Fahrenheit -華氏- Ⅲ
一通り話し終えて緊張が抜けたのか、急に空腹を覚えた。
今日はランチにバゲットサンドの半分だけだった。いくら気心の知れたおじさま相手だとは言え、ビジネスの……それもかなり激しめなやり取りをいくつも想定していたからあたしですら緊張して食事もろくに喉に通らなかった。
お腹もすくはずだ。
テーブルに乗せられた切り分けられたローストビーフを見て
「いただいても?」と一応伺うと
「勿論」とおじさまは微笑んだ。
薄くも無く分厚くも無くちょうど良い厚さに切られたローストビーフを一口口に入れると、それはとても美味しかった。
でも、この味―――
次にもう一枚いただくとき、小さなお皿に入れられていたソースを絡めて口に入れた。
赤ワインベースに数種類のハーブやスパイス、ニンニクと黒コショウが効いていて…
この味―――
啓と同じ味だ。
あたしは再びダイニングテーブルのワイングラスを見た。
赤い口紅のついた、一つだけ空のグラス。
あたしの視線がそちらに向いてるとは知らず、おじさまは俯きながら苦笑を浮かべている。
「しかし、啓人もこんなにステキな女の子と別れるなんて…な」
「別れたのはお互い本意ではありません(たぶん)」
「ああ、二村がさっきの稟議書をネタに啓人を強請ったんだろうが、何故君と啓人を別れさせる必要があったのか…」
「これはあくまで想像ですが、私、今副社長のお嬢様、葉月さんと仲良くさせてもらってます」
おじさまが顔をあげた。きょとんとしている。
「ここに何の陰謀も策略もありません。あくまで女子同士の悩み相談ですが、二村さんは怖かったのではないでしょうか。
私が葉月さんに何か吹き込んで、二村さんと別れさせようとしている、と。彼にとってそれが一番の恐怖。葉月さんに嫌われたり捨てられたりしたのなら、今までの努力が水の泡ですからね。
たとえ二村さんの計画がうまく行っても、彼は間違いなく出世コースから外されるでしょうし。
なので攻撃の矛先を私に向けると思ったのですが……そこは計算違いでした。
彼は啓に牙をむいた」
「なるほど…」おじさまは小さく唸った。
「瑞野くんは―――……」
「彼女もきっと二村さんの道具の一つなのか、と……最初は思っていましたが……最近ではよくわかりません」
あたしはふるふると首を横に振った。
「瑠華ちゃんにも分からないことがあるんだな」
あたしは眉を寄せて小さく頷いた。
「分からないことだらけです」