Fahrenheit -華氏- Ⅲ
葵さんはあたしの言葉を深く考えなかったのだろう。次のイルカの水槽のコーナーに促し、あたしたちはそこへ向かった。
イルカの水槽は2階と3階を吹き抜けで贅沢に使った空間の水槽だった。聞くと、屋上ではイルカショーが催されるよう。今はショーとショーの合間で、イルカたちは思い思い泳いでいる。
広いイルカの水槽の前、これまた広い階段が扇形に広がっていた。絨毯が敷き詰められていて、客たちがそこで腰を下ろしイルカの泳ぐ姿を眺めている。
「イルカショーまでまだだいぶ時間があるし、ちょっと休憩してく?」と葵さんは腕時計を見て提案してきた。
疲れてはいないけれど、透き通るようなブルーの水槽の中、自由に泳ぎ回るイルカたちを少しの間ゆっくりと眺めていたかった。
あたしと葵さんは並んで階段の中間地点で腰を下ろした。
観客はまばらで、ちらほらと家族連れやカップルたちがいるだけ。
緩やかに流れるBGMは水の音をイメージしているのかヒーリングミュージックだった。
ゆらゆらと揺れる水の中に差し込んだ陽光。イルカたちの優雅な泳ぎ。イルカの尾びれは―――何とも形容しがたい優雅なものだった。
さっきあたしが魅了されたピラルクとは違った魅力。
「イルカ療法って知ってます?」
あたしは優雅に泳ぐイルカたちを眺めて前を向いたまま葵さんに問いかけた。
「イルカ療法?」葵さんがあたしの横顔を見た気配があった。
あたしは何故―――葵さんにそう問いかけたのだろう。
「精神疾患を患っている患者にイルカを見せると、いっとき症状が和らぐとか」
前を向いてイルカたちを見つめながら言うと、葵さんも同じ様に顔を戻しイルカの水槽に目を向けた。
あたしたちはしばし無言でイルカたちが泳ぐ水槽を見つめていた。
思えば、葵さんと会ってから今の今まであたしたちは何らかの会話をしていた。無言の時間はこのとき初めてかもしれない。
「和らぐ?」
沈黙を破ったのは葵さんだった。その声はいつもの軽い調子ではなく、真剣な―――ものだった。
思わず葵さんを見た。
葵さんは声と同じく表情も真剣で、じっとあたしを見つめていた。
「どうしたんですか」と怪訝そうに聞いても、葵さんは真剣な表情を崩さず、ただじっとあたしを見つめながら、そっとあたしの結んだ髪のおくれ毛に手をやる。
その手はとても優しかった。
エスカレーターであたしを支えてくれた手。
いつもふいをついてあたしを抱き寄せる手。
葵さんの手は色んな顔を持っている。でも今の顔は―――今までとは違う。いつものフザケタ調子ではない。
「瑠華ちゃん―――……俺」
葵さんは何か言いたそうにしていたけれど、結局その手を引っ込めた。
「いや……何でもない」葵さんは顏を伏せた。
俺―――、の続きに何を言いたかったのだろう。