
誰かの心に届く言葉など
もともとどこにもなくて
ただ自分が救われたかっただけの
言葉の羅列にすぎなかった
さらば さらば
二度とペンを執ることはない
黄浦江に沈めるは この筆と
使い古した我が心
流れよ 流れよ
海へ 海へ
名もなき詩人の最期を
誰も知らず 誰も悼まず
濁りの中に消えゆくのみ
黄瀛
皐月は、詩を読み終えた瞬間、声を上げて泣き出していた。
これが、馨の最後の詩だという。彼はこれで、筆を折ると宣言している。詩を捨て、皐月とも別れ、ただ商人として生きていく——それが、彼の選んだ道だというのか。
「そんな——そんなこと、許せない」
皐月は涙を拭い、立ち上がった。
馨の決断は、あまりにも悲しすぎる。自分の才能を殺し、自分を理解してくれた者からも遠ざかり、ただ義務だけを背負って生きていく——それは、生きていると言えるのだろうか。
「私が、何とかしなければ」
皐月は、馨の最後の詩を胸に抱きしめた。
この詩は、たしかに絶望の詩だ。しかし、皐月にはわかる。この詩の奥底には、それでも誰かに読んでほしいという叫びがある。本当に詩を捨てる気なら、こんな詩は書かない。書けるはずがない。最後の最後まで、彼は詩人なのだ。
「黄瀛——いえ、御厨馨さん」
皐月は窓を開け放った。初夏の風が、部屋の中に流れ込んでくる。遠くで、黄浦江を行く船の汽笛が鳴っていた。
「あなたは、まだ諦めていない。この詩が、その証拠です」
皐月は机に向かい、ペンを執った。
返事は詩で書く。馨が最後の詩を書いたように、自分もまた、詩で応える。
言葉は境界を越える。海を越え、国を越え、人の心を越えていく。
それが、詩の力なのだから。
馨からの手紙を受け取ってから、皐月は十日間、ただひたすら待ち続けた。
田村家の二階の窓辺に座り、通りを行き交う人々を眺めながら、彼女は馨の言葉を何度も繰り返し読んだ。手紙はもう、折り目が擦り切れるほどになっている。
『もう少し時間がほしい。自分自身と向き合う時間が。そのあとで、必ずあなたに会いに行く。』
馨はそう書いた。だから皐月は、その言葉を信じて待つことにした。焦ってはいけない。彼には彼の戦いがある——商会を守る戦い、父親の期待に応える戦い、そして何より、自分自身の心と向き合う戦いが。
しかし、五月に入り、上海の陽気が日増しに蒸し暑くなってきても、馨からの連絡はなかった。
皐月はその間、詩を書き続けた。馨に教えられたことを胸に刻みながら、言葉を削り、研ぎ澄ませていく。書き上げた詩はノートに清書し、いつか馨に見せられる日を夢見て、大切にしまっておいた。
「皐月さん、今日もお出かけにならないのですか」
節子が心配そうに声をかけてくる。
「ええ、今日は少し、書くことがありまして」
皐月は微笑んで答えたが、心の中は決して穏やかではなかった。馨は本当に戻ってくるのだろうか。病は快方に向かっているのだろうか。何か、悪いことが起きているのではないか——。
そんな不安が、夜ごと彼女を眠りから覚まさせた。
五月七日、久しぶりに翠蘭から手紙が届いた。文面は簡潔だったが、皐月の胸をざわつかせるには十分だった。
『早急にお会いしたいことがあります。明日、いつもの茶館でお待ちしています。』
翌日、皐月は約束の茶館へと急いだ。外灘に面したその店に着くと、翠蘭はすでにテラス席に座っていた。いつもは明るい彼女の表情が、今日はひどく曇っている。
「翠蘭さん、何があったのですか」
皐月が席に着くより早く、翠蘭は一枚の新聞をテーブルの上に広げた。
「これを見て」
それは英字新聞『ノースチャイナ・スター・ニュース』だった。租界で最も影響力のある英字紙である。翠蘭の指さす先には、大きな見出しが躍っていた。
『租界の二重生活——若き日本人実業家、秘された詩人の顔』
皐月は息を呑んだ。全身の血が、音を立てて引いていくような心地がした。
記事を読み進める。そこには、馨のことが詳細に書かれていた。
『光亜商会の若き経営者、御厨馨氏(二十六歳)は、租界の日本人社会で将来を嘱望される有能な実業家である。しかし本紙の調査により、同氏が「黄瀛」の筆名で詩を発表し、日本の一部文学青年の間で熱狂的な支持を得ている事実が明らかになった——』
さらに記事は続く。
『「黄瀛」の詩は、東洋と西洋の狭間で苦悩する内容が多く、一説には反西洋的な思想を含むとの指摘もある。また、匿名での発表は、自身の文学的野心を隠蔽し、取引先を欺く行為ではないかという声も上がっている——』
そして、最後の段落には、筆者の名がはっきりと記されていた。
『本紙記者 アーサー・ウィリアムズ』
「あの男——」
皐月は、パーティーの夜に庭で声をかけてきた西洋人記者の顔を思い出した。獲物を見つけた狩人のような、あの鋭い目つきを。
「やりやがったわ」翠蘭は吐き捨てるように言った。「しかも、悪意に満ちている。『反西洋的』だの『欺瞞』だの——すべて憶測か、意図的な曲解だわ。でも、こんな大新聞に書かれたら、信じる人も多い」
「馨さんは——御厨さんは、このことを?」
「もちろん知っているはずよ。今朝、光亜商会の前に新聞記者が詰めかけているのを見たわ」
皐月は居ても立ってもいられなくなった。
「私、行きます。光亜商会へ」
「待って」翠蘭は皐月の手を掴んだ。「今、あなたが行っても、余計に混乱させるだけかもしれない。あの記者たちは、少しでもスキャンダラスな話を嗅ぎつけようとしている。御厨さんと親しい女性が現れたとなれば、それもまた格好の餌食になる」
「でも——」
「わかっている。でも、まずは状況を整理しましょう。私の父も、この件で動いている。光亜商会とは長い付き合いだから、できる限りのことはするつもりよ」
翠蘭はそう言って、皐月を椅子に座らせた。
「それに、あなたには別にやるべきことがあるはずよ」
「別のこと?」
「ええ。この記事に対抗するには、事実を示すしかない。黄瀛の詩が、本当は何を詠っているのか。それが『反西洋的』でも『欺瞞』でもないことを、誰かに証明してもらわなければ——」
翠蘭の目が、じっと皐月を見つめた。
「それができるのは、あなただけかもしれない」
二
光亜商会は、まさに蜂の巣をつついたような騒ぎだった。
江西路に面したビルの前には、十人以上の新聞記者や野次馬が集まっている。彼らは入口に詰め寄り、中から出てくる者に質問を浴びせかけていた。
「御厨社長は在宅か!」
「黄瀛の詩について、何かコメントは!」
「取引先にはいつ説明するつもりだ!」
皐月は人混みの後ろから、その光景をじっと見つめた。
直接、馨に会うことはできない。翠蘭の言う通り、自分が飛び込んでいったところで、火に油を注ぐだけだろう。しかし、ここで手をこまねいているわけにもいかない。
皐月は決断し、路地を迂回して光亜商会の裏口へと回った。以前、馨と街を歩いたときに「商会の裏には小さな中庭がある」と聞いたことを思い出したのだ。
細い路地を抜け、煉瓦塀に囲まれた裏庭にたどり着く。庭には小さな木戸があり、そこから中に入れるようになっていた。皐月は意を決して、木戸を押した。
鍵はかかっていなかった。
中庭は静かだった。石畳の小道、小さな池、手入れの行き届いた植木——表通りの喧騒が嘘のような空間だった。
「誰か——」
声がした。
振り返ると、以前、手紙を取り次いでくれた中国人の事務員が立っていた。
「あなたは、橘さん——」
「申し訳ありません、裏口からお邪魔して。でも、どうしても御厨さんに——」
事務員は皐月の顔をじっと見て、それから静かに頷いた。
「ついてきてください。ただし、短時間でお願いします。御厨は、まだ本調子ではありませんので」
馨は二階の自室にいた。
事務員に案内されて入った部屋は、驚くほど簡素だった。机と椅子、本棚、そして窓際の寝台——。飾り気のない、まるで修行僧のような部屋だ。
馨は寝台に半身を起こしていた。顔色は青白く、頬はこけ、目は落ち窪んでいる。病み上がりどころか、まだ病のただ中にあるように見えた。
「橘さん——」
馨の声は、かすれていた。
「なぜ、ここに——」
「新聞を見ました。いてもたってもいられなくて」
皐月は馨の枕元に歩み寄った。
「お加減はいかがですか」
「見ての通りだ」馨は力なく笑った。「心労が、そのまま体に出たらしい。みっともないな」
「そんな——」
「君に会わないと決めてから、眠れなくなった。いや、もっと前からか。自分の正体が暴かれるのではないかという恐怖が、ずっと私を苛んでいた。そして、それが現実になった。皮肉なものだ。秘密が暴かれるのを恐れるあまり、その秘密が暴かれたときの衝撃に耐えられなくなるとは」
馨は激しく咳き込んだ。
皐月はあわてて水差しから水を注ぎ、馨に差し出した。
「ありがとう」
馨は水を一口含み、深く息を吐いた。
「君に謝らなければならない。約束を守れなかった。自分自身と向き合うと言いながら、結局、何も変われなかった。むしろ、事態を悪くした」
「御厨さんのせいではありません。あの記者が——」
「アーサー・ウィリアムズは、ただ自分の仕事をしただけだ」馨は自嘲した。「彼は嗅ぎつけたスクープを記事にした。それが彼の商売だ。責められる筋合いはない。私が、もっと慎重に、もっと巧妙に秘密を守るべきだった。あるいは——」
馨は窓の外を見つめた。外灘の方向から、汽笛の音が聞こえてくる。
「最初から、詩など書かなければよかった」
「やめてください」皐月は強く言った。「そんなことをおっしゃらないでください。あなたの詩は、あなたが思うよりずっと、多くの人の心に届いています。それが証拠に——」
皐月は鞄から、数枚の紙を取り出した。
「これを」
「何ですか」
「私の友人たちに書いてもらいました。文学サロンの仲間たちです。黄瀛の詩が、どれほど自分たちの心を支えているか——」
それは、皐月がここ数日で集めた手紙だった。森田をはじめ、サロンで出会った文学青年たちが、黄瀛の詩への想いを綴ったものだ。
馨は震える手でそれらを読み始めた。
『黄瀛の詩は、私たちが言葉にできなかった想いを、代わりに言葉にしてくれた』
『西洋化の波に押し流されそうな中で、東洋人としての誇りを思い出させてくれた』
『匿名であっても、あなたの詩は確かに存在している。その事実だけで、私たちは救われる』
馨の目から、涙がこぼれ落ちた。
「私の詩が——誰かの役に立っていたのか」
「そうです。だから、諦めないでください。少なくとも、あなたの詩を必要としている人たちが、ここにいる」
馨は手紙を胸に抱きしめた。
「ありがとう。でも——」
彼は涙を拭い、苦しげに言った。
「商会は、もうもたないかもしれない。今朝、大口の取引先から契約を打ち切るという連絡があった。『信用に関わる』と。別の取引先からは、『詩人に商売が務まるのか』と言われた。銀行も、融資の継続に難色を示し始めている」
「でも、あなたの商才は、詩を書くこととは関係ないはず——」
「世間は、そうは見てくれない。とくに、この租界では。信用こそがすべての世界で、『隠し事をしていた』という事実だけで、人は切り捨てられる」
馨は拳を握りしめた。
「私は、父が生涯をかけて築いた商会を、自分のせいで潰そうとしている」
「そんな——」
「もう、これ以上、君に迷惑はかけられない」
馨は顔を上げ、皐月をまっすぐに見つめた。
「君は、これから詩人として生きていくのだろう。ならば、スキャンダルに巻き込まれてはいけない。私と関わっていることが知られれば、君の名にも傷がつく」
「私は、そんなこと——」
「お願いだ」馨の声は、懇願するようだった。「今日は帰ってくれ。そして、しばらくは私のことを忘れてほしい。詩を書き続けてほしい。君には、それが一番大切なことだから」
皐月は何かを言おうとしたが、言葉が見つからなかった。
馨の目は、これ以上何を言っても無駄だと言っていた。彼はまた、自分ひとりで苦しみを抱え込もうとしている。今回ばかりは、彼の決意は固いようだった。
「今日は、これで失礼します」
皐月は立ち上がり、馨に一礼した。
「でも、私は諦めません。必ず、また来ます」
馨は何も言わなかった。ただ、窓の外を見つめている。
その横顔は、船の上で初めて見たときと同じ、深い孤独と物憂げな翳りに満ちていた。
三
光亜商会を出た皐月は、真っ直ぐに虹口へ向かった。
彼女の頭の中では、馨の言葉が繰り返し響いている。
『信用こそがすべての世界で、「隠し事をしていた」という事実だけで、人は切り捨てられる。』
その事実を変えるには、どうすればいいのか。馨の詩が「隠し事」ではなく、誇るべきものであることを示すには——。
答えはひとつしかなかった。
「黄瀛の詩の、本当の価値を証明しなければ」
それは、馨自身にさえできなかったことだ。彼は自分の詩を「諦めの証」としか見なしていなかった。しかし、皐月にはわかっている。黄瀛の詩には、もっと深い意味がある。それは単なる趣味や現実逃避ではなく、東洋の心を近代に蘇らせる試みであり、新しい時代の文学を切り拓く先駆的な営みなのだ。
そのことを証明するには、まず皐月自身がもっと学ばなければならなかった。
聚珍書店の鈴の音が、今日はひときわ大きく響いた。
「おや、お嬢さんか」
陳老師は今日もまた、書棚の陰からひょっこりと姿を現した。白いあごひげは相変わらずで、丸い眼鏡の奥の目は、皐月を見つめて細められる。
「馨は一緒ではないのかね」
「実は——」
皐月は事情を説明した。新聞記事のこと、馨が窮地に立たされていること、そして彼が詩を諦めようとしていること。
陳老師は黙って聞いていたが、話が終わると深い溜息をついた。
「やはり、そうなったか」
「老師は、予測されていたのですか」
「いつかはこうなると、薄々感じておった。馨は、世間というものを甘く見すぎていた。秘密は、いつか必ず露見する。とくに、彼ほど優れた詩を書くならなおさらだ。誰かが見ている。誰かが嗅ぎつける」
陳老師は椅子に座り、茶器を取り出した。手つきは落ち着いていて、まるでこの事態さえも想定の範囲内であるかのようだった。
「しかし、これは馨にとって、悪いことばかりではないかもしれん」
「どういうことですか」
「馨は長い間、自分を二つに分けて生きてきた。商人の顔と、詩人の顔。その二つは決して交わらず、彼はその裂け目の中で苦しみ続けてきた。しかし、秘密が露見したということは、もう分裂を続ける必要がなくなったということでもある」
「でも、それで商会が——」
「そう、そこが問題だ」陳老師は茶を注ぎながら言った。「租界の商人たちは、詩の価値など理解しない。彼らにとって詩は、商売の役に立たないばかりか、害になるものだ。馨の詩がいかに優れていても、彼らにはわからない」
「ならば、わからせればいいのではありませんか」
皐月の言葉に、陳老師の手が止まった。
「説明してくれんか」
「馨さんの詩が、西洋の単なる模倣ではなく、漢詩の伝統を受け継ぎながら新しい詩の形を創造したものであること。それが、これからの日本の文学にとって、どれほど重要な意味を持つか——」
皐月は息を吸い、一気に続けた。
「それを、私の言葉で書きます。いえ、書かせてください。馨さんの詩の真価を、誰にでもわかる形で示したいのです。新聞記者の書いたゴシップ記事ではなく、本当の批評を——」
陳老師はじっと皐月を見つめていた。皺だらけの顔に、ゆっくりと笑みが広がっていく。
「面白い。いや、面白いだけではない。君は本気だな」
「本気です。でも、私にはまだ知識が足りません。漢詩の伝統も、西洋の詩の理論も、すべてが未熟です。だから老師——」
「私に教えろと?」
「お願いします。馨さんの詩の、本当の価値を証明するために」
陳老師は立ち上がり、書棚の間をゆっくりと歩き始めた。
「いいだろう。ただし、覚悟はあるかね。学ぶということは、なまやさしいことではないぞ」
「覚悟なら、とっくにできています」
「よろしい」陳老師は数冊の本を棚から抜き出し、皐月の前に積み上げた。「まずはこれからだ。李白、杜甫、王維——唐詩の精髄を学べ。これが漢詩の骨格だ。次に、宋詞。蘇軾、李清照——詩がより人間の内面に近づいた時代だ。そして——」
陳老師はさらに数冊を積んだ。
「西洋の詩論だ。ワーズワース、コールリッジ、ボードレール、ヴェルレーヌ——馨が影響を受けた詩人たちの言葉を、原書で読め。君は英語が読めるか」
「少しだけ。でも、フランス語は——」
「それなら、英語訳のあるものを選ぼう。何より大切なのは、詩が何を語っているか、ではなく、詩がどのように語っているか、を理解することだ」
「どのように——ですか」
「そうだ。詩の価値は、主題ではない。表現の仕方にある。同じ風景を詠んでも、凡庸な詩人と優れた詩人の間には、天と地ほどの開きがある。馨の詩のどこが優れているのか、具体的に説明できなければ、批評にはならない」
陳老師の言葉は厳しかったが、その目は温かかった。
「君は若い。だが、若さは弱点ではない。むしろ、感受性の鋭さという武器になる。私が教えられることは限られているが、少なくとも、馨が歩んできた道筋をなぞることはできるだろう」
その日から、皐月の猛勉強が始まった。
彼女は毎日、朝早くから聚珍書店に通った。陳老師は店の奥の小さな居間を勉強部屋として開放してくれ、朝から夕方まで、みっちりと講義をしてくれた。
「漢詩の根幹は何か。それは『情景の融合』だ」陳老師は語る。「李白の『静夜思』を見よ。『牀前明月光 疑是地上霜』——月の光と霜という二つのイメージが重なり合い、故郷への想いが自然に立ち上がる。説明はない。ただ情景があるだけだ。その情景が、読者の心の中で想いを結ぶ」
皐月はノートに必死に書き留めた。
「馨の詩にも、同じ技法が見られる。『瓦斯灯のにじむ霧の街 東洋の月は煤けて沈み』——ここには、租界の夜景という情景と、その中での自己喪失という想いが、一体となって立ち上がっている」
「たしかに——」
「これが、単なる模倣でない証拠だ。西洋の詩にはない、東洋独自の表現がある。馨はそれを、漢詩から学び、近代詩に蘇らせた。ここが一番重要な点だ」
陳老師は次に、馨が影響を受けた西洋の詩人たちについて講義した。
「ワーズワースは、日常の言葉で詩を書くことを提唱した。それまでの西洋詩は、貴族や教養人のための難解な言葉で書かれていた。それを、一般の人々が使う生きた言葉で書く——これが、近代詩の出発点だ。馨はその方法論を日本語に適用した」
「ボードレールは、都市の闇を詠んだ。パリの路地裏、貧困、退廃——それまで詩の題材にならなかったものを、彼は詩にした。馨もまた、上海の租界という人工的な都市の闇を詠んだ。それは、ボードレールの影響でありながら、単なる模倣ではなく、東洋の都市でしか生まれ得ない詩になっている」
皐月は、馨の詩がますます深く理解できるようになるのを感じた。今までは感覚的に「すごい」と思っていたものが、なぜすごいのか、具体的に言葉にできるようになってきた。
「老師、私は今まで、詩を感覚だけで読んでいました。でも、それでは駄目なのですね。なぜ優れているのかを、きちんと言葉にできなければ——」
「その通りだ。とくに、君が書こうとしている批評は、詩の価値を知らない読者に向けて書くものだ。感覚的な賛辞だけでは説得力がない。なぜ黄瀛の詩が新しいのか、なぜそれが東洋の近代詩にとって重要なのか——それを理詰めで説明しなければならん」
陳老師は眼鏡を外し、疲れた目をこすった。
「しかし、理屈だけでも足りない。最後に大切なのは、詩が人の心を動かす力を持っているかどうかだ。君が馨の詩に救われたように、他の誰かも救われるかもしれない——その可能性こそが、詩の最終的な価値だ」
皐月は深く頷いた。
「私は、そのことを伝えたい。馨さんの詩が、理屈ではなく、まず心を打つものであること。そして、その力の源が、東洋の伝統と西洋の革新を融合させた、彼独自の表現にあること——」
「それだ。それが言えれば、十分な批評になる」
陳老師は満足げに笑った。
「さあ、今日の講義はここまでだ。あとは、君自身が考え、書く番だ」
四
皐月が批評を書き上げるまでに、さらに一週間を要した。
題は『黄瀛詩論——東洋の心、近代の詩』。
彼女はその中で、馨の詩が単なる趣味の産物でもなければ、反西洋的な思想の表明でもないことを、一篇一篇の詩を具体的に分析しながら論じた。漢詩の情景融合の技法がどのように近代詩に生かされているか。西洋の自由詩の形式がどのように日本語の詩に適応されているか。そして何より、黄瀛の詩が、東洋と西洋の狭間で苦悩する現代人の心を、これまでにない言葉で表現していること——。
清書を終えた夜、皐月は陳老師の元へ原稿を持っていった。
陳老師は無言で読み進め、最後の頁を閉じたとき、深く息を吐いた。
「素晴らしい。私が言うのもなんだが、君はすでに一人前の批評家だ」
「そんな——」
「いや、お世辞ではない。君は馨の詩の本質を、これ以上ないほど明確に言葉にしている。これを読めば、少なくとも詩に関心のある人間ならば、黄瀛の価値を疑わないだろう」
「でも、肝心の相手は、詩に関心のない人たちです。租界の商人たち、銀行家たち——彼らに、どうやって届ければ——」
「そのことなら、私に考えがある」
陳老師は机の引き出しから一枚の名刺を取り出した。
「林泰輔という。上海で『亜細東時報』という中国語新聞を発行している。彼は中国文化の復興に情熱を燃やす男で、租界の西洋化に強い危機感を持っている。君の批評は、中国語に翻訳して彼の新聞に掲載してもらおう」
「中国語に?」
「馨の詩の価値は、日本人だけのものではない。漢詩の伝統を受け継ぐ中国人にも、同じように響くはずだ。そして、租界の中国人社会には、まだ文化を重んじる風潮が残っている。彼らが黄瀛の詩を支持すれば、日本人社会も無視はできまい」
皐月は名刺を受け取りながら、胸が震えるのを感じた。
「でも、翻訳は——」
「私がやる」陳老師はあっさりと言った。「馨のためだ。君のためだ。そして、この東洋の文化が、西洋の波に飲み込まれないために——私にもできることがあるなら、惜しまずにやりたい」
翌日、陳老師は皐月の原稿を中国語に翻訳し始めた。
それはただの翻訳ではなかった。陳老師は中国の読者に合わせて、漢詩の伝統との関連をさらに詳しく書き加え、黄瀛の詩が持つ東洋的な美意識をより深く掘り下げていった。皐月の文章を土台にしながら、陳老師の長年の学識が加わり、それは二人の合作と呼ぶべきものになっていった。
翻訳が完成したのは、さらに三日後のことだった。
「これを林泰輔に届けよう。彼なら、きっと理解してくれる」
陳老師は原稿を丁寧に包み、皐月に手渡した。
「あとは、君が直接、林のもとへ行くといい。若い女性がこれだけのものを書いたと知れば、彼もきっと興味を持つだろう」
皐月は原稿を胸に抱きしめた。
「老師、本当にありがとうございます。何とお礼を言っていいか——」
「礼などいらん。ただ——」
陳老師は皐月の目をじっと見つめた。
「馨を救ってやってくれ。あの若者は、才能がありながら、ずっと孤独だった。君のような理解者が現れたことは、彼の人生で最大の幸運だ。どうか、彼を見捨てないでほしい」
「見捨てたりしません。絶対に」
皐月は固く誓った。
五
『亜細東時報』の編集部は、共同租界の端にある小さなビルにあった。
建物は古く、外壁の塗装は剥げ落ち、看板の文字もかすれかけている。とても新聞社には見えないが、中に入ると、活字とインクの匂いが満ちていた。
林泰輔は四十代半ばの、痩せた知識人風の男性だった。丸い眼鏡、長い辮髪、藍色の長衫——外見は典型的な中国の旧式知識人だが、その目には改革者のような鋭い光があった。
「陳老師からの紹介かね。珍しいこともあるものだ。彼がわざわざ誰かをよこすとは」
林は皐月が差し出した原稿を、その場で読み始めた。
読み終えるまでの沈黙が、皐月には永遠のように感じられた。
「これは——」
林は原稿から顔を上げ、皐月をまじまじと見つめた。
「君が書いたのかね。こんなに若いのに」
「陳老師のご指導のもとで」
「いや、指導だけで書けるものではない。この詩への理解、批評の確かさ——君はただ者ではないな」
林は原稿を机に置き、腕を組んだ。
「だが、これを新聞に載せるとなると、それなりの理由がいる。私の新聞は、中国の文化復興を旗印にしている。日本人の詩人を取り上げるのは、建前から言えば筋が違う」
「でも——」
「しかし」林は手を上げて皐月の言葉を制した。「これが筋違いでないことは、私にもわかる。この詩人、黄瀛——いや、御厨馨は、漢詩の伝統をこれほど深く理解し、それを新しい詩に蘇らせた。こんなことができるのは、現代では彼をおいて他にいないかもしれない。彼が日本人であれ中国人であれ、そんなことは重要ではない。これは東洋の至宝だ」
林は立ち上がり、印刷機の並ぶ隣室へと歩いていった。
「今週の号に掲載しよう。一面は無理だが、文化面のトップを約束する」
「ありがとうございます!」
皐月は深々と頭を下げた。
「ただし、ひとつだけ警告しておく」林の声が真剣になった。「君はこれで、租界の日本人社会を敵に回すかもしれない。彼らは同国人のスキャンダルを暴かれることを何より嫌う。ましてや、中国語の新聞に反論を載せるとなれば、反逆者扱いされる可能性もある」
「覚悟の上です」
皐月の声は揺るがなかった。
「私が恐れているのは、ただひとつ——馨さんが、自分の詩の価値を永遠に知らずに終わることだけです」
林はしばらく皐月を見つめていたが、やがて満足げに頷いた。
「いい目だ。君のような若者がいるなら、東洋の未来もまだ捨てたものではないな」
六
黄瀛の詩を擁護する批評が『亜細東時報』に掲載されたのは、それから三日後のことだった。
記事は大きな反響を呼んだ。まずは中国文化人の間で話題になり、それが租界の知識人サークルを通じて、日本人社会にも徐々に広がっていった。
「『亜細東時報』に日本人の詩を擁護する記事が出た」
「しかも、かなり本格的な批評だそうだ」
「筆者は誰なんだ?」
「それが、匿名でね。ただ、陳文清老師の監修とある」
もちろん、それが皐月の書いたものだということは、ごく一部の人間しか知らなかった。翠蘭はもちろんだが、森田をはじめとする文学サロンの仲間たちにも、皐月は秘密を守るよう頼んだ。彼女は表舞台に出るつもりはなかった。大切なのは、馨の詩の真価が伝わること。それだけだった。
批評の効果は、ゆっくりとではあるが確実に現れ始めた。
まず、文学関係者たちが声を上げ始めた。上海で発行されている日本語の文芸誌が、黄瀛の詩を真剣に論じる特集を組んだ。そこでは、アーサー・ウィリアムズの記事が「詩の価値をまったく理解しないゴシップ」と断じられ、黄瀛の詩が東洋近代詩の重要な試みであることが強調された。
次に、租界の中国人商人たちが動いた。彼らの中には、漢詩の教養を深く持つ者も多く、黄瀛の詩に共感を覚える者が少なくなかったのだ。劉翠蘭の父、劉明徳もまた、光亜商会との取引を継続することを明言し、他の中国人商人たちにも呼びかけた。
「商売に詩は関係ない。むしろ、漢詩を理解する商人こそが、中国との取引にふさわしい」
劉明徳のこの言葉は、日本人社会にも重く響いた。
しかし、それでも——。
馨の窮地は、まだ完全には晴れていなかった。
一部の取引先は依然として強硬な態度を崩さず、銀行の融資も完全には回復していなかった。そして何より、馨自身がまだ立ち直れていなかった。
皐月が批評を発表してからさらに一週間が過ぎた。馨からは、依然として何の連絡もなかった。
七
五月の終わり、皐月はひとりで外灘を歩いていた。
夕暮れが近づき、黄浦江の水面が茜色に染まっている。対岸の浦東には、無数の小さな船が停泊し、その向こうには広大な田園地帯が広がっている——まだ開発される前の、古い浦東の姿だ。
この景色を見るたびに、皐月は馨の言葉を思い出す。
『境界の上にいるような気分になる』
今、彼女自身が、その境界の上に立っている気がした。馨を信じて待つべきか。それとも、何か別の行動を起こすべきか。何が正しいのか、自分でもわからなくなっていた。
田村家に戻ると、節子が一通の手紙を差し出した。
「光亜商会の方から届きました。皐月さんがお戻りになったら、すぐにお渡しするよう言づかって——」
皐月は手紙を受け取ると、自室に駆け上がった。
封筒の表には、震えた文字で「橘皐月様」と記されている。馨の筆跡だった。
皐月は封を切り、便箋を取り出した。中には二枚の紙が入っていた。
一枚目は、馨からの手紙だった。
橘皐月さん
君の批評を読んだ。陳老師が中国語版を見せてくれたのだ。何度も読んだ。読むたびに、涙が止まらなかった。
君は、私が自分でも気づかなかった私の詩の価値を、これ以上ないほど明確に言葉にしてくれた。私の詩が単なる模倣でも現実逃避でもなく、東洋の心を近代に蘇らせようとする試みだったことを、君は理詰めで証明してみせた。
ありがとう。この言葉では足りないほど、感謝している。
だが、その上で、私は決断しなければならない。
商会の状況は、まだ厳しい。君の批評のおかげで、いくつかの取引先は戻ってきた。しかし、失った信用のすべてを取り戻すには、まだ時間がかかる。そのためには、私自身が「変化」を示さなければならない——世間が納得する形で。
私は、詩を捨てることにした。
黄瀛としての最後の詩を、今日、発表する。同封したのがそれだ。これが、私の最後の詩だ。もう二度と、詩は書かない。そう決めた。
そして、君にも会わない。君と会えば、私はまた詩を書きたくなってしまうだろう。君の顔を見れば、君の声を聞けば、私はまた夢を見たくなってしまうだろう。だが、それはもう許されないのだ。
君には、君の道がある。詩人として、これから大きく羽ばたいていくべき人だ。私のような厄介者に、君の未来を曇らせる権利はない。
さようなら、橘皐月さん。君に出会えたことは、私の人生で唯一の、本当の幸福だった。
御厨馨
——黄瀛としては、これが最後の名乗りだ
皐月は手紙を読み終え、しばらくの間、呆然としていた。
それから、二枚目の便箋を手に取った。
そこには、こう書かれていた。
筆を折る
黄浦江の濁りよ さらば
瓦斯灯の霧よ さらば
詩など何の役にも立たぬと
二十歳の私は知っていた
二十六歳の私は それを忘れていた
ただ忘れたかっただけか
誰かの心に届く言葉など
もともとどこにもなくて
ただ自分が救われたかっただけの
言葉の羅列にすぎなかった
さらば さらば
二度とペンを執ることはない
黄浦江に沈めるは この筆と
使い古した我が心
流れよ 流れよ
海へ 海へ
名もなき詩人の最期を
誰も知らず 誰も悼まず
濁りの中に消えゆくのみ
黄瀛
皐月は、詩を読み終えた瞬間、声を上げて泣き出していた。
これが、馨の最後の詩だという。彼はこれで、筆を折ると宣言している。詩を捨て、皐月とも別れ、ただ商人として生きていく——それが、彼の選んだ道だというのか。
「そんな——そんなこと、許せない」
皐月は涙を拭い、立ち上がった。
馨の決断は、あまりにも悲しすぎる。自分の才能を殺し、自分を理解してくれた者からも遠ざかり、ただ義務だけを背負って生きていく——それは、生きていると言えるのだろうか。
「私が、何とかしなければ」
皐月は、馨の最後の詩を胸に抱きしめた。
この詩は、たしかに絶望の詩だ。しかし、皐月にはわかる。この詩の奥底には、それでも誰かに読んでほしいという叫びがある。本当に詩を捨てる気なら、こんな詩は書かない。書けるはずがない。最後の最後まで、彼は詩人なのだ。
「黄瀛——いえ、御厨馨さん」
皐月は窓を開け放った。初夏の風が、部屋の中に流れ込んでくる。遠くで、黄浦江を行く船の汽笛が鳴っていた。
「あなたは、まだ諦めていない。この詩が、その証拠です」
皐月は机に向かい、ペンを執った。
返事は詩で書く。馨が最後の詩を書いたように、自分もまた、詩で応える。
言葉は境界を越える。海を越え、国を越え、人の心を越えていく。
それが、詩の力なのだから。