Fahrenheit -華氏- Ⅲ
「何なんだよ!」
廊下に出て俺は佐々木の手を乱暴に振り払うと
「どうもこうもありませんよ!噂になってますよ!」
噂……?何の噂?
「瑞野さんとのことですよ!」
言われて俺は目を開いた。
「お前は何を聞いたんだよ」顎を引いて聞くと、佐々木は周りをきょろきょろ人がいないか充分気に掛けながら、ひそっと俺に耳打ちしてきた。
「瑞野さんとキスしてた、とかホテルから出てきたのを見た、とか…」
「はぁ!?」
佐々木の言葉に俺は思いっきり大声で聞いていた。
「しぃーっ!」と佐々木が口に人差し指を立てる。
「ホントなんですか……?」
佐々木の問いかけに、俺はぶんぶん首を横に振った。
「事実無根だ。てか誰に聞いたんだ」
「誰に…てあちこちで噂されてますよ」
くらり
俺は眩暈を覚えた。
なるほど、今朝の視線の意味はそれだったか…
あの様子からして相当な範囲で噂が出回っているに違いない。
瑠華の様子からすると、たぶん噂には気付いていない。まぁ瑠華はそれ程親しい社員がいないから……
「教えてくれてサンキュな。でも俺はそんなことしてないし」
佐々木を見下ろすと(本人は睨まれてると思ったに違いない)
「ですよね……部長に限って、こんな身近で手を打つとは…」
あのな……!
怒りだしたいのを堪え、それを逆手に利用して
「当たり前だろ。いかにも重そうだし。何よりあの子は俺の親父の秘書だ、面倒このうえない」
佐々木、すまん。お前がいっときでも想っていた相手を『重そう』だとか言って。
けれど佐々木は気にした様子はなさそうで、
「……ですよね、僕も何かの間違いかと思いました」
「それに俺、付き合ってる女居るから」
今更だし、佐々木相手に噂の上塗りをしても仕方ないが、その場しのぎに
「お前だって会ったことあるだろ?五反田の駅で。
あの年上の美人」
紫利さん、ごめん―――…
俺は心の中で必死に手を合わせた。