Fahrenheit -華氏- Ⅲ
紫利さんもどこか外にいるのだろうか、少し賑やかな声が遠くから聞こえる。
『ごめんね、電話出られなくて。今“お店”に居るの。ちょっと事情があって一か月程のピンチヒッター』と紫利さんは笑う。
ピンチヒッター…お店…
「あの!紫利さん」
あたしはほとんどモンブランに伸ばしていた手を引っ込めて勢い込んだ。
「11月11日金曜日、そちらのお店に神流グループの接待の予約とか入っていないですか?」と早口に聞くと
『私はまだ聞いてないけど。でも、もし予約が入ったのなら私も出勤だから協力できることがあれば協力するわよ?』
紫利さんの申し出にあたしは目の前に紫利さんが居る気がして、深々と頭を下げた。
「きっと入る予定です。そのとき紫利さんが彼らのテーブルに着くことはできますか?」
『ママに頼めば出来ると思うわ。重役の何人か顔なじみだし、贔屓にしてくれてたから』
「変なこと言うようで申し訳ないのですが、その場で話されていた内容、教えてくださいませんか」
電話の向こう側で一瞬の沈黙があった。
やはり、厚かましかったか…
けれど
『いいわよ、そう言う話聞きだすのは得意だし。任せて。どんな内容が知りたいの?』と聞かれ
「会社の内部事情です。この前話した派閥問題のことですが、神流派と緑川派がどれぐらいの対比なのか、大雑把でいいので知りたいのですが」
失礼も重々承知でお願いすると
『いいわよ。できるだけやってみるわ』と快く紫利さんは引き受けてくれた。
『あなたたちが―――……』
紫利さんは言いかけ、けれどその次の言葉を発することなく
『ごめんなさい、今仕事中なの。また分かったら電話するわね』
と一言言って電話は切られた。
『あなたたちが―――』
の後に紫利さんは何を続けたかったのだろうか。
“あなたたち”とは誰と誰を指しているのだろうか。