Fahrenheit -華氏- Ⅲ
「何…?どうしたの…?」
と、給湯室を利用しようとして来た事務員の女の子たちが何事か目を丸めてあたしたちを見ている。
「柏木さん、ちょっと具合悪いみたいだから」と啓は焦ったように言い、「佐々木、柏木さんのバッグ頼む」と啓はあたしのバッグを佐々木さんに持たせ、「君は水を用意してくれ」とマナミさんに指示。
二人は弾かれたように「「はいっ!」」と返事をして、あたしは啓にとりあえず、と言った具合に所謂お姫様だっこと言う形かしら、その格好で抱きかかえられ一番近く空いていた応接室に連れていかれた。
「あの…柏木さんのバッグ」と言われるままついてきた佐々木さんが戸惑ったように、ソファに座らせたあたしと、その真正面で膝たちになった啓を困惑したまなざしで見やっている。
「ああ、悪い。そこ置いといて。お前は戻って電話番頼む」と佐々木さんを見上げ、
「はい…」と佐々木さんは心配そうにしながらも言われた通り帰って行った。
その後まもなく、グラスに入った一杯の水を持ってマナミさんが入ってきて
「ありがとう、あとは大丈夫だから、君も戻っていいよ」とマナミさんを力なく見上げると、マナミさんも不安そうにしていたものの、すぐに立ち去って行った。
改めて二人っきりになっても、啓は立膝をついたまま
「二村が何を言ったのか知らないけれど、
出回ってる噂は全部嘘だから―――」
と、俯くあたしの顔を覗き込むように静かに言った。
信じたい―――
けれど二村さんが言った言葉はハッタリでもなかった。実際あたしはこの目で啓と瑞野さんがほしの屋から出てくる場面を目撃している。
「―――信じて欲しい」
切実な声で啓の手があたしの手を触れようとして、けれどその手はあたしに触れることはなかった。
「ごめん……今はそれしか言えない」
「結構です」
あたしは短く返事をした。
啓が顔をあげる。
視線が合いそうになり、慌ててその視線を外したのはあたし。
「あなたがどこで何をしようが、もう関係のないことです」
嘘よ―――…
本当は気になって仕方ない。
どうしてあなたは隣にいてくれないの。どうして傍に居て手を握ってくれないの?
啓は唇を噛み、着ていたスーツの上着を脱ぐとそっとあたしの肩に被せた。
「薬も効くだろうし、落ち着いたらでいいから、戻っておいで?しんどかったら今日は早退していいから」
彼は悲しそうに微笑み、啓のスーツ越し、肩をぽんぽんと軽く叩き、応接室を出ていった。
行かないで
その言葉はとうとうあたしの口から出ることがなかった。