Fahrenheit -華氏- Ⅲ
お会計はあたしが持つつもりだった。
けれど葵さんは、先ほどあたしが差し出した万札をレジに提出して
「あれだけの情報で“これ”は貰い過ぎだからサ」と明るく笑い、
「でも、おつりは貰っておいていい?」とこそっとあたしに耳打ち。
ちゃっかりしている。
あたしは一歩横に体をずらすと「好きにしてください」とそっけなく言った。
居酒屋から出ると騒がしい東京の街の喧騒が一気に耳朶を打った。
酔っぱらいなのか騒ぎ声が聞こえるし、あちこちのお店から色んな食べ物の匂いが混じってほとんど胃に入れていないあたしの体はそれだけで強張りそうだった。
思わず顔をしかめる。
「遅いし送ってくよ」と葵さんは言い
「いえ、結構です。タクシーを拾います」と軽く手をあげると
「そ?じゃータクシーが来るまで付き合う」と葵さんは明るく笑った。
このひとは―――、一体何がそんなに楽しいのだろうか。
いつも明るくて笑顔が絶えなくて、前向きで、自分の道を恥じることなく
笑えないジョークも、ほんの一瞬真剣な所も。
少しだけ―――
啓に似ている。
あたしったら……何でそんなことを…
思わず額に手を置くと、
ふわり
葵さんの腕があたしの肩に回った。
びっくりして顔を上げると
「酔った?大丈夫?」と心配そうにあたしを覗き込んでくる。
「平気……です。そもそも私はあれぐらいで酔いません」
体を押し戻そうとしたけれど、葵さんの体はなかなか離れて行こうとしなかった。
「葵さん―――合意の元でなければ、と言ったのは嘘ですか」と彼を睨み上げると
「合意とかの問題じゃなく、俺はただ瑠華ちゃんが心配だったの。嫌ならすぐ離すよ」
と、言葉通り葵さんの体はぱっと離れていった。
ほっと息をついていると
「瑠華ちゃん―――」
ここに来てはじめて真剣な葵さんの目があたしを捉え、あたしの耳元にそっと顔を寄せると
「何か焦げ臭い」
と一言。
あたしはここでようやく苦笑い。
「角煮を焦がしてしまったので」
「角煮?豚の?」
「ええ、豚の。失敗するの前提で安いものを買ったのですが、やはり失敗してしまって。男性ってやっぱりお料理上手な女性が好きですよね」
アンケートを取るつもりで気軽に聞いたつもりだった。
けれど葵さんは、にぱっと明るい笑顔で
「俺はどっちでも好き♪俺が好きになったら、料理上手でも下手でも」
……
聞く相手が間違っていた。