Fahrenheit -華氏- Ⅲ
瑞野さんは大きな目をちょっとまばたき
「あ、神流部長からどうぞ…」
「いや、瑞野さんから…」
と譲り合いをした結果、
「こないだの―――」
俺が切り出した。
「こないだの―――は…気にしないでください…」
瑞野さんは俯いた。
またも沈黙。
「ど、どっか行くの?」
またも耐えきれなくて俺が聞くと
「はい、専務がこの近くにあるカフェのほうじ茶ラテをお気に召されて、それを買いに」
「ああ、なる程。てか専務秘書は衛藤さんじゃなかった?」
「衛藤主任、本日お休みでして、代打であたしが」
なる程。
「衛藤さん、何で休みなの?」
「それが――…」
言いかけたとき、エレベーターが到達した。
ようやくこのキマヅイ雰囲気から逃れられる、と思った。エレベーターに乗り込み、俺は8Fのパネルを押した。瑞野さんは1Fだ。
ようやく解放される―――と思ったが、俺はやっぱり
『あたしは―――』の続きと
『どうして部長は柏木補佐と別れちゃったんですか』
の言葉の深意が気になる。
二村が何を計画しているのか、瑞野さんはどこまで知っているのか。
8Fに到達するまでの短い時間
「あのさっ!」俺はまたも自ら切り出した。
「はい」俺の勢いに押されてか、瑞野さんが若干後退しつつも目を上げる。
「こないだのランチ…何かごめんね。俺、短気なとこあった」短気なとこ、とはファミレスで大学生グループに啖呵を切ったことだ。
素直に謝ると
「いえ、ちょっと…嬉しかったです」瑞野さんはほんのちょっと顔を赤らめ
「お詫びと言っちゃなんだけど、今日飲みに行かない?今度は割り勘で。ランチ時は時間も限られるし」と申し出ると
「今日……ですか?」瑞野さんは目をぱちぱち。
8Fにはすでに到達していたが、俺は“閉”のパネルを押したまま、
「あ!急でごめんね。瑞野さんだって仕事や用事があるだろうし」慌てて言うと
「い、いえ!あたしは今日定時にあがれます。専務も今日はお暇なようで」
「そっか……じゃぁえっと…Apostrophe(アポストロフィ)で待ち合わせない?俺もなるべく早くあがるようにするから」
Apostrophe(アポストロフィ)と言うカフェは以前、俺と緑川、それから二村と瑞野さんと言う組み合わせでバッティングしたときのカフェだ。
あのカフェならお互い知ってるし、
「あ、はい!分かりました」と瑞野さんはこくこくと頷く。
「じゃぁ決まりね」と約束をして今度こそ“閉”パネルから指を離すと、扉が開いた。
扉の前に立っていたのは
二村だった。