Fahrenheit -華氏- Ⅲ
「嘘?」
今度はもう一度口に出すと、葵さんは悪びれた様子もなく大きく頷いた。
何だって言うのだ。大急ぎで準備して普段は使わない車を飛ばしてきたって言うのに。
嘘をつかれたことにまず一番怒ったけれど、このしれっとした態度にまた腹が立つ。
「じゃぁ用はありません、帰ります」と葵さんを軽く睨み踵を返そうとすると
「待ってよ!」と葵さんはあたしの手を掴む。
ふいに掴れた腕。振りほどこうとする前に
「ほら、たまには息抜きも必要だよ?疲れてるでしょ」と、葵さんはにっこり微笑む。
―――確かに、疲れてはいる。
何故だろう。
葵さんの手は決して強引なものじゃないのに、振りほどけない。
温かい。
ニット越しに伝わってきた体温が
啓のそれとよく似ていた。
葵さんを見上げると、彼はあたしの態度にもめげずににこにこ。
色々―――根負けしたって言うのもある。
それに今、帰ったところでどうせ何もやることなく暇だ。
「分かりました。水族館、行きます。でも、手を離してくださいませんか」と言うと、葵さんはにぱっと笑顔を浮かべ、言われた通り大人しく手を離した。
水族館までの道のりは結構なものだった。
舗装されたアスファルトの広い歩道は水族館までまっすぐ続いている。その両脇に芝生や子供が遊べる滑り台や砂場、シーソーなどがあるちょっとした公園、恋人たちがくつろげるベンチがあちこちに点在している。
アイスクリームや、ホットドッグなんかのキッチンカーもたくさんあった。
「お腹すいてない?」葵さんはいくつかあるキッチンカーを眺めながら唐突に切り出した。
「はぁ…まぁ…」
曖昧に頷いたのは確かに空腹だったからだ。
昨日、緑川さんとカラオケボックスで…しかも申し訳程度に食べたシーザーサラダ以来何も口にしていない。
あたしの曖昧な返事を肯定と受け取ったのか
「何がいい?俺はポテトフライが食べたいな~」と一つのキッチンカーへと目を向ける葵さん。
青と赤、それから白と言うトリコロールカラーが鮮やかなキッチンカー。
ワゴンの屋根の上に、アメリカ国旗の旗が立っていた。
「…お任せします」
葵さんはあたしを近くのベンチに座らせ、彼は一人でキッチンカーに向かっていった。帰って来た時、葵さんはポテトフライだけではなく、フランクフルトの棒とドリンクだと思われる大きな紙カップも手にしていた。
「何が良いのか分からなかったから、とりあえずコーラにしてみた。好き?」と上目遣いで言われ
「ええ、まぁ」とここでもまたあたしは曖昧に頷いた。
今でこそ滅多なことがないと飲まないけれどNYに居たときは結構好きだった。
「良かった」葵さんは屈託なく笑う。
毎回思うけれどこの人は―――何が楽しくて、そんなに笑顔になれるのだろう。
あたしと居て―――つまらなくはないのだろうか。