逃げられるものならお好きにどうぞ。
「あれ、黒瀬くん? 駅で待ってるって連絡くれてたよね?」
「うん。だけど早く会いたくて」
私と黒瀬くんの会話を呆けた表情で聞いていた林くんに「あの、先輩、この人は……?」と訊ねられる。
「あ、ごめんね。彼は黒瀬椿くんっていって、私の…」
彼氏なんだ、と。
妙な照れくささを感じながらも、別に隠す必要もないため正直に伝えたようとした言葉は、黒瀬くんの着ているコートに吸い込まれて、くぐもった音を出すことになった。
何故ってそれは、黒瀬くんに抱きしめられたからだ。
「あげないよ。――俺のだから」
頭上で黒瀬くんが、牽制するような声で言う。その声音からは、妙な威厳と落ち着きが感じられた。
その言葉のすぐ後、小さなリップ音を立てて、頭部に何かが触れた感触。
「……って、いたっ」
「……馬鹿。私は物じゃないからね」
黒瀬くんの脇腹のあたりを軽く叩いて、その腕から抜け出す。
「でも俺は、百合子さんのものだって思ってるけどね?」
「はいはい、そうですか。……ごめんね、林くん」
「い、いえ……」
林くんは、何だか蒼い顔をして黒瀬くんを見つめている。
けれどその視線をサッと逸らしたかと思えば、私たちに背を向けてしまう。