Fahrenheit -華氏- Ⅲ
「満羽っ!」
菅井さんが慌てて真咲のブラウスの袖を引っ張る。
真咲は長いスプーンの先で生クリームをつつくと、俯きながら言った。
「あたしもそうだった。
“別れたい”って言ったのはあたしだけど、いざ別れを持ちだされて焦った。でもあんたは頑なで
『ああ、終わっちゃったんだ…』て思ったら、急に体が冷たくなったの」
真咲は尚も生クリームをつついていて、形あったものが解けだして形を崩して行く。
「あたしたち、この生クリームみたいだったよね。最初はきちんと形があったのに、時間が経つとドロドロに溶ける……あとに残ったのは
甘ったるい記憶だけ」
俺は真咲の方を見て目を開いた。
「不思議なの……あんたと別れてあたし、悲しかったり怒ったり、思わなかった。
ただ、独りきりの週末に思い出すことは楽しかった記憶だけ」
ただ、楽しかった記憶―――
俺は目をまばたいた。
「大丈夫だよ」
真咲は溶ける直前の何とか形のある生クリームをとうとうスプーンですくうと、それを口にいれた。
「何の保障もないけどサ、あんたたちは大丈夫な気がする。
きっとやり直せるよ。
あたしだって―――あたしたちは元に戻らなかったけれど、でもあたしはこうやって違う形でも幸せを手に入れられた。
あんたたちは、
元に戻るよ」
真咲――――
「サンキュ、な。まさかお前に励まされるとはなー」
俺は手元に運ばれてきたコーヒーカップを手にとった。
まだカップから湯気が立ち上っている。猫舌な俺はそのカップをソーサーに戻した。
「ところで、それを言うためわざわざ?」隣に黙って俺たちの話を聞いていた菅井さんの存在を思い出し
「あ、いえ!本当は“これ”に署名していただきたくて」
菅井さんが取り出したのは一枚のA4サイズの茶色い枠の紙。
それはいつか真咲が置き忘れていった
『婚姻届』