Fahrenheit -華氏- Ⅲ
『魚、と言えばアレ、人魚姫♪あんたあの話大好きだったじゃん?』
「ああ、アレね」
ええ、好きだった。人魚姫が助けた王子さまに会いたいがため、美しい声と引き換えに海の魔女にお願いして尾ひれを人間の足にしてもらい、王子さまのキスをしてもらうと人間になる、と言う。
「でも、心音がアンデルセンの話はもっとドロドロしてるって教えてくれて、ちょっと恨んだわ、あんたを」
王子さまは溺れて助けてくれた人魚姫に気付かず、あろうことか自分を助けてくれた修道女だと思いこんでいた彼は、人間になった人魚姫が声や顔かたちがその修道女に似ていて仕方なしに、人魚姫を妃に迎え入れようとしたのよね。
それでも近隣の王国の姫君との縁談が持ち上がり、その姫君こそ王子が想い続けていた女性だった(修道院へは修道尼としてではなく教養をつけるために入っていた)と気づいて、
予想だにしなかった想い人が縁談の相手の姫君だと知り、喜んで婚姻を受け入れて姫君をお妃に迎えた。
悲嘆に暮れる人魚姫の前に現れた姫の姉たちが彼女たちの髪と引き換えに海の魔女に貰った短剣を差し出し、王子の流した返り血を浴びることで人魚の姿に戻れるという魔女の伝言を伝えて
眠っている王子に短剣を構えるが、どうしてもできず、人魚姫は愛する王子を殺すことと彼の幸福を壊すことができずに死を選び、海に身を投げて泡に姿を変えた。
悲恋―――よね。
「その人魚姫が何か?」
あたしが目を細めて、流れる東京のネオンを…夜景を眺める。
この視界に映る世界は、人魚姫が憧れた人間の世界なのかしら。
キラキラと輝いていて、けれど
何と―――脆い。
手を伸ばせば手に届く。けれど声にはならない。
お互いすれ違って、
そのすれ違いに気付かぬまま
やがて泡と化す。