Fahrenheit -華氏- Ⅲ
仕事を再開させ、一段落すると夜も21時近くになっていた。
慣れないダイニングテーブルでの仕事で肩が凝った。腰も痛い。両腕を伸ばし、軽く伸びをしているとあたしの仕事用の携帯に
啓から―――…いいえ、”部長”から
”無事で何よりです。俺は諸事情に寄り、会社で寝泊まりすることになりました。
車で帰るより、こっちの方が安全だと思ったから。また明日、宜しく”
と返信があった。
「諸事情?何それ」一瞬冷めた視線が携帯を横切ったが、
けれど―――
―――啓が無事で良かった。
と、心底ほっとした。
あたしはやっぱり啓のことが大事で、こうやって返信が来たことがやっぱり嬉しくて
携帯をきゅっと握りしめた。
”大丈夫ですか?”
と、返信したかった―――
何度もその一言を聞きたくて携帯に指を滑らせ文字を入れて、けれど送信することはできなかった。
別れた女から心配されるのは、啓にとって重荷以外の何ものでもない。
これ以上―――嫌われたくない。
そんな臆病なあたしはたった一文さえ送れない。
「”また明日”かぁ…」
独り言を漏らし、
ふぅ…と小さく吐息を吐いた。
PiPi
今度は小さくPCから電子音が聞こえてきて、モニターの小さな窓に
リモート着信:心音
とあり、あたしは迷わずクリックした。
心音からリモートとは言え、今少し落ち込んでいた所だから電話がきて良かった。
「Hey!honey」相変わらずハイテンションな心音は今日は、中世ヨーロッパ風のドレスではなく、普通の私服だった。作業場なのか相変わらず乱雑な書類の山の中、回転椅子をくるくる回している。
「Hi,darling」
肩を竦めて冗談めかし言い唇を尖らせると、心音は手で口を隠すこともなく伸びをしながら欠伸。
時差を計算するとNYは午前7時だ。
「朝早くにごめんね」
掛けてきたのは心音だけれど、作業を依頼したのはあたしだから申し訳なく思って笑顔でウィンク。(※顏の前で手を合わせるのは、日本人しかしません)
心音は『OK~♪』と指で丸サイン。
『あんたの言う通り、Missキジマとユージにメールを送っておいたわ。今度はあたしのIPアドレスからじゃなく、海外のサーバーをいくつも経由してね。いかにも怪し気な文面で』
「ありがと、恩に着るわ」
『これで明日例のオークションが開催されること、ユージと……Mr二村には伝わったわね。何と言ってもMissキジマはMr二村にお熱だから♪』
「ええ、これで役者は揃った」
あたしはニヤリと口元に笑みを浮かべた。