Fahrenheit -華氏- Ⅲ


「何か?」と言う意味で目を上げると


「あのっ……そのっ……」佐々木さんはもじもじと俯きながら顔を赤くさせている。耳まで真っ赤だ。


「かっ…」佐々木さんが言いかけたときだった。




「瑠華ちゃん!」




聞き覚えのある声で呼ばれて、あたしは…佐々木さんも声がした方へ顔を向けた。


あたしたちの視線の行きついた先には、大きなバイクにまたがったヘルメット姿の―――男性?


と言うかあたしを『瑠華ちゃん』と呼ぶ男性は一人しかいない。


思わず目をまばたくと、“彼”はゆっくりとヘルメットを取り去り、綿あめのような淡いピンクの頭を軽く振り


「偶然~♪」


と手をひらひら、気軽に声を掛けてきた。


驚き過ぎて声もあげられない。


“葵さん”はハンドルに両腕を乗せ余裕のある表情でふわふわ笑っている。


あたしは「佐々木さん、すみません」と慌てて佐々木さんに断りを入れ葵さんのバイクに駆け寄った。近づくと思いのほか大きなバイクであったことにちょっとびっくりしつつ、それよりも怒りの方が(まさ)った。


「ちょっと!どう言うことですか、ここは会社の近くですよ。誰かに見られでもしたら」


と目を吊り上げると


「だからだよ、俺らが“親密”だって噂が流れれば空汰の気を引けるだろ?」


「そうかもしれませんけれど、二村さんの気を引く以前の問題です」


「何が」と葵さんはきょとん。


あたしは距離を置いた佐々木さんをふり仰ぎ、慌てて葵さんの方を向いた。


「二村さんだけじゃなく、ここには私の同僚もたくさんいるんです」



何より、啓に知られるのが―――


いや。



「だったら尚更、早く噂を速めてもらえるジャン」と葵さんはどこまでもお気楽。


このひとに何を言ってもだめだ、と早々に諦めたあたしは


「ありがたい申し出ですが、これは“契約外”です。あなたは私が連絡したときに来てくれるだけで結構なので」


とハッキリきっぱり言うと


「冷たいな~」と葵さんは肩を竦める。


「冷たい、冷たくない以前の問題です、とりあえず帰ってください。こちらは暇ではありませんので」と早口に言うと


「じゃぁ夜なら空いてる?」と小首を傾げる。


「夜は―――……」


考えていると


「空いてるってことだよね♪んじゃ夜にまた来る♪」と彼はヘルメットをかぶり


「あ、ちょっと…」と呼び止める間もなくバイクのスロットルを回し派手なエンジン音だけを残し去っていってしまった。


しまった…


あたしとしたことが。


慌てて佐々木さんを振り返ると、彼はぽかんと口を開いて葵さんが去っていった方を見やっていた。

< 209 / 608 >

この作品をシェア

pagetop