逃げられるものならお好きにどうぞ。


「あれ、黒瀬くん? 駅で待ってるって連絡くれてたよね?」

「うん。だけど早く会いたくて」



私と黒瀬くんの会話を呆けた表情で聞いていた林くんに「あの、先輩、この人は……?」と訊ねられる。



「あ、ごめんね。彼は黒瀬椿くんっていって、私の…」



彼氏なんだ、と。


妙な照れくささを感じながらも、別に隠す必要もないため正直に伝えたようとした言葉は、黒瀬くんの着ているコートに吸い込まれて、くぐもった音を出すことになった。

何故ってそれは、黒瀬くんに抱きしめられたからだ。



「あげないよ。――俺のだから」



頭上で黒瀬くんが、牽制するような声で言う。その声音からは、妙な威厳と落ち着きが感じられた。

その言葉のすぐ後、小さなリップ音を立てて、頭部に何かが触れた感触。



「……って、いたっ」

「……馬鹿。私は物じゃないからね」



黒瀬くんの脇腹のあたりを軽く叩いて、その腕から抜け出す。



「でも俺は、百合子さんのものだって思ってるけどね?」

「はいはい、そうですか。……ごめんね、林くん」

「い、いえ……」



林くんは、何だか蒼い顔をして黒瀬くんを見つめている。

けれどその視線をサッと逸らしたかと思えば、私たちに背を向けてしまう。

< 144 / 512 >

この作品をシェア

pagetop