Fahrenheit -華氏- Ⅲ
怒り
焦燥
嫉妬
様々な複雑な感情は膨大なエネルギーとなって、それを仕事で発散させられた。いつもの三倍近くの集中力で三倍以上の早さで三倍以上の仕事をこなした。
仕事をしていると―――いっとき、色んなことを忘れられる。
結局、あたしには仕事しかないのだ。
定時を迎えて、
「柏木さん、今日は上がっていいよ」と啓がまだ心配そうに眉を下げながら言う。
今日どうしても片付けなければならない仕事はもうない。
「お気遣いありがとうございます。お言葉に甘えて。それでは私は」
これ以上、啓に心配させたくない。
そうなのか、これ以上心無い噂に惑わされたくない、どちらだろう。
とにかくあたしはこの日、早く帰ることに決めていた。
受付ロビーを出て、
「瑠華ちゃん!」
またも聞き慣れた声で呼び止められ、振り向かずともあたしは思いっきり顔をしかめた。
聞こえないフリで歩みを止めずにいると
「ちょっと、瑠華ちゃん!」と
葵さんが慌ててあたしの前に回り込んできた。一瞬だけ立ち止まったが
「会社の近くで私を呼び留めないでください」
そっけなく言って、また歩き始める。
「何か用ですか?」
「用もなにも、さっき空汰から電話きて、瑠華ちゃんが何か怒ってったって。『お前らホントにうまくいってんのか?』って疑われまくってさ~」
「それで?」あたしは前を向いたまま、歩みを止めることはなかった。
「とりあえず、普通に連絡取り合ってるって言っておいたよ。そんで前のオトコに未練があるのはしょうがないよ、だって日が浅いし、長期戦になるけど頑張るから、とか何とか言っておいたけど」
「そう、それなら良かったです」
「『良かった』じゃないよー、空汰に喧嘩売るなら最初から言っておいてよ。こっちはどうなってるのか分からず焦ったんだから」
葵さんは深くため息をつく。
あたしはここに来てようやく歩みを止めた。
「すみません」
確かに、連絡不足だった。ここは葵さんの切り替えしに感謝すべきだ。