Fahrenheit -華氏- Ⅲ
「と言うわけで」
コン……神来社支社長は空になった猪口をテーブルに置き
「私は緑川派に特に肩入れしていません。一応は緑川派になっていますがね。
家内は私が結婚する当時、まだ先代の常務で、そのときの神来社常務の娘だったのですが、これがまたまた器量の良い娘で、派閥がどうのこうの、政略結婚がどうとか、私にはどうでも良かった。
つまり、一目惚れだったんですよ」
神来社支社長は悪戯っ子のようにウィンクをしてみせて
「まぁ」と紫利さんが笑い声をあげた。
「藤枝さんあなたには適いませんが。と言う分けで私は緑川派にあって緑川派ではあらず、かと言って神流派でもない。
どちらでもないんですよ」
そう語った神来社支社長はどこか寂し気だった。
「そう―――…だったんですね…」
複雑過ぎる話を聞かされて何て返せばいいのか分からない。
「おや、啓人さんの酒も空じゃないですか」と神来社支社長が話を変えようとしているのかとっくりを手にする。
「あ、わたくしが」と紫利さんが手を差し伸べたが
「いやいや、是非私が」と支社長は紫利さんににっこり笑顔。
「兄はそれは野心家でしてね」
「知ってます」
自分の娘を俺に嫁がせようとしていたぐらいだからな、あのタヌキめ。
「11日の会席、兄は参加しないでしょう?」
そう聞かれて、確かに……と今更ながら思った。
「そう言う人なんです。風向きしだいでどうとでもなる。いざ、緑川派が不利になったら逃げるつもりでしょうね、『私は何も知らなかった』と」
「なるほど、だから会食の件も彼が不参加だった…」
「けれど副社長に忠実な“誰か”は居る筈です。その“誰か”は私にも分かりませんが」
それを探るのは流石の神来社支社長も無理だろう。
「会食の後、わたくしどものお店も利用していただけるようで、そのお話をお聞きしたときとても光栄に思いました」
紫利さんが支社長の猪口に酌をしながらおっとりと微笑んで
「ああ、確かに。あなたのお店でしたか。しかしあなたはご結婚されて引退なさったとか」
「ピンチヒッターですの。ナンバー1の…わたくしにしてみれば妹のように可愛がっていた子が諸事情によりお店をお休みすることになり、ママがわたくしを、と」
「それは楽しみだ」
神来社支社長はぐいと猪口を傾け
「ああ、それであなたが?」とここで納得したように紫利さんの方を見て微笑む。
「ええ、神来社支社長、あなたのお力添えをさせていただきたく存じまして」
「それは心強い」
「失礼も重々に申し上げます。
誰が緑川副社長の腹心の部下かそれを探るのは難しいと思いますが、どれぐらい緑川派が居て、さらに緑川派の人間の“穴”を知りたいのですが」
「スキャンダルを?」神来社支社長が目を上げる。
「ええ、どんな小さなことでも構いません」
「勿論、そんなことで良ければ引き受けますが、創立以来神流派と緑川派がひっくり返った歴史はありませんよ、今回もそうかと、
何故、そんなに慎重に―――?」
「今回ばかりは
とても難しいのです」