Fahrenheit -華氏- Ⅲ
お互いしばらくの間は黙々と食事を摂っていた。
だが、それも五分を過ぎると、普段より人が多い食堂の中、村木は慎重に声を潜め
「今度瓜生常務と食事をする機会を設けました」と一言。
え?
思わず振り返りそうになったが、慌てて前を向きカレースパのパスタをフォークに巻き付けた。
「”また”同窓会ですか?」
「嫌味な言い方をしないでください。気軽な感じのただの飲み会ですよ。先方は快く引き受けてくださいました」
「イチ社員のあなたが、常務と良くそんな簡単に約束を取り付けられましたね」
「”餌”を巻いたので」
餌?
「食事の後”マダム・バタフライ”に行きましょう、と誘ったのですよ。私も銀座の蝶とは面識があるので。なので、あなたの方から彼女に連絡を取って欲しい」
俺はカレーパスタを口の中に入れていた途中で、思わず吹き出しそうになった、が、慌ててそれを呑みこみ、水で流し込んだ。
「”餌”は紫利さんですか?彼女をこれ以上危険な目に合わせるわけにはいかないですよ」と低く言うと
「彼女には手を出させませんよ、ご心配なく。それに彼女もプロだ。うまくはぐらかせるでしょう。
それともあなたが銀座の蝶を盗んだこと、暴露して良いのですか」
これは、脅しなのか、そうじゃないのか。
はぁ
俺は深いため息を吐いて、フォークから手を離した。
カラン…と渇いた音が皿の上で跳ね返った。
「分かりましたよ。聞いておきます。でも
紫利さんに何かあったらただじゃおきませんからね」
「安心してください、心配ご無用です」
村木はあっさりキッパリと言い切った。
どっから出てくるんだよ、その自信は。
俺たちは今、背を向けて会話をしている。互いの目線はあくまで前を向いたまま。俺たちが会話をしているなんて誰も気付かないだろう。
まるでどこぞのスパイのようだ。