逃げられるものならお好きにどうぞ。
「……はあ、分かったわよ。とりあえず、今日はもう帰るわ」
大きな溜め息を漏らした美代さんは、グラスの中身をグイっと飲み干して立ち上がる。
「百合子ちゃんも、またね」
やっぱり感情の読めない綺麗な笑みを浮かべた美代さんは、小さく手を振って店を出ていってしまった。
「お姉さん、送っていくからちょっと待ってて」
そう言って、黒瀬くんは奥の方に引っ込んでしまう。
スマホの画面を見れば時刻は二十時を過ぎている。気づけば黒瀬くんの終業時間もとうに過ぎていたみたいだ。
「お姉さん、お待たせ。行こ」
「……」
言いたいことをひとまずグッと飲みこみ、黒瀬くんに促されるまま席を立った私は、マスターにも声を掛けて店を出た。
けれど私たちがバーを出た後、店内に居た一人の男が、私たちを見てにやりと笑っていたことには――もちろんこの時の私が気づくはずもなく。
この時に気づいていれば、目を付けられなければ……数日後に“あんなこと”に巻き込まれることもなかったのかもしれないのに。