Fahrenheit -華氏- Ⅲ


紫利さんのおかげで何とか就業時間の十分前には到着できた。


「ありがとうございました」ときっちりお礼をすると


「いいのよ、ほらっ、間に合わないわよ?」と紫利さんは会社の建物を目配せ。あたしはもう一度小さく頭を下げると、慌てて正面ロビーに向かった。


紫利さんはあたしが会社に入るのをきっちり見届けて、車をUターンさせたようだ。


紫利さん―――


どこまでも優しいひと。


あたしたち、紫の君と明石の君になれたかしら。


いいえ、あたしは




紫ではない。



光源氏に見放された、憐れな女だ。



外資物流本部に何とか5分前に到着できた。


「おはようございます」


あたしの出社に最初に気付いたのは佐々木さんで、


「あ!柏木さん!良かった~」とほっと胸を撫で下ろしている。


啓とは、一瞬目が合った。


「お…はよ」とそっけなく一言言い、すぐにPCに視線を移す。


キュっと心臓が締め付けられた。今にも膝から崩れ落ちそうだ。


泣きそうになるけれど、こんな所で一々弱くなってはダメ。


そんなあたしの心情を全く気付いていないのか(いえ、この場合気付かれない方が良いけど)


どうやらあたしはいつもの無表情を壊していないようだった。


「珍しく遅いな~って思ってて、ちょっと心配になったから電話したんですよ、そしたら繋がらなくて…プライベート用と社内用と」


社内用にも?


あたしは慌ててバッグからもう一台の携帯を取り出すと、


あ…充電切れ…


「すみません、社内用は充電切れでした。プライベート用の方は……


昨日、家で転んだ時に壊してしまって」


あたしの完全なる嘘を佐々木さんは信じてくれたようで、


「え!転んっ!あ、だから手怪我しちゃったんですか?大丈夫ですか」と眉を寄せて心から心配してくれてる様子。


啓はまたも顔を上げ、その左右で違う色の瞳が一瞬切なそうに揺らいだ。


そのきれいな瞳の視線から逃れるように、あたしは佐々木さんに向き合い


「ちょっとした擦り傷です。でも見苦しいので包帯を巻きました」とこちらも嘘だけれど、佐々木さんも紫利さんと同様


「病院行った方がいいんじゃないですか」と眉を寄せる。


佐々木さん―――


優しいひと。


あたしは―――今日、ここに来るのがとても辛かった。


佐々木さんが居なければ、きっと来れなかったかもしれない。


「大した傷じゃないので。ご心配お掛けしてごめんなさい。携帯は新しいのを買います。連絡先のメモリはPCにバックアップをとっているので大丈夫です」


あたしは心から―――謝った。


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