Fahrenheit -華氏- Ⅲ


「紫利さん―――…?」


思わず驚いて足取りを止めたが、慌てて彼女の元に走り寄った。


「あの……どうして…ここへ?」


きちんと言葉にならず戸惑いながら彼女を見上げると


「昨日心音ちゃんから電話があったの。瑠華ちゃんに電話をしても繋がらないから心配だって」


心音―――……


そうだった…


掛け直す、と言ったのはあたしだけど携帯を壊しちゃったから…


「ごめんなさい、後で私からも―――」


「そうね、彼女も安心するかも」紫利さんはおっとりと微笑。


と言うのも、約一週間前にカードゲームのポーカーをやったとき心音が紫利さんに言っていたから。


『何かあったとき、瑠華を――――


守って欲しいの』


「あの……、お気持ちは嬉しいのですが…紫利さんだって予定があるのでは…心音の“あれ”は半分ジョークみたいなもので」


「大丈夫よ、私は暇な主婦だから」と紫利さんは明るく笑って手を振る。


暇な主婦―――と言うには随分艶やかな。


今日は先日の和服から一転、黒のノーカラ―のクチュールコート、ベルトの一部と裾の裏地がグリーンやネイビー、レモン色と言う組み合わせのプリント柄の洒落たアウターと、シンプルなホワイトパンツと言う姿。


「今から出勤?」そう聞かれ、条件反射に頷く。


「なら、私が送っていくわ」と紫利さんは車のキーを掲げ、瞬間、粋に手のひらで包む。


「い、いえ!そんな悪いです」


それは流石に悪い。慌てて断ろうとするも


「いいの、いいのー、暇な主婦だから」と紫利さんは軽い調子で言いあたしの背を押す。


紫利さんに押されながらロビーを通過する最中、カウンター内にウチヤマさんの姿を見つけ


「いってらっしゃいませ、柏木さま」といつもの調子できっちりお辞儀をされたけれど、やはり彼にもほっと安堵した表情が浮かんでいて


ああ……あたしは色んな人に迷惑を掛けてるんだ―――と


はじめて思い知らされた。


でも、同時に助けられてる―――とも思った。


紫利さんの温かい手、ウチヤマさんの温かいまなざし。


あたしは




独りじゃない?



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