Fahrenheit -華氏- Ⅲ
ふいに葵さんがこちらを振り向いてきて、ドキリと何故か胸を強く打った。
あたしは―――未だに啓の横顔を、背中を、声を―――
香りを
見たり聞いたり、嗅いだりすると、胸が苦しくなる。
「………」
あたしが黙り込むと、
「恋、してるんだな~」と葵さんは足を投げ出す。
「え?」思わず顔を上げると
「仕事、好きなんでしょ?」
ああ、そっち……
「だから、俺を使ってお金払ってまで空汰の作戦を阻止したいんでしょ?
自分の”恋人”を守ろうとするために」
―――恋人……
啓―――
いいえ、葵さんの会話の流れからすると彼の指す”恋人”とは”仕事”のことなのだ。
あたしはまたも前を向き
「…ええ…でも、最近行き詰った気がして…少し―――疲れてます」
何だろう…飾らなくていいから、と言う理由以外であたしは素直に葵さんに心の内を話している。
「疲れたらさ、
ちょっと休憩すればいいんだよ」
葵さんがあたしの顔を覗き込み、にっこり笑顔を浮かべていた。
休憩―――…
「そりゃ瑠華ちゃんには時間がないかもしれないけどさ、今日ぐらい……一日ぐらいあれこれ考えず休憩したら?一日で何か変わるとは思えないし」
休憩……考えもしなかった。
ただただ、突っ走ることしか、考えていなかった。
そんなことを考えていると、
「ソフト、取り替えっ子しようか」と言ってきて、当たり前のように取り替える。
親しくない人とソフトクリームのシェアはいかがなものか、と思ったけれど
まぁいっか…
色々どうでもよくなってきたってのもある。
葵さんのペースについていけなくて疲れてたから、糖分補充にはちょうどいい。
ペロリとソフトクリームの側面を舐めると
「瑠華ちゃん」葵さんに声を掛けられ振り向くと、あたしの唇のすぐ横……本当に唇と唇が触れ合うと言うぐらいの距離でチュっとキスをされた。
「ちょっ!」
これには流石に怒って慌てて身を剥がすと、
「だって口元についてたから、ソフトクリーム」と葵さんは自分の唇の端を指で差し示す。
「だからと言って…!」とさらに目を吊り上げると
「あ、始まったみたいだよ、イルカショー」と葵さんがショーの水槽を目配せ。
突如として流れた大きなメロディに思わずそこに視線をやる。
葵さんが言った通り、イルカショーは開始されたようで
『皆さんこんにちは~!!』と元気なスタッフの女性がマイクを通して挨拶。
「「こんにちは~!」」」とあちこちから声があがり、
「こんにちは~♪」と葵さんも答える。
その無邪気な笑顔を見て何だか自分だけが怒ってるのがバカバカしくなった。
休憩―――か…
溶けたソフトクリームが指に流れ込んできて慌てて口に含む。
スタッフの女性の声掛けで三匹のイルカたちが一斉に泳ぎ出した。
あたしはソフトクリームが溶けるのも気にせず、そのイルカたちに目を向けた。