醜と美そして陰謀論、を物語る。

立派であるからこそ敵視される

 
 反知性主義という言葉があるがあれは正確には「反知識人主義」としたほうが分かりやすいかもしれない。

  知性や知識なんかいらないという主張よりか、勉強をしその知性で以て立身出世し知識や道徳の解釈という権力を得て民衆に説教する一部の知識人に対するキャンセル活動であるとみたら「反知識人主義」な方が良いだろう。

 そしてそこには現代的な差別構造が存在している。差別は良くないと言いつつも心中どころか公然と私大卒を下に見る国大卒とかを見るに、そのあたりは人間はどう学んでもなかなかそこに気がつかないことも多々ある。

 勉強の出来でずっと差別されてきたものが知識人叩きに興じる、これもまた被差別階級による反発心からのカウンターと言ってもいいかもしれない。

 学校の先生を言い負かしたとかいう武勇伝を飲み会で繰り返し語りたがるあの人はそれが人生におけるハイライトだったのだろう。

 この反発心が上手い具合に活かせれば偉大さに向かえるかもしれない。

 このテツもまた兄へのうちなる反発心から勉学に励むという一面もあった。彼も思春期に入る、反抗期というわけだ。

 サビはその複雑な内面さはひとまず置いて、外面だけを見るとあまりにもきちんとした男である。強さと品行方正さが備わった礼儀正しき獣。猫被りそのものだが誰も文句はない、その顔以外。

 弟に対する態度もこれまた理想の兄でありテツ自身もそこに疑いはない。文句がない……いや、無いからこそ反発するのだ。男として又は王家の血が競争心を煽る。

 これは人間の逆説である。立派過ぎる人がいると、疲れ、またはうんざりする。彼の存在はこちらに訴えるのだ。お前は劣っている、と。偉人の子はろくでなし率が高めなのはそこも理由かもしれぬ。

 そうだとも、人は劣等感を抱かせる偉人が苦手である。だからあらゆる時代の偉人の欠点は大々的にとりあげられ忘れ去られずにそのまま残る。家康のお漏らしとか誤りだとしてもみんな忘れない。

 挙句の果てには欠点だけが残って業績が残らないなんてことも多々ある。三国志では顔醜ではなく顔良は名前のユニークさも加わり関羽の引き立ての斬られ役で馬謖は兎にも角にも山に登りたがらせられて他の良い部分は好事家以外では後世に伝わってはいない。

 それに何が善いのかは学ばねば分かりにくいが、何が悪いのかは学ばずとも分かりやすい。人を悪くみてミスを責め貶すのにはあまり知性はいらないが、人の善さをみて成功を認め褒めるのには知性が多少はいる。アドラー心理学がやけに流行ったのは人を褒めるなと主張していたためという独自見解。

 だからテツはサビの社会的な醜さと無学文盲さを兄に対する優劣感の元としだしていく。それは歳が長じるにつれて同じ男として兄を意識しだすからであった。

『兄さんは世間的には醜くて勉強ができない、だが僕はその逆だ。』

 こうなるまではもう少しである。同じ男として兄の庇護下のもとにはいつまでも居られない。しかも自分は王となり兄の上に立つものとなるのだ。心理面で負けてはならないし強気でないといつまで経っても下の弟のままだ。それは無意識にライバル関係と近い認識となる

 しかしサビの方はそういう意識はない。あるはずもない。

 自分の愛するものが自分に悪意を向けるはずだと思うはずもなく、そんなテツの思いなど想像もできず、サビは母同様に強く大きくなっていく。

 地元の青年団の中でも抜きんでた存在として戦士としては申し分ない。体格及び格闘技は誰よりもデカく強く一番上にいるような男となった。

 そしてサビは初対面の際は覆面はつけずに素顔でいつも相対する。これもまた誰もが怯んだ。反応で、分かるのだ。

 怯えぐらい制御できない感情も無いのではないか? 顔に恐怖が走るとか、もうその恐れとは自分とは独立したものであるからこそ走るという表現になるのかもしれない。

 仰け反り、震え、開く目蓋と口、そして漫画なら髪も逆立つしもしかしたら鳥肌も立っているだろう。

 そこにサビは満足する。あぁ今日も世界は正常であると。自分の醜さはいつも通りであり、狂ってはいない。

 もし自分の素顔を見て微笑むものがいたら、それは誤りであるし怪物であるしついでに世界は狂っていることになろう。

 テツという美だけがそれをする。もうそれで良いのだ。ただひとつの美によって認められるのなら俺はそれで良いのである。

 よってお前の反応はとても正しくそしてそうでなくてはならない。いまこちらの醜さが心に刻まれたのならもうそれで十分だ。

 ということでサビは覆面を被る。するとどうだろう、相手の表情は心底から安堵しているではないか。

 青ざめて失われていた顔色に血色が戻り笑わないまでも喜色満面とはまさにこのこと。

 分かっている、こちらを侮辱したいからそうしたのではないということを。自然とそうなったのだ。
「おい覆面を被るな、無礼だぞ」という反応は返ってこない。

 素顔のままでいろという要求も来るはずがない。むしろ被ってくれて感謝したいという気持ちの方が強いのだろう。

 こうして相手の心には自分の顔が印象に強く残る。よって素顔をそのまま見せる必要はないのだ。

 それどころか相手を怯ませまたは感謝されるという効果すら期待できる。

 なんとも便利なものだ。もしも自分が弱くて無礼であったらどうなるのだろう?

 迫害の対象になること間違いはない。だが自分は強くそして礼儀正しさを貫ける。

 そして美を崇拝してその為に生きる、誰にも邪魔はされないということだ。

 要は使い分けだ。強さも礼儀も醜さも上手く使うことで自分の要求を通すことが出来るということだ。

 こうしてテツとサビはそれぞれ独特の歪み方をしながら成長していく。

 まとめるとテツは表向きはカツテとクレナイのもとですくすくと勉強をして健やかに育っている。勉強はとてもできるし王族の礼儀作法も見事にこなしている完璧な王子様。兄弟仲もパッと見ではすこぶるいいぞ。

 サビは表向きは僕は勉強が出来ない状態であるが男としては立派に逞しく育っている。周りから信頼されており男の組織の上に立つに相応しいものとなりつつある。弟に全て捧げている。

 では裏側の深層心理ではテツは兄の醜さを嫌悪し無学文盲で見下しており男として自分の脅威だと感じつつある。

 その意味で王である親の血が濃いと言えよう。つまり母親の血は薄いといえるかもしれない、両親の血が相剋しあい二つの面を見せている。

 サビは覆面という道具を用いて他者の自分への認識を操ることに楽しみを見出している。お前は自分に怯えながら接するがいい、これである。

 身体的な暴力と心理的な暴力の組み合わせを駆使して他者の上に立とうとするその態度、母である妹と瓜二つといえる。

 こちらは父親の血の影響は限りなく0であり、母親の血が濃すぎるというところ。

 当然彼はテツの心など察しもしないで理解も出来ていない。彼のイメージは母姉妹のもとである。それ以外のイメージなど、ない。あってはならない……あるはずはないのだと。

 雌伏のときである兄弟の幼年期の終わり、そしてこれより例の王の時代の終わりへと視点が移動する。

 視点の移動先はあの追放されたというか自らをセルフ追放した第一王妃から見た王の物語である。

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