Fahrenheit -華氏- Ⅲ
それどころか、葵さんはあたしの手を優しく握ってきた。
「手摺替わりに掴ってなよ、危ないよ」葵さんは屈託なく笑う。
手摺替わり……とは言っても…この態勢はちょっと…
「腰、細っ」と葵さんがぎゅっと力を入れたから、あたしは葵さんの体にすっぽり収まる形に。あたしは本気で葵さんの手に力を入れ彼の手から逃れた。
「セクハラです」と軽く葵さんを睨むと
「会社じゃないじゃん?それに俺ら同じ会社じゃないし」と屁理屈。
エスカレーターが二階に到着するとき、葵さんはようやくあたしの腰から手を離してくれるかと思いきやサっと階段を昇り、あたしの手を取り
「降りるのも危ないから、気を付けて」とまるでお姫様の様にエスコート。
「慣れてますね」思わず嫌味を言うと
「いや、俺が慣れてるわけじゃなく、瑠華ちゃんの元カレってきっとこんな感じなんだろうな~、って思って。向こう(アメリカ)じゃレディファーストが当たり前じゃん?」
元カレ…と言うのは啓じゃなく、きっとマックスのことを指しているのだろう、嫌味が通じない。
勘違いしてくれた方が都合がいいけど。
「まぁそうですね」
向こうじゃ当たり前のように男性がリードして、女性はそれを当たり前のように振舞う。そこに感謝や敬意はなく、ただ『当たり前』の習慣なのだ。
マックスがそうだったように―――
彼はあたしたちの関係が完全に崩れても、そのスタイルだけは崩さなかった。
今思い出してもしょうがないのに…
何故かふと思い出した。
そう言えば、前回の電話で意味深な発言をしていた。
『 I'm sure you'll come for me when I come to Japan.(君は俺が来日したとき絶対に“迎え”にくる)』
『You're gonna see your mom soon.(ユーリ、もうすぐママに会えるよ)』
何を考えているのだ、あの男も。
苛々した面持ちであたしはエスカレーターから降りた。